灰の手で、もう一度世界を描く
気づいたら、あの世界から帰っていた。
記憶が灰のように指先に色を残し、大半がこぼれ落ちていく。
その手についた灰色が、あの素晴らしき色彩で彩られた世界の光を、少しずつ曇らせていく。
手のひらに残る灰へ、ありもしない色を描き足す。
それは、終わった世界をもう一度欺くための祈りのように。
──あの時、僕はまだ、あの世界にいた。
そうだ。僕はあの光の下で、幼馴染と結婚した。
投げられるブーケが、ゆっくりと宙を舞う。
その軌跡を目で追いながら、なぜか少しだけ泣きそうになっていた気がする。
名前を思い出せない仲間たちが拍手をしている。
みんな、よく笑う人たちだった気がする。
その笑い声が、まるで音楽みたいに式場を包んでいた。
白い光が窓から差し込む。
テーブルクロスの上を流れるワインの色が、夕暮れの海のようにゆれている。
誰かがスピーチをしていた。
「二人なら大丈夫だよ」
その声に、少しだけ時間が止まった。
薬指の指輪が光を受けて、微かに揺れている。
その輝きの中に、僕の顔が映っていた。
笑っていた。
確かに笑っていた。
誰もが羨む幼馴染が、僕の隣でその笑顔を見ていた。
「ねえ、緊張してた?」
「してたに決まってるだろ。だって、お前が綺麗すぎてさ。」
「またそうやって、すぐ茶化す」
「茶化してないって。ほら、見てよ。今だって心臓バクバクなんだから」
「……ほんとに?」
「ああ、ほんとに。ほら、触ってみる?」
「え、やだよ、みんな見てるのに」
「いいじゃん、夫婦なんだから」
「そういうとこ、変わってないよね。昔から」
「お前だって、俺が何言っても結局笑うだろ」
「だって、好きだから」
「……え、今さらそんなストレートに言う?」
「えへへ、言いたかったんだもん」
「やばいな、なんか今日が夢みたいだ」
「夢じゃないよ。ちゃんと現実だよ」
「……現実か」
「なに、急に真顔になって」
「いや……いや、なんでもない」
「これからさ、どうする?」
「どうするって?」
「旅とか、してみたい。あのときみたいに」
「また急にファンタジーみたいなこと言う」
「だって、世界を救った勇者と、彼の幼馴染の物語、続編があってもいいでしょ?」
「それ、もう終わったんじゃなかった?」
「終わってないよ。俺たち、やっと始まったんだ」
「始まった、のか……」
「うん、そう。これからは、戦いもないし、誰も死なない」
「……ほんとに?」
「ほんとだって。だってお前は俺の──」
「……ねえ」
「ん?」
「この先のセリフ、なんだっけ」
「え?」
「いや、なんでもない。ちょっと、頭がぼーっとして。」
「緊張しすぎたんじゃない?」
「うん、かも」
「でも、大丈夫。二人なら、きっと大丈夫だよ」
「……そのセリフ、さっきも誰かが言ってた気がする」
音が遠のいていく。
笑い声が水に沈むように、ゆっくりと消えていく。
「ねえ、覚えてる? あの夜、丘の上で言ったこと」
「丘?」
「うん、覚えてるよね? もし二人で生き延びたら、結婚しようって」
「……」
「覚えてないの?」
「……いや、覚えてる。覚えてるけど……」
「けど?」
「なんでだろ。景色が、思い出せない」
「景色?」
「うん。お前の顔は見えるのに、背景が全部、白い」
「……そっか」
「なあ、これって──」
「だいじょうぶ。何も考えなくていいよ」
「え?」
「ほら、笑って」
「……笑ってるよ」
「うん、知ってる。あなたはいつも、そうやって笑う人だから」
笑っていた。
それがどういう感情なのか、分からなかった。
笑うという行為が、体のどこで始まり、どこで終わるのか。
胸の奥が空洞みたいに響いて、音が遅れて返ってくる。
ひと呼吸ごとに景色が薄まっていく。
指輪を見た。
光が揺れていた。
それだけだ。
理由なんて、もう思い出せない。
人の声が遠くで重なっている。
祝福なのか、悲鳴なのか分からない。
同じ言葉が何度も繰り返されて、意味だけが剥がれ落ちていく。
「大丈夫だよ」
その言葉を、誰が言ったのかも思い出せない。
もしかしたら、誰も言っていないのかもしれない。
テーブルに指を置くと、冷たい。
指先の温度だけが、確かなもののようだった。
その冷たさのなかで、なにかが静かに壊れていく。
目を閉じると、すべてが静かすぎて、世界が呼吸している音が聞こえた。
先ほどの会話を思い出す。
「生き延びたら、結婚しよう」と。
──何と戦ってたんだ。
地平線の向こうで、黒い波が蠢いていた。
光の剣を握ると、掌に血の気が戻る。
それだけで、なぜかほっとする。
「隊長! 魔王の防壁、あと少しです!」
「押せ! 全力で押せ!」
「お前、また無茶言う!」
「無茶じゃない、勝つんだよ!」
叫びながら、どこかで冷静に考えている。
──僕は、こんな声を出す人間だったか?
