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サクラと僕~君がいた、あの夏~  作者: 相田ゆき


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8-帰る場所

蝉の声が、少しだけ遠ざかった気がした。

暑さはまだ残っていたけれど、風の匂いが変わった。


あれほど賑やかだった夏の音たちが、ふと息をひそめたように思えた。


帰京の日は、突然決まったわけではない。

けれど、それはどこかで「そろそろだ」と自分の中で決まっていたことだった。


祖母は何も言わなかった。


ただ「荷造り、手伝おうか?」とだけ訊いてきた。


賢は「ううん、自分でやるよ」と答えた。


帰ることに迷いがなかったわけではない。


あの静かな家、朝の味噌汁の匂い、虫の声、サクラと良二と過ごした日々。

それらを背に置いていくことが、正直、少し怖かった。


でも、もう一度、自分の場所に戻ってみよう――


そんな気持ちが、ゆっくりと胸のなかに根を張っていた。


    *



 ――祖母の家を出る朝、賢は庭に立って、深く息を吸い込んだ。


空は高く晴れていて、山の稜線がくっきりと見える。

ふと視線を落とすと、縁側の柱の陰に、またあの白い毛が一房残っていた。

その毛も「サクラコレクション」として、小さな巾着袋に入れた。


風に吹かれて揺れているその様が、まるで「じゃあね」と言っているようで、胸の奥がじんわりとあたたかくなった。


「行ってきます」


誰に言うでもなく、ぽつりと呟いたその声に、自分でも驚いた。

それは、「ただいま」を前提にした言葉だった。


駅までの道は、祖母が軽トラックで送ってくれた。


途中、田んぼのあぜ道で、良二が立っていた。

大きく手を振って、帽子を押さえながら走ってくる。


「けんにいちゃーん!!」


車が止まると、良二が息を切らして窓のそばにやってきた。


「ねえ、また来る? 来年も来る?」


「……さあな」


そう答えながらも、賢は笑っていた。

笑うことが、もう自然になっていた。


「手紙書いていい?」


「字、読めんのかよ」


「書けるもん! 『けんにいちゃんげんきですか』って、ちゃんと書く!」


「じゃあ、楽しみにしてる」


賢はそう言って、窓越しに拳を突き出した。

良二が嬉しそうに自分の拳をぶつけてくる。


「……またな」


「うん、またの!」


トラックが走り出し、良二の姿が遠くなっていく。

でもその声は、しばらく耳の中で残っていた。


駅前に着くと、おばあちゃんは僕をぎゅっと抱きしめた。


「何かあって嫌になったり、会いとうなったら、またおいで」


「うん、おばあちゃん。大好き、ありがとう……」


「これ、持って行きんさい。またサクラに遭うたら付けてあげたらええ」


おばあちゃんは白い袋を渡してきて、サクラコレクションに入れるように言った。


電車に揺られながら、窓の外に流れる景色を眺めていた。


山々の影が遠のき、やがて畑が消え、建物が増え始め、ビルの影が近づいてくる。

東京が近づいてくるにつれ、車内の空気も少しずつざわついてくる。


だが不思議と、賢の心は静かだった。


帰りたくないという気持ちよりも、「帰っても大丈夫かもしれない」という思いのほうが、今はほんの少しだけ強かった。


ふと、バッグの中から、サクラコレクションの袋を取り出した。


祖母がこっそり渡してくれた包み。

中には、新品の白いリボンの首輪が入っていた。

古い方の首輪と新品の首輪を二つ並べて鳴らしてみる。


ちりん――

それはまるで、サクラの声のように思えた。


“もう、だいじょうぶ”


そんな気がして、賢は小さく頷いた。


    *



東京の駅に着いたとき、街の喧騒が一気に身体にまとわりつく。

人の多さ、音の洪水、雑踏の熱気。


ほんの数週間前までは、何の疑問も抱かなかったこの景色が、少しだけ違って見えた。


「賢!」


改札口で、母が手を振っていた。

少しやつれたようにも見えたが、その顔には安堵が浮かんでいた。


「……おかえり」


その言葉に、賢はわずかに肩の力を抜いた。


「ただいま」


それは、心の底から出た言葉だった。




 家に戻ると、自分の部屋が少しだけ狭く感じられた。

けれど、懐かしい匂いがあった。


荷ほどきもしないまま、ベッドに横になる。

窓の外からは、車の音や人の話し声が混じった、都会のざわめきが聞こえてくる。


でも、耳の奥にはまだ、あの夏の音が残っていた。


蝉の声、風鈴、サクラの小さな足音。

そして、良二の明るい笑い声。


目を閉じれば、すぐに思い出せる。

そう思えるだけで、胸の奥にひとつ、灯りがともっているような気がした。


“君がいた、あの夏”


それはもう過ぎた季節かもしれない。


けれど、確かにそこにあって、自分を変えてくれた季節だった。


その記憶を胸に、また少しずつ、前を向いて歩いていこう。


そんなふうに思えた帰り道だった。




 


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