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サクラと僕~君がいた、あの夏~  作者: 相田ゆき


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6/9

6-台風の夜

 ――その日は、朝から風が重たかった。


空は薄曇りで、風がときおり木々をざわつかせる。

田んぼの稲も波のように揺れていた。


「台風、来とるみたいじゃのぉ」


朝食の席で、祖母が新聞をたたみながら言った。


テレビでは、九州地方に上陸した台風が、夜にはこの辺りを直撃すると伝えていた。

「今日は外に出ないように」と繰り返すアナウンサーの声が、妙に遠く聞こえた。


午後になるにつれて風は強くなり、空はどんよりとした灰色に覆われた。

雨も降り出し、屋根を打つ音が次第に大きくなっていった。


賢は、ふすまの向こうの縁側から外を眺めていた。

木々がざわざわと鳴き、葉が吹き飛ばされ、風鈴は激しく鳴っていた。


そして、祖母が電話を受け取ったのは、ちょうど夕食の支度をしようかという頃だった。


「……え? 良二くんが?」


声が急に鋭くなる。

賢は思わず立ち上がった。


「はい、はい……わかった。うちでも見よるら、すぐに連絡するけぇの」


電話を切った祖母は、険しい顔で振り向いた。


「賢、今日良二くんに会うた?」


「……いや。今日は来てない」


「そう……さっき、お母さんから連絡があってね。良二くん、夕方から姿が見えんのじゃって」


「え……?」


心臓がどくん、と大きく脈打った。


「外はこの雨と風じゃろう? みんなで手分けして探しよるけど、まだ見つからんみたい。どこぞに隠れて雨宿りしとるとええけど……」


言葉の先が、祖母の口の中でしぼんでいく。


「……川かもしれない」


賢の口から、とっさに出た言葉に、祖母は目を見開いた。


「川? この天気で?」


「良二、前に言ってた。“へんな音が聞こえる場所がある”って……川の下流の橋のあたり。夜になると探検するんだって」


「でも今は外に出るのも危ないけぇ。大人に任せた方がえぇ!賢!!」


「俺、行ってみる!」


「賢!帰ってきんさい!賢!!」


祖母の声を背中で聞きながら、賢は玄関に向かって駆けた。

長靴を履き、レインコートを羽織り、懐中電灯を手にする。


外に出た瞬間、顔に叩きつけるような雨と風。

それでも構わず走り出す。


びしょ濡れになった道を、賢は下っていった。


土手に出たとき、川はすでに濁流となり、信じられない速さで流れていた。

水かさは増し、岸の草が波にのまれかけている。


「良二ーっ!!」


懐中電灯を振り回しながら、橋の方へ向かう。

息が上がり、足が滑りそうになる。


そして、そのときだった。


「けんにいちゃんっ!!」


その声は、確かに聞こえた。

川の向こう――古い木の橋の下、斜面の小さな空間に、良二がいた。


「動くな!! そっち、危ない!!」


「でも……サクラが!」


「え……?」


目を凝らすと、良二の隣には白い影があった。

びしょ濡れになりながらも、じっと良二のそばに座っている、サクラの姿だった。


「風が強うて、戻れんようなったんじゃ……サクラがここにおって……わし、怖くなくて……でも、怖くなってきて……!」


その声に、賢の中で何かがはじけた。


「待ってろ、今行く!」


土手を駆け下りる。

斜面はぬかるみ、足が取られそうになる。


橋の下に身をかがめながら、良二の手をつかんだ。


「大丈夫、行ける。俺がいるから」


「サクラは……?」


その瞬間、川の上流から鉄砲水が見えた。

サクラは静かに、ぴたりと賢の前に立った。金色の目が僕を見ている。


そして――次の瞬間、背中で賢と良二を押し返すように、一歩、川へと踏み出した。


「……サクラ?」


ざあ、と風が鳴った。


白い体が、水しぶきの中に溶けていく。


「サクラ!!」


叫びながらも、賢は良二を抱えるようにして斜面を駆け上がる。

賢は良二を安全そうな場所に置くと、サクラを追いかけた。


「サクラーッ!!」


全身が泥だらけになり、息が切れ、視界が滲む。

とうに見えなくなったサクラを追いかけ、下流に向かって走る。


「サクラァアアア!!いやだ!!行かないでくれ!!!!」


涙が止まらなくなり、それでも賢は走り続けた。


「サクラァァアアアアア!!!!」


鉄砲水の力はもの凄かった。まるでサクラごと何もかも流してしまいそうな勢いだった。


「サクラァアアアッ!!行っちゃいやだ!!サクラァァアアアアア!」


喉が掠れる。けれど、賢は最後までサクラの名前を呼び続けていた。


「サクラァァァアアアアアアアア!!戻ってくれ!サクラァァアア!!!!」


ようやく土手に戻り、仰向けに倒れ込んだとき、良二が泣きじゃくっていた。


「サクラ……ひっく、ぼくたち、助けてくれんさったのに……ひっくひっく」


賢は何も言えなかった。


ただ、あの瞳が最後にこちらを見ていたことだけを覚えている。

まるで、「もう大丈夫」と、そう告げていたようだった。


雨が強く降り続ける中、サクラの姿は、もうどこにもなかった。


    *


 村の人々が駆けつけて、賢と良二は無事に保護された。


良二は軽い打撲で済み、病院にも行くことはなかった。

大人たちは「よく無事だった」と安堵し、「サクラって猫がついてきてたんだって?」と不思議そうに言った。


でも、誰もその姿を見た者はいなかった。



あれは、本当に猫だったのだろうか――


そう思わずにはいられなかった。


賢は、その夜ずっと眠れなかった。

頭の中で、何度もサクラの目が浮かんでは消えていった。


静かで、あたたかくて、

それでいて、どこまでも遠い光のような――


あの夏のなかで、サクラはいつも自分を見てくれていた。

何も言わず、ただ隣にいて、必要なときにそっと背中を押してくれていた。


それがどれほどの救いだったか。


賢の胸の奥に、しんとした痛みと、静かな祈りのような感情が広がっていた。

 


 


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