誰かの魔法が炸裂して、空が裂ける。
爆風で髪が焼ける匂いがした。
その匂いの奥に、どこか鼻を刺すような匂いが混じっていた。
この世界で唯一感じる感覚。
「勇者! スキルを使え!」
「スキル?」
「お前の固有能力だよ! 時間を止めるやつ!」
「……そんなの、俺、持ってたか?」
「何言ってるんだよ! 何度も使ってきただろ!」
「……そう、だったか。」
言葉が宙に散る。
頭のどこかで、違う声がする。
(勇者……? 俺が……?)
「やっぱすげえな、勇者様! どんな攻撃も効いてねえ!」
「効かない?」
「そりゃそうだ、不死身なんだから!」
「……不死身」
胸を貫かれた。
血が出ない。
ただ、冷たい。
冷たいのに、感情だけが燃えていた。
「おい! お前、今刺されたぞ!」
「……ああ。でも、痛くない」
「当たり前だ、不死身なんだから!」
「そう……なのか。」
声が震えた。
自分の言葉が、まるで他人のセリフのように聞こえる。
仲間たちが一斉に走り出す。
彼らの輪郭が、白く滲んでいた。
その中で、彼女が振り向いた。
「行こう。終わらせよう」
「終わらせる?」
「うん、全部。これで最後だよ」
世界が鳴る。
何かが砕ける音。
あまりにも明るくて、視界が真っ白になる。
光の中で、肉体が崩れていく。
それなのに、なぜか懐かしい安堵があった。
──俺は、こんなところで、何をしてたんだろう。
──いや、最初からここにいたのか?
彼女が口を開いた。
その唇の動きは見えるのに、声が届かない。
──あの戦いのあと、仲間の顔をひとりずつ思い出そうとした。
覚えている。
確か、僕には仲間がいた。
心を通わせ、背中を預け合った、最高の仲間たち。
誰もが僕を信じ、僕も彼らを信じていた。
その関係だけは、本物だった。
──はずだ。
「おーい勇者! また空を見てるのか?」
豪快に笑う戦士。
日差しの反射で、鎧が光りすぎている。ただ、目は痛まない。
「また妄想でもしてたの?」
冷静で頭の回転が速い魔法使い。
薄い眼鏡の奥で、瞳が完璧な円を描いていた。
「今日も絶好調だね、勇者様!」
陽気な盗賊。
なぜか影がない。
地面に落ちるはずの足音も、すべて空気の中に吸い込まれていく。
「ほら、もう出発の時間だよ!」
ヒーラーの少女が微笑む。
その笑顔は、まるでテンプレートのサンプル画像のように均一だ。
歯並びが完璧すぎて、どこにも温度がない。
……完璧だ。
どこから見ても、理想の仲間たちだ。
「なあ、俺たち、ほんと最高のチームだよな!」
「当たり前じゃん!」
「そうそう、心が通じ合ってるもんな!」
「通じ合ってるに決まってる!」
「通じ合ってるね!」
「通じ合ってるよ!」
「通じ合ってる、よね?」
「うん、通じ合ってる」
同じ言葉が、少しずつ音程を変えて返ってくる。
笑い声が重なりすぎて、
音が分解されていく。
「勇者、今日はどこへ行く?」
「そうだな、次の村へ──」
「村? あったっけ?」
「あるよ。あるに決まってる」
「そうだよね。だって──」
全員が同時に言った。
「──だって、あなたが私たちを導くから」
空が瞬いた。
風が、止まった。
いや、最初から吹いていなかったのかもしれない。
足元の草が、まるで印刷したみたいに揺れている。
一面の緑が、数値のように均等だった。
「おい、勇者!」
「どうした?」
「お前、なんか元気なくね?」
「いや……ちょっと、思い出してただけだ」
「思い出す? 何を?」
「……仲間たちのこと」
「仲間たちなら、ここにいるじゃないか」
「そう、いる」
「いるよ」
「いるんだよ」
「ねえ、いるよね?」
「……いる」
彼らの声が波紋みたいに重なっていく。
同じ言葉が何度も広がり、世界の輪郭がそのたびに滲んでいく。
気づけば、空の色が変わっていた。
朝と夕方の境界がなく、
太陽が二つある。
それなのに影はひとつもない。
「……変だな」
「何が?」
「いや、なんでもない」
「行こう!」
「どこへ?」
「次の冒険だよ!」
「次の……?」
「うん。だって、あなたが私を作ったんでしょう?」
その瞬間、
世界が、ひとつ呼吸を止めた。
空が反転した。
仲間たちの顔が、ゆっくりと紙の裏側に沈んでいく。
言葉が順番を失い、意味だけが先に立ち上がった。
「……君は、描くことで、現実にない穴を埋めていただけなんだよ」
最初に口を開いたのは、剣士だった。
その声はどこまでも穏やかで、だからこそ残酷だった。
