第3話 閉ざされた扉
1.
悠真はベッドの上で目を覚ました。時計は午前3時を指している。部屋は静かだが、耳の奥に昨夜のささやきが残る。「ゆうま…見つけた…」。鏡の奥で揺らぐ無数の影。寝室の入り口に移動していた鏡。
布で覆ったはずの鏡は、またむき出しになっていた。月光がガラスに反射し、部屋に不気味な光を投げかける。悠真は起き上がり、鏡に近づいた。触れなければいい。そう自分に言い聞かせるが、視線は吸い寄せられる。
鏡に映るのは、自分の顔のはずだ。だが、背景が違う。暗い廊下、揺れるカーテン、遠くに立つ白い服の女。彼女の顔は見えないが、黒髪の隙間から白い目が覗く。悠真の心臓が締め付けられる。
「やめろ…見るな…」
目を閉じ、深呼吸する。だが、耳元でささやきが響く。
「ここに…いる…」
声は複数だ。男、女、子供。重なり合い、頭の中で増幅する。悠真は耳を塞ぎ、部屋の隅にうずくまった。声が止むまで、どれだけ時間が過ぎたか分からない。
朝日が差し込む頃、鏡は静かだった。だが、悠真の心は静まらない。あの鏡は、ただの物体ではない。何かを隠している。何かを呼び込んでいる。
スマートフォンが振動し、美咲からのメッセージ。
「悠真、昼に来るよ。やばい人見つけた! 鏡のこと知ってるかも!」 彼女の明るい文面に、悠真は一瞬安堵したが、不安がすぐに押し寄せる。美咲の好奇心が、事態を悪化させる予感がした。
2.
昼過ぎ、美咲が洋館にやってきた。彼女の隣には、見知らぬ男が立っている。30代半ば、瘦せた体に古びたコート、鋭い目つきの男。
「悠真、この人、佐藤さん。地元の歴史家で、怪奇現象の研究してるんだって!」
美咲の紹介に、男は小さく頷いた。佐藤恭司、フリーランスの民俗学者で、地元の都市伝説や怪談を調べているという。
「君があの鏡を見た人間だな?」
佐藤の声は低く、探るようだった。悠真は警戒しながらも、昨夜までの出来事を話した。鏡の移動、ささやき、白い服の女、写真の異常。佐藤は無表情で聞き、時折メモを取る。
「その鏡、この洋館の歴史と深く関わってる」と佐藤が切り出した。「1950年代、ここは『光の集団』ってカルト教団の拠点だった。彼らは鏡を使って、魂を別の世界に送る儀式をしていたらしい」
「別の世界?」
悠真の声が震えた。
「彼らはそれを『迷宮』と呼んでいた。鏡は、魂を閉じ込める門。見た者を引きずり込み、抜け出せなくする」
美咲が目を輝かせ、割り込む。「それ、めっちゃやばいじゃん! じゃあ、悠真が見た女は、迷宮に閉じ込められた魂とか?」
佐藤は首を振った。
「分からない。ただ、鏡を見た者は、7日以内に何かが起こる。それがこの洋館の伝説だ」
「7日…?」
悠真の脳裏に、『リング』の呪いがよぎる。あの日、鏡を見つけたのは3日前。残り4日?
佐藤は続ける
「君が見た女、恐らくは教団の犠牲者の一人だ。彼女はまだ迷宮にいる。そして、君を呼んでいる」
悠真は喉が締まる感覚を覚えた。美咲は興奮気味にメモを取るが、佐藤の目は冷たく、まるで悠真の運命を予見するようだった。
3.
