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サクラと僕~君がいた、あの夏~  作者: 相田ゆき


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1-いじめ・不登校からの出発

いじめの描写があります。フラッシュバック等を起こす方はご注意下さい。

 「……また無視された」


放課後の廊下。誰もいなくなった教室に、(けん)はひとり立ち尽くしていた。


教科書のページには、今日も誰かの悪戯で赤いペンが走っていた。

「バカ」「いらないやつ」「きもい」

雑に書きなぐられた文字が、目の奥に焼きつく。


机の中には、粘着質なガムが押し込まれていた。椅子には画鋲。水筒は開けられ、机の上を濡らしていた。


怒られるのは、いつも賢だった。


「先生、また机が濡れてるんですけど」

「水筒のフタ、ちゃんと閉めた? 前にもあったよね、こういうこと」


そのたびに、誰かの口元が歪む。

クスクスと押し殺した笑い声が背中に突き刺さる。


 ――なにもしていないのに。


 ……なにも、していないのに。


ふと、窓の外に視線をやると、グラウンドではサッカー部が楽しげに走り回っていた。

声を上げ、肩を叩き、笑っている。

その光景が、遠い国の映像のように見えた。


教室のドアに手をかけたその瞬間、後ろからひそひそとした声が聞こえた。


「また一人で帰るんだ、あいつ」


「ちょっとやりすぎじゃね?」


「でも、無視してるだけだし」


足元がすうっと冷たくなる。言い返せない。

言い返したところで、もっと面倒なことになるのは知っていた。


靴箱の中には、濡れた雑巾が詰め込まれていた。


それを見た瞬間、何かがぷつりと音を立てて切れた。

賢は、その場にしゃがみ込んだ。雑巾の水が制服の袖を濡らす。


それでも何も感じなかった。泣くことさえ、もうできなかった。


「なんで、僕だけ……」


心の中でつぶやいたその声さえ、自分に届いていなかった。


この日から学校に行くのをやめた。


最初の一日は、ただ休みたかっただけだった。頭痛がすると言って布団に潜り込むと、母は少し心配そうな顔をしながらも、深くは問い詰めてこなかった。


けれど、二日目、三日目――、一週間が過ぎたころには、朝になるたびに母の口元に影が落ちるようになった。


「賢、今日は行けそう?」


「……ちょっと、まだ……」


何度も、同じ言葉を繰り返した。

本当は、行こうと思えば行けた。

制服だって、まだクローゼットにかかっていたし、筆箱も、教科書も、ちゃんと揃っていた。

でも、靴を履くたびに、あの濡れた雑巾の感触がよみがえってきた。


背中に浴びる視線。

自分だけが取り残されていく感覚。

誰にも気づかれないふりをされた、あの沈黙。


それが怖かった。


家の中では、時間の流れがぼんやりと鈍くなった。

朝起きて、食卓に座っても、パンの味はしなかった。

昼を過ぎても、何もする気が起きず、ただスマホを眺めたり、眠ったりしていた。


そんな日々の中で、いつの間にか言葉が減っていた。

母も、父も、話しかけてくる頻度が少なくなった。


「このままじゃ、だめだよね……」


ぽつりと母が言った夜、台所からかすかに聞こえたその言葉に、賢は布団の中で耳を塞いだ。

自分のせいで、家の空気まで変わっていくのがわかった。


そんなときだった。


「……少し、環境を変えてみたらどうかしら。賢を、田舎のおばあちゃんのところに……」


祖母の家。山の中の村。電車も通らない、ぽつんとした場所。

昔、一度だけ行ったことがある。

夏の終わり、蝉の声が響く中で、縁側に腰かけてスイカを食べたことを、ふと、思い出した。


「空気を吸いに行くだけでも、少しは違うんじゃないかって……」


気づけば、父と母は決めていた。


反論する気力もなかった。

それに――逃げられる気がした。

学校でもなく、家でもない場所へ。

誰も自分を知らない場所で、何も考えずにいられるなら、それでいいと思った。


    *


数日後、重たいキャリーバッグを引いて、賢はひとり電車に乗った。

乗り継ぎを重ね、気づけば窓の外は、見慣れたビルの列ではなく、濃い緑に囲まれていた。


ガタン、ガタンというリズムに揺られながら、少しずつ自分の輪郭がぼやけていくのを感じた。

誰も、自分を見ていない。誰も、期待していない。

そう思えることが、ほんの少しだけ、安心だった。


終点の駅に降りると、祖母が迎えに来ていた。

麦わら帽子をかぶり、小さな軽トラックの前で手を振る姿は、どこか懐かしかった。


「よう来たねぇ、賢。顔がちいと痩せたかい?」


祖母の声は、昔と変わらなかった。

賢はうまく笑えなかったが、軽くうなずいてトラックに乗り込んだ。


車は細い山道を走る。見渡せば、田んぼと、木々のうねり。

街のざわめきとはまるで別の世界が、そこにはあった。


やがてたどり着いたのは、瓦屋根の平屋だった。

庭には色とりどりの朝顔が咲き、縁側には風鈴が揺れていた。


「ここなら、しばらくゆっくりできるよ。おばあちゃん、賢が来てくれんさって嬉しいんじゃけぇの」


その言葉に、賢は小さく頷いた。


    *


夜。風鈴が小さく鳴り、虫の音が耳をくすぐる。

畳の匂いが、どこか心を落ち着かせてくれた。


寝苦しさで目が覚めた深夜、ふと窓を開けると、遠くでカエルの声が響いていた。

星が、びっくりするほど近かった。

東京ではもう見えなかった空。


その瞬間、心のどこかに、少しだけ風が通ったような気がした。


ここでなら、何かが変わるかもしれない。


あるいは、何も変わらなくても――自分を許せるような気が、少しだけした。

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