【第十七話】かつての背中を追って
朝焼けが山を染めるころ、剣聖ゲルトの山荘には、もう鉄の音が響いていた。
薪を割る音ではない。岩を砕く音でもない。――剣を振る音だった。
カイ・レオンハルトは、汗まみれの顔に髪を張りつかせながら、黙々と木刀を振り続けていた。
その動きには、かつての凄みはない。しかし――どこまでも誠実だった。
「もう五百回は振ったろう。……まだやるか?」
背後から声をかけるゲルトは、腕を組んで立っている。その顔に、かつての弟子を見る懐かしさと、今の未熟さを見抜く眼差しが混じっていた。
「……あと三百。自分で決めた回数なので」
「ふん。意地を張るのは若さの証だが、無理をすれば怪我をするぞ」
「……昔の俺なら、もう千は振ってましたよ」
「それはな。昔の“お前”だ。今のお前が昔を語るな。口先ではなく、剣で語れ」
ゲルトの言葉は厳しかったが、どこか懐かしさがにじんでいた。カイは一つ頷くと、木刀を握り直し、再び静かに構えた。
(今の自分には、守れなかった重みがある……)
(今度こそ、守りきるために――)
剣は、過去を断ち切るためのものではない。未来を切り開くためのものだ。
【王都・第二師団詰所】
王都の空は青く澄み、衛兵たちの訓練の掛け声が規則正しく響いていた。だが、その静けさの中に一つの波紋が広がりつつあった。
「……第二師団副団長、リリア・ミレーナに伝達だ」
馬に乗った伝令兵が、重い封書を持って現れた。 リリアは黙ってそれを受け取り、私室へと入っていく。
封を切り、文を読み進めるうちに、彼女の表情は徐々に曇っていった。
「……“辺境の地リーヴェン周辺にて、未知の存在が活動中。調査隊を編成せよ”……ですか」
(やっぱり、あの場所は……)
あの日、騎士団を何も言わずに去った男――カイ・レオンハルト。彼が最後に姿を見せた場所も、リーヴェンに近い。
「まさか……まだ、そこに……」
呟きながら、彼女は剣に手を添えた。胸の奥にくすぶる感情は、怒りか、それとも――
(会って、問いただす……。どうして、何も言わなかったのか)
上からの命令とはいえ、リリアにとってこの任務は個人的なものだった。かつて尊敬し、憧れ、そして失った背中。もう一度、見つめ直す機会が――やってくる。
「気の流し方が乱れてる。振りの重さは十分だが、芯がずれている」
ゲルトの指摘は鋭い。しかし、カイの木刀を振る腕は止まらない。
「……今の俺にできるのは、これだけです。修正より、積み重ねが必要なんです」
「相変わらず真面目だな。だが、昔よりも無理をしなくなったな」
「……無理をして、守れなかったので」
そう言ったカイの目には、騎士の頃の輝きとは違う、静かな強さが宿っていた。ゲルトはそれを見て、何も言わずに一つだけ頷いた。
「――明日からは、剣を使わせてやる」
「……本当ですか?」
「ああ。ようやく“それ”を取り戻しに来た目になった」
ゲルトの声には、かすかな期待がこもっていた。 かつての教え子が、再び“戦う理由”を手に入れたその瞬間を。
リリアが率いる調査隊の編成は、すでに王都で進められていた。彼女自身が、現地指揮官となることは決定事項。
その出発の日は、刻一刻と近づいている。
そして、山奥で修行に打ち込むカイは―― まだ、その事実を知らない。
しかし彼の胸には、かすかな予感があった。
(……あいつと、また……)
風が吹く。山の空気は変わりつつある。
剣は、再び交差の時を待っている。