佐藤は屋根裏の鏡を見たいと言い、3人で階段を上がった。鏡はまた移動していた。今度は屋根裏の中央、部屋を支配するように立つ。
「これだな…」
佐藤が鏡に近づき、木枠の彫刻を調べる。複雑な模様の中に、奇妙な文字が刻まれている。
「これは…古代の符咒に似てる。封印か、召喚か…」
彼が呟く間、悠真は鏡の表面を見つめた。自分の顔が映るが、目が合わない。鏡の中の自分が、ほんの少しズレて動く。
「佐藤さん、離れてください」
悠真の警告に、佐藤は一歩下がった。だが、鏡の表面が波打つ。ガラスが液体のように揺れ、暗い廊下が映し出される。そこに、白い服の女が立つ。彼女の手が、ガラス越しに伸びてくる。
「恭司…」
声が響き、佐藤が硬直した。
「私の名前…どうして?」
彼の声に動揺が滲む。悠真と美咲も凍りつく。女の声が、重なるように響く。
「見つけた…みんな…ここに…」
鏡の表面がさらに波打ち、部屋の空気が冷える。悠真は佐藤の手を引き、屋根裏から逃げた。
階段を駆け下り、リビングにたどり着く。
「何!? あれ、なんで佐藤さんの名前!?」
美咲が叫ぶ。
佐藤は額の汗を拭い、声を絞り出した。
「…10年前、俺もこの洋館に来た。鏡を見たんだ。それ以来、夢で彼女を見る」
悠真の心臓が跳ねた。佐藤も、鏡の呪いに絡め取られている…?
4.
佐藤は落ち着きを取り戻し、話を続けた。10年前、彼は洋館の調査に来た。鏡を見てから、悪夢に悩まされ、1週間後に不可解な事故で親友を失った。それ以来、鏡の研究を続けているが、真相には辿り着けていない。
「鏡は、見た者の心を読む。弱さ、恐怖、秘密。それを利用して、迷宮に引き込む」
「じゃあ、どうすればいいんですか?」
悠真の声は切迫していた。
「分からない。だが、鏡を壊すのは危険だ。呪いが解放され、別の形で広がるかもしれない」
美咲が割り込む。「じゃあ、儀式の逆をやればいいんじゃない? 教団が魂を閉じ込めたなら、解放する方法があるはず!」
佐藤は苦笑した。「簡単じゃない。教団の記録はほとんど残っていない。だが、洋館のどこかに手がかりがあるはずだ」
3人は洋館の探索を始めた。地下室、書斎、隠し部屋。古い本や手紙を探すが、どれも埃だらけで役に立たない。だが、書斎の古い机の引き出しに、錆びた鍵を見つけた。鍵には、鏡の木枠と同じ模様が刻まれている。
「これ…何の鍵?」 美咲が呟く。
佐藤が目を細めた。「屋根裏に、隠された扉があるかもしれない。教団が儀式に使った部屋だ」
悠真の胸に、不安と好奇心が混じる。だが、鏡のささやきが、頭の奥で響き続ける。
5.
夜、3人は屋根裏に戻った。鏡は依然として中央に立ち、静かに光を吸い込む。佐藤が壁を調べ、隠し扉を発見。鍵穴に、机の鍵がぴたりと合う。
「開けるぞ。準備はいいか?」
佐藤の声に、悠真と美咲は頷いた。だが、悠真の心は恐怖で縮こまる。扉の向こうに、何が待っているのか。
鍵を回すと、鈍い音が響き、扉が開いた。暗い部屋。埃とカビの匂い。中央に、古い祭壇のような台。そこには、鏡と同じ模様の彫刻。そして、祭壇の周りに、複数の鏡の破片が散らばっている。
「これ…教団の儀式の跡だ」 佐藤が呟く。
だが、部屋の奥で、カサリと音がした。3人が振り返ると、屋根裏の鏡が揺れている。表面が波打ち、暗い廊下が映る。白い服の女が、ゆっくりと近づいてくる。
「ゆうま…恭司…みさき…」
3人の名前が、鏡から響く。声は無数に重なり、部屋を圧迫する。美咲が悲鳴を上げ、佐藤が祭壇に手を伸ばした瞬間、鏡の表面が割れるような音を立てた。
ガラスが砕け、暗闇が溢れ出す。悠真の視界が揺らぎ、足元が崩れる感覚。
「逃げろ!」
佐藤の叫びが遠ざかる。悠真は美咲の手を握り、扉へ走った。だが、振り返ると、扉が閉まっている。鍵は床に落ち、鏡の破片が光る。
暗闇の中、無数のささやきが響く。
「ここに…おいで…」
悠真の目の前で、鏡の破片が浮かび上がり、彼らを取り囲む。白い服の女が、すぐそこに立っていた。