9-扉の向こう側へ
――九月の朝は、思ったよりも涼しかった。
蝉の声は鳴りを潜め、代わりに街路樹の葉がすこしずつ色づき始めている。
駅へと向かう人々の背中に、秋が静かに忍び寄っていた。
カーテン越しの光にまぶたを刺されながら、賢はベッドから身体を起こした。
手足が少しだけ重かった。
でも、それを“嫌だ”とは思わなかった。
机の上には、昨日の夜に整えた鞄と、久しぶりに袖を通す学生服。
鏡の前に立ってネクタイを結ぼうとしたが、うまくいかない。
何度かやり直して、最後は少しだけ曲がったまま「まぁ、いいか」と鏡をにらむ。
「よし……」
小さく呟いて、賢はリュックを背負った。
リビングに下りると、母が驚いたように顔を上げた。
「……行くの?」
「うん」
それだけを答えて、靴を履く。
母は何も言わなかった。けれど、その視線が優しく揺れているのがわかった。
「……気をつけてね」
「うん」
ドアを開けると、少し冷たい風が頬を撫でた。
どこかで誰かが犬を連れて歩いている。遠くで自転車のベルが鳴った。
見慣れた街の朝。
でも、今日だけは何もかもが違って見えた。
通学路を歩く足は、はじめはぎこちなかった。
でも、家を出てしまえば、不思議と歩みは止まらなかった。
あの夏の日々が、背中をそっと押してくれていた。
サクラのあたたかさ。
良二の笑顔。
祖母の静かな強さ。
それらが、胸の中で確かな記憶として息づいていた。
学校の正門が見えたとき、足が一瞬だけ止まった。
けれど、今の賢は、もう逃げなかった。
吸い込む息を深くして、一歩を踏み出す。
昇降口に入ると、誰かとすれ違う。
知らない生徒。知っている顔。目を合わせない者。驚いたように見る者。
けれど、それもすべて――どうでもよかった。
もう、誰が自分をどう思うかではなく、
自分がどう在るかを考えるようになっていた。
靴を履き替え、教室の前に立つ。
ドアの向こうから、ざわめきが聞こえる。
笑い声、椅子のこすれる音、教科書のめくれる気配。
心臓が少しだけ早くなった。
けれど、決して嫌な緊張ではなかった。
“サクラ、見てるか?”
小さく心の中で問いかける。
あの日、川辺の木の下で見たサクラの最後の瞳が、ふいに浮かぶ。
“だいじょうぶ”と、あの目は確かに言っていた。
賢はゆっくりと手を伸ばして、教室のドアを開けた。
「……あ」
一瞬、教室の時間が止まったような気がした。
けれど次の瞬間、先生がこちらに気づいて言った。
「おう、賢。おかえり」
たったそれだけの言葉なのに、胸にじんと広がっていく。
教室の奥に目をやると、何人かの生徒がちらりとこちらを見て、また視線を戻した。
何も言わない者。目を伏せる者。少しだけ笑いかける者。
でも、それでよかった。
全部、受け止められると思った。
賢は空いている席に向かって歩き、鞄を下ろして椅子に腰を下ろす。
窓の外では、雲の切れ間から陽が差していた。
その光に包まれるようにして、賢は静かに目を閉じた。
*
昼休み。
机に顔を伏せていたとき、小さな声が聞こえた。
「……あの、賢くん。暫く、……どこか行ってたの?」
声の主は、前の席の女子だった。
以前は一度も話しかけてこなかった子。
賢は少し驚いたが、ゆっくりと顔を上げて頷いた。
「うん。田舎に、しばらく」
「へぇ、いいなぁ……私、ずっと家にいて、どこも行かなかったよ」
その言い方があまりにも自然で、賢は思わず笑ってしまった。
「それも、悪くないんじゃない?」
「ふふ、かもね」
その笑い声は、教室のざわめきに紛れていった。
けれど、それがなんだか――少しだけ、嬉しかった。
*
放課後。
下校の支度をしていると、カバンの奥から小さな音がした。
鞄を開けてみると、リボンの首輪の鈴。
田舎で拾った、小さな白い首輪。
持ってきたつもりはなかったけど、確かに聞こえた。
ちりん
――と、ほとんど聞こえないほどの音。
まるでサクラが「よく頑張ったね」と言ってくれたようで、賢はそっと鞄に手を当てた。
「……また会えるといいな」
誰にともなく呟いた言葉は、夕暮れの光に溶けていった。
空は茜色。
あの夏と、同じような空の色だった。
でも今の賢は、もうあの夏にはいない。
けれど、あの夏が確かに“今の自分”をつくったのだということを、知っている。
だから、大丈夫。
これからは、自分の足で、進んでいける。
ゆっくりと、正門を出る。
その背中に、あの白い猫が寄り添って歩いている気がした。
サクラ。
ありがとう。
君がいた、あの夏を、僕はずっと忘れない。




