第6話 血の代償
1.
洋館のリビングに倒れていた悠真は、冷たい床の感触で目を覚ました。時計は午前2時。
鏡を見つけてから6日目。
7日目の期限が、すぐそこに迫っている。
寝室の入り口に立つ鏡は、静かに光を吸い込む。白石瑠璃の笑い声が、頭の奥でまだ響いている。
「7日目…あなたたちは…私の楽園に…」。
美咲はソファにうずくまり、震えている。佐藤は手に握った銀のナイフをじっと見つめる。柄に刻まれた符咒が、微かに光を放つ。
「佐藤さん…あのナイフ、どうするんですか?」
悠真の声は掠れていた。
佐藤が顔を上げ、低く答える。「これは教団の儀式の鍵だ。瑠璃の血と合わせて、迷宮を閉じる…あるいは開くために使う」
「開く?」 美咲が顔を上げる。
「閉じるんじゃないの? 私たち、迷宮から逃げたいんだよ!」
「そう簡単じゃない」 佐藤の目は暗い。
「教団の記録では、儀式を逆転させるには、血の代償が必要だ。誰かの血…もしくは魂」
悠真の胸が締め付けられる。血。魂。あの祭壇の赤い染み、瑠璃の血の瓶。全てが、恐ろしい結末を予感させる。
「じゃあ…私たちの血が必要ってこと?」
美咲の声が震える。
佐藤は答えず、ナイフを握りしめる。その沈黙が、部屋をさらに重くした。
突然、廊下からガラスの割れる音。3人が振り返ると、鏡の表面が波打っている。瑠璃の姿はないが、ささやきが響く。
「ゆうま…みさき…恭司…時間がない…」
悠真は立ち上がり、叫んだ。
「何が欲しいんだ!? 俺たちをどうしたい!?」
鏡が震え、部屋の明かりが揺れる。ささやきが、無数に重なる。「血…魂…私の楽園…完成する…」
2.
佐藤が立ち上がり、ナイフを手にリビングのテーブルに広げた教団の日記を開く。
「瑠璃の儀式を再現するしかない。だが、彼女の目的を理解しないと、俺たちが代償になる」
悠真は日記を覗き込んだ。瑠璃の筆跡は、ますます乱れている。「迷宮は私の救い。だが、門は重い。血を捧げ、魂を繋ぐ。7日目に、私は永遠になる」。
「永遠?」 悠真が呟く。「瑠璃は…不死を求めたのか?」
佐藤が頷く。
「教団は、迷宮を魂の楽園と信じていた。だが、瑠璃は失敗した。彼女の魂は迷宮に閉じ込められ、他の魂を求めている」
美咲が声を荒げる。
「他の魂って…私たち!? そんなの嫌だよ! どうすれば止められるの!?」
佐藤は日記の最後のページを指差した。「ここに、儀式の逆転方法が書かれている。
『血で開いた門は、血で閉じる。純粋な心が、迷宮を封じる』。だが、純粋な心とは何か…分からない」
その時、洋館全体が揺れた。床が軋み、壁から埃が落ちる。鏡の表面が波打ち、暗い廊下が映し出される。そこに、瑠璃が立つ。白い服、長い黒髪、瞳のない目。
「ゆうま…みさき…恭司…私の血…返して…」
彼女の手が、ガラス越しに伸びる。悠真は後ずさり、美咲が悲鳴を上げる。佐藤がナイフを構え、叫ぶ。
「下がれ! 儀式を始める!」
佐藤は瑠璃の血の瓶を取り出し、祭壇の染みに注いだ。赤い液体が石板に吸い込まれ、符咒が光を放つ。
鏡の瑠璃が笑う。「無駄…私の楽園は…完成する…」
部屋が暗くなり、冷たい風が吹き抜ける。悠真の視界が揺れ、迷宮の廊下が再び現れる。
3.