「でも、それを創造と呼んだ瞬間、君は神を演じ始めた。
理想という名の傷を、世界の皮膚に刻んでしまったんだ」
魔法使いが微笑む。
その瞳は水銀のように静かで、彼女が何歳なのかもわからない。
「君は、自分の欲望を虚構だと言って逃げた。
けれど虚構で心を埋めた時点で、もう理想を夢見る凡人から逃れられなかったんだ」
「欲望で描かれた理想はね、救済じゃないの」
ヒーラーの少女が続ける。
「それは、誰かの欲望をゆがめる。
君が見たい景色に、私たちは閉じ込められるの」
空がゆらいだ。
全員の声が同時に響く。
「君は、自分の欲望の狂気性に、責任を持てるの?」
「理想はね、人殺しと何も変わらないんだよ」
「理想は、違う現実を否定することでしか立ち上がれないから」
──音が止まる。
「ねえ、勇者」
盗賊の少年が、まるで教会の鐘のような声で言う。
「君は世界を救うために戦ったけど、本当は満たされた気分を得たかっただけだ。
それを救いだと呼ぶなら、麻薬と何が違うの?」
剣士が一歩近づく。
彼の影が、主人公の足元に溶け込む。
「世界は神が死んだが、悪魔も死んだことを知らない」
誰かが笑った。
それは泣き声とほとんど区別がつかなかった。
「不幸はね、平凡であることじゃない。
平凡じゃない生を送れると信じてしまったことなんだ」
「みんな、自分を神の末裔だと思ってる。
でも、神が居ないと信じ込み、その世界で神を演じるのは、滑稽だよ」
彼女の瞳が、主人公の視界のすべてを占める。
その奥で、言葉が止まらない。
「君は世界を測るために理性を持った。
でもその理性が、君自身を測り殺してしまった」
「科学が君を解剖しても、君は悲鳴を上げるだろう。
なぜなら、心という臓器を、まだ信じているから」
「賢い者は、信仰で苦痛を癒す。
愚かな者は、理性や仕事や進歩で誤魔化す」
「……」
「楽観主義はね、近代が発明した最も安っぽい宗教だよ。
古典には、そんなもの一つもなかった。
そこにあったのは、祈りでもなく希望でもない、理解不能な痛みだけだった」
声が増える。
輪郭が崩れる。
世界の座標が消える。
「フラストレーションはね、みんなが頂点を目指していい世界の代償なんだ。
でも頂点はひとつしかない。
だからこの社会は、敗者たちのピラミッドでできている」
主人公は口を開く。
「……もうやめてくれ」
誰もやめない。
声が増え続ける。
男女も年齢も溶け合って、世界そのものが語り手になっていく。
「君が信じた理想は、現実を殺した。
君が信じた現実は、理想を殺した。
君はただ、殺すことでしか、存在を確かめられなかった」
静寂。
一瞬、すべての音が吸い込まれた。
目の前のヒーラーが、優しく微笑む。
「うん。だって、あなたが私を作ったんでしょう?」
光が弾けた。
音が消えた。
世界の形が、白紙の裏へと反転した。
目を開けると、
机の上で紙が燃えていた。
炎は静かで、まるで呼吸しているみたいだった。
手を伸ばしても、もう何も掴めない。
灰が、空気の中に散っていく。
それが世界の最後の匂いだった。
あの界は、不眠の延長線にあった。
目を閉じてもなお、世界のざらつきを感じ取ってしまう神経が、ほんの一瞬だけ安らげる場所だった。
そこでは、時間が凍りつき、誰も僕を見つめない。
現実という名の悪夢から逃げるために、僕は言葉を紡いだ。
紙の上でだけ、世界は僕を許した。
誰も死なず、誰も苦しまない、完璧な調和。
けれどそれは、眠れぬ脳が自らに仕掛けた、極めて精密な鎮静の儀式だった。
あの世界に触れている間だけは、僕は世界が背を向けた後の世界を見ずに済んだ。
だが、その安堵の奥に、微かな震えがあった。
まるで、まばたきをした瞬間に、現実が崩れ、取り返しのつかない災厄が始まるのではないか——
そんな偏執的な恐怖が、僕を永遠に覚醒させ続けていた。
僕は、陰謀論者のような作家だった。
自分の言葉が世界の運命を左右するなどと、本気で信じていた。
眠らなければ世界が壊れると信じ、書かなければ現実が僕を殺すと信じていた。
それでも、あの世界に触れている時だけは、確かに静かだった。
思考が呼吸のように整い、紙の白さが、闇よりもやさしかった。
だから、僕は何度でもそこへ帰る。
滅びの後にも残る、あの無音の王国へ。
そこでは、言葉がゆっくりと光に溶けていく。
現実が再び背を向ける、その瞬間まで。




