【第十六話】朽ちぬ炎のもとに
――その男は、静かな山の麓にひとりで住んでいた。
木々に囲まれたその地には、いまだ魔の気配はない。 鳥の囀り、清らかな川のせせらぎ、遠くで響く鹿の鳴き声。
長年この地で生きてきた彼は、自然の些細な変化を敏感に感じ取る力を持っていた。
そして今朝――風に乗って、わずかに“過去の香り”が混じったのだ。
「……来たか。やはりな」
ごつごつと節くれだった手で、男は静かに湯を注いだ。 その眼光は鋭く、しかしどこか懐かしげでもあった。
「どれだけ時が経とうが、あいつの足取りだけは、肌でわかる」
男の名は《ゲルト・ザクセン》。
かつてこの世界で“最強”と呼ばれた剣聖。
その名は、いまだに神話のように語り継がれている――
【再会】
山の小道を、一人の男が歩いていた。
剣と共にあり、戦いを経てもなお、背筋はまっすぐだった。
――だが、かつての輝きは、今はまだ戻っていない。
「……懐かしいな。あの時と変わらない」
門の前に立ったその瞬間、懐かしい声が飛んできた。
「ようやく来やがったか、馬鹿弟子め」
懐から手を振りながら、ゲルトが現れた。変わらぬ鬼のような風貌に、カイは小さく頭を下げる。
「……師匠。お久しぶりです」
「“お久しぶり”だと? 何年俺に手紙ひとつ寄越さなかった? ああ?」
拳骨が唸り、カイの頭に振り下ろされる――直前で止まった。
代わりに、ゲルトの手がカイの肩にぽんと置かれる。
「……ったく。今更何しに来やがった」
「鍛えてほしいんです。もう一度、剣を――人を守る力を」
その目を見て、ゲルトはふぅと煙草の煙を吐くように息を漏らす。
「覇気が抜けきってるくせに、面構えだけは戻ってきやがって……」
何があったのかはすぐには尋ねない。ゲルトには、それを“話す準備が整うまで待つ”器の広さがあった。
「おい、まずは村の手伝いだ。薪割り、畑の手入れ、老犬の散歩まであるぞ」
「……え? 鍛錬じゃないんですか?」
「馬鹿言うな。今のお前に剣振らせても、膝ぶっ壊すのが関の山だ。まずは体と根を戻せ。村の暮らしでな」
カイは口を開こうとしたが、師匠の一瞥で何も言えなくなる。
昔と同じ、あの“有無を言わせない視線”だった。
「それに……剣は心を写す鏡だ。戦うだけが修練じゃねえ」
薪を担ぎながら、畑に向かうカイ。 かつての“ただの村のおじさん”として過ごしていた日々とは違う。 この労働は、試されている。剣を持つ者として、心と体が――。
【あの頃の記憶】
夜。 囲炉裏の火がぱちぱちと音を立てていた。
カイは一人、外の星空を眺めながら、ふと過去に思いを馳せた。
(……リリア)
副団長だった少女――リリア・ミレーナ。あの頃、自分をまっすぐに慕ってくれていたあの少女。 どんな訓練も文句ひとつ言わずついてきた。
「団長!」と満面の笑みで走ってくる姿が、今も目に焼き付いている。
(勝手に……置いてきちまったな)
騎士団を辞めるあの日、彼女に何も言えなかった。 理由を説明する言葉も、勇気もなかった。
だからこそ、彼女はきっと――今でも自分を「裏切った」と思っている。
(どんな顔して会えばいいんだろうな……)
だが、再会は必ず来る。自分が騎士として再び立つならば――その時、あの瞳に何を映せるのか。
【そして、静かなる夜】
「ふん。明日からもっと重い仕事、回すからな。覚悟しろ」
ゲルトの声が響き、カイは微笑を返す。
「はい、師匠」
かつての弟子と師。失った強さと信念を取り戻すための、本当の修練が今――始まった。