無数の鏡が並ぶ廊下。壁は黒く、足元は冷たい。悠真、美咲、佐藤は再び迷宮に引き込まれていた。
鏡には、彼らの過去が映る。悠真の姉・彩花、美咲の裏切った友人、佐藤の親友・亮太。
「ゆうま…なぜ…?」 彩花の声が響く。
「みさき…嘘つき…」 友人の声が重なる。
「恭司…お前が…殺した…」 亮太の声が、佐藤を締め付ける。
悠真は耳を塞ぎ、叫んだ。
「やめろ! お前たちは本物じゃない!」
だが、鏡の声は止まない。瑠璃が、廊下の奥から現れる。「本物…偽物…関係ない…あなたたちの心は…私のもの…」
彼女の手が、悠真の胸に触れる。冷たい。骨まで凍る冷たさ。悠真の視界が暗くなり、記憶が溢れ出す。
3年前、彩花の事故。悠真は彼女を助けようと手を伸ばしたが、間に合わなかった。あの日の後悔、罪悪感が、鏡に映し出される。「ゆうま…私のせいで…」
美咲もまた、鏡に縛られる。学生時代の友人、裏切った記憶。「みさき…なぜ見捨てた…?」
佐藤は亮太の姿に硬直する。「恭司…お前が鏡を見なければ…俺は…」
3人の心が、鏡に抉られる。瑠璃の笑い声が、廊下を満たす。「7日目…あなたたちの魂…私の楽園に…」
悠真は叫ぶ。「負けない! 俺たちは…逃げる!」
彼は美咲の手を握り、佐藤を引っ張り、廊下を走った。だが、鏡が次々に現れ、道を塞ぐ。どの鏡も、瑠璃の姿と過去の記憶を映す。
「純粋な心…」 佐藤が呟く。「それが鍵だ。俺たちの心を…守らないと…」
悠真は目を閉じ、彩花の声を振り切る。「姉貴…俺は…前に進む!」
美咲も泣きながら叫ぶ。「ごめん…でも、過去は変えられない! 私は…今を生きる!」
佐藤がナイフを握り、亮太の姿に叫ぶ。「亮太…お前は俺じゃない! 俺は…生きる!」
3人の声が重なり、鏡が一瞬揺れる。瑠璃の笑い声が途切れ、廊下が揺らぐ。
4.
光が爆発し、3人は隠し部屋に戻っていた。祭壇の染みが光り、瑠璃の血の瓶が震える。佐藤がナイフを祭壇に突き立て、叫ぶ。
「瑠璃! お前の楽園は終わらせる!」
石板が割れ、部屋が揺れる。鏡の破片が浮かび上がり、3人を攻撃する。悠真は美咲を庇い、破片が腕をかすめる。血が滴り、祭壇に吸い込まれる。
「血…!?」 悠真が驚く。
佐藤が叫ぶ。「儀式の代償だ! 血が必要だ!」
だが、瑠璃の声が響く。「無駄…私の血は…永遠…あなたたちの血…私のもの…」
鏡が一斉に現れ、部屋を囲む。瑠璃の姿が、すべての鏡に映る。彼女の手が、ガラス越しに伸びる。
「ゆうま…みさき…恭司…一緒に…永遠に…」
悠真はナイフを手に取り、祭壇に突き立てた。
「やめろ! 俺たちはお前のものじゃない!」
血が流れ、祭壇の符咒が光る。瑠璃の姿が揺れ、叫び声が響く。「やめなさい…私の楽園…!」
部屋が暗くなり、迷宮の廊下が再び現れる。だが、今度は異なる。鏡が少なく、廊下が短い。遠くに、光が見える。
「出口…?」 美咲が呟く。
佐藤が頷く。「儀式を乱した。瑠璃の力が弱まっている。走れ!」
3人は光へ向かって走った。だが、背後で瑠璃の声。「逃がさない…7日目…私のもの…」
5.
光に飛び込むと、3人は洋館のリビングに倒れていた。時計は午後11時。6日目の終わり。7日目が、すぐそこだ。
鏡は依然として寝室の入り口に立つ。だが、表面は静かだ。瑠璃の姿はない。
「やった…? 終わった?」 美咲が震えながら問う。
佐藤が首を振る。
「まだだ。瑠璃の力は弱まったが、7日目が本当の試練だ。明日、儀式を完成させるか…俺たちが迷宮に飲まれるか」
悠真はナイフを見た。血に濡れた刃が、微かに光る。
「純粋な心…どうすればいいんだ?」
佐藤が答える。
「瑠璃の魂を解放するには、俺たちの心を一つにする。恐怖や罪悪感を乗り越え、彼女に立ち向かうんだ」
だが、その時、鏡が揺れた。瑠璃の声が、静かに響く。
「ゆうま…みさき…恭司…7日目…私の楽園…完成する…」
部屋の空気が冷え、鏡の破片が床を這う。瑠璃の姿が、ゆっくりと現れる。彼女の目が、3人を貫く。
「来なさい…永遠に…私のもの…」
鏡が光を放ち、部屋が暗くなる。悠真の視界が揺れ、迷宮の廊下が再び現れる。だが、今度は出口がない。無数の鏡が、3人を囲む。
瑠璃が、すぐそこに立つ。「7日目…始まる…」