7-朝の光のなかで
――朝が来た。
窓の外から聞こえるのは、静かな雨だれの音だけだった。
昨夜の嵐が嘘だったかのように、空は薄く晴れ、遠くの山に朝霧がゆらゆらと立ちのぼっていた。
賢は、布団の中でしばらく天井を見つめていた。
頭の中が静かすぎて、逆に心がざわめいた。
夢だったのかもしれない――
そう思いたかった。
でも、レインコートに染みついた泥のにおいが、まだ鼻の奥に残っていた。
枕元には、昨夜祖母が黙って置いていったタオルと、熱いお茶の入った湯呑み。
冷めきっていたけれど、その心遣いが胸に沁みた。
ゆっくりと起き上がり、賢はふすまを開けて縁側に出た。
外の空気は、ひんやりとしていて、どこか新しかった。
濡れた庭の草、風に揺れる木の葉、濁っていた川の水も、少しだけ落ち着きを取り戻していた。
ふと、川沿いの土手の方に視線をやる。
そこには、何もいなかった。
白い毛並みも、金色の瞳も。
「……そっか」
ぽつりと声が漏れた。
涙は出なかった。
泣けるほど、まだ実感がなかった。
それでも、胸の奥に空いた穴のようなものが、はっきりとそこにあった。
足元に目を落とすと、縁側の柱の陰に、小さな白い毛が一房落ちていた。
風に乗って運ばれてきたのかもしれない。
賢は、それをそっと手に取った。
手のひらの上で、柔らかな光を帯びるようなその毛が、まるでサクラの温もりを最後に残してくれたような気がして――ふっと、微笑んだ。
「ありがとう、サクラ」
言葉にして、やっと少しだけ、呼吸が深くなった気がした。
そのとき、背後から祖母の声がした。
「……あの子は、賢を迎えに来たのかもしれんねぇ」
振り向くと、祖母はいつもの割烹着姿で、湯気の立つ味噌汁を盆に載せていた。
「迎えに?」
「そう。……昔もね、おばあちゃんがひとりで泣きよったとき、不思議とあの猫が現れたの。
いつも決まって、ひとが寂しいときに、そこにおるの。
でも、誰かが前に進めるようになると、ふっと姿を消すんじゃよ」
そう言って祖母は、そっと微笑んだ。
「寂しいけど、きっと、あの子はもう安心したんよ。賢がちゃんと、自分の足で歩けるようになったけぇ。」
言葉が、胸にじんと染み込んでくる。
サクラは、ずっと自分の隣にいてくれた。
何も言わず、ただ見守ってくれていた。
そして今、姿は消えたけれど、確かに何かを残していってくれた気がした。
あの金色の瞳が、最後にこちらを見ていたときの静けさ。
あれは、たしかに「さよなら」じゃなかった。
それは――「だいじょうぶ」という、最後の言葉だったのかもしれない。
温かいお茶の湯気を口に含みながら、賢は静かに思った。
これから先、きっといろんなことがある。
また怖くなったり、誰かに傷つけられたり、自分が嫌になったりするかもしれない。
けれど、ひとりじゃないと、思える。
そう思えるだけで、こんなにも違うのだと、今ならわかる。
もう一度、学校に行ってみよう。
そう決めたわけではなかった。
けれど、心のどこかで「行けるかもしれない」と思える自分がいた。
それだけで、十分だった。
食後、賢は桜の木のある川辺へと歩いた。
泥のぬかるみもすっかり乾き始めていて、蝉が鳴き始めていた。
そして――木の根元に、小さな首輪が落ちていた。
真っ白なリボンに、古びた鈴がひとつだけついている。
賢はそっと拾い上げて、手のひらの中で鳴らしてみた。
ちりん――と、ほとんど聞こえないほどの小さな音が、夏の空に溶けていった。
「……サクラ、見てるか?」
風が吹いた。
それはまるで、返事のように優しかった。




