第1話 鏡のささやき
1
悠真は重いスーツケースを玄関に下ろし、目の前の古い洋館を見上げた。夕暮れの薄オレンジの光が、ひび割れた窓ガラスに映り、まるで建物がこちらを睨んでいるようだった。家賃が破格だった理由は、これか。軋む木の扉を開けると、埃っぽい空気が鼻をついた。
「まぁ、静かでいいか…」
独り言が空っぽのホールに響き、妙に大きく聞こえた。悠真、25歳、フリーのイラストレーター。だが、最近はアイデアが枯渇し、締め切りに追われる日々。クライアントからの催促メールが、頭の中で反響する。気分転換にと、都会を離れ、この古い洋館を借りたのだ。
1階は広々としたホールと、古びた家具が並ぶリビング。階段は薄暗く、2階へと続く。荷物を運びながら、悠真は壁の剥がれたペンキや、床の傷に目をやった。誰かが急いで出て行ったような、乱雑な痕跡。前の住人は、どんな人だったのだろう。
荷解きを終え、2階の屋根裏部屋を覗いた。そこは、前の住人の物らしき古い家具や箱が散乱していた。埃をかぶった木枠の鏡が、部屋の隅に立てかけてある。異様に大きく、2メートルはあろうかというその鏡は、なぜか埃が薄い。まるで誰かが最近触ったかのように。
悠真は鏡に近づき、反射した自分の顔を見た。疲れた目、乱れた髪。だが、一瞬、目の端で何か動いた気がした。自分の目が、ほんの一瞬、別の方向を見たように。
「…何?」
首を振って目をこする。疲れているだけだ。だが、鏡の表面に触れると、異様な冷たさが指先に走った。ガラスなのに、まるで氷のようだ。
指を離すと、鏡の奥で何か波打つような揺らぎ。
ドン。
背後で音がした。振り返るが、誰もいない。屋根裏の窓は閉まり、風もない。なのに、床が微かに軋む音。悠真の心臓が跳ねた。
「気のせいだろ…」
呟きながら鏡を再び見る。そこには自分の顔。だが、唇の端が、ほんの少し、微笑んでいるように見えた。自分が笑っていないのに。
2
その夜、寝室のベッドに横になりながら、悠真は昼間の鏡を思い出した。妙に頭から離れない。あの冷たい感触、揺らぐ表面。そして、鏡の向こうで聞こえたような、微かなささやき。
「ゆうま…」
目を閉じていた悠真は飛び起きた。声がした。確かに、自分の名前を呼ぶ声。だが、部屋は静寂に包まれている。窓の外では、木々が風に揺れる音だけ。
恐る恐る部屋を見回す。暗闇の中、廊下の奥に何か光るもの。目を凝らすと、屋根裏にあったはずの鏡が、廊下の突き当たりに立っている。
「は…?」
悠真はベッドから降り、裸足で廊下に出た。冷たい床が足裏に刺さる。鏡は確かにそこにある。木枠の彫刻が、月光に照らされて不気味に浮かぶ。だが、屋根裏からどうやって移動した? 自分で運んだ記憶はない。
近づくと、鏡の表面がまた揺らいだ。自分の顔が映るが、背景が違う。寝室の壁ではなく、薄暗い部屋。見覚えのない古い家具、揺れるカーテン。
そして、鏡の奥に、白い服を着た人影が立っている。
「誰…!?」
声を出した瞬間、人影が消えた。鏡にはまた、自分の顔だけ。だが、額に汗が滲む。心臓が早鐘のように鳴る。
「疲れてるだけ…落ち着け」
自分に言い聞かせ、鏡を布で覆った。古いシーツをかぶせ、しっかりと結ぶ。これでいい。だが、部屋に戻る途中、背後でカサリと音がした。振り返ると、シーツが床に落ちている。鏡が、まるで拒絶するように、むき出しになっていた。
3
翌朝、悠真はスマートフォンで地元の友人・美咲に連絡した。美咲は25歳、フリーランスのライターで、好奇心旺盛な性格。地元の歴史や怪談に詳しく、悠真の引っ越しを聞いて「面白そう!」と興奮していた。
昼過ぎ、美咲が洋館にやってきた。ショートカットの髪に、カメラを首から下げ、軽快な足取りで玄関をくぐる。
「うわ、めっちゃ雰囲気あるね! ホラー映画のセットみたい!」
美咲の明るい声に、悠真は少し安堵した。昨夜の出来事を話すと、彼女は目を輝かせた。
「それ、絶対調べなきゃ! 鏡の呪いとか、最高のネタじゃん!」
「呪いって…大げさだろ」
悠真は笑ったが、胸の奥のざわめきは消えない。美咲を屋根裏に連れて行き、鏡を見せた。
「これ、めっちゃ古そう。彫刻の模様、見たことないな。どこの工芸品かな?」
美咲は鏡の木枠を指でなぞり、写真を撮ろうとした。だが、シャッターを切る直前、カメラがフリーズ。
「え、なにこれ? バッテリー切れ? フル充電してきたのに…」
彼女の声に、悠真の背筋が冷えた。鏡の表面が、また揺らいだ気がした。
「美咲、ちょっと離れよう」
悠真は彼女を屋根裏から連れ出し、1階のリビングで話すことにした。美咲はノートパソコンを開き、洋館の歴史を調べ始めた。
「この洋館、30年前に変な事件があったって。住人が次々失踪して、最後は誰も住まなくなった。で、噂だと…その鏡が関係してるって話がある」
「鏡?」
「うん。『鏡を見た者は消える』みたいな、都市伝説っぽい話。地元の掲示板に書いてあった」
悠真は昨夜の鏡を思い出し、喉が締まる感覚を覚えた。美咲は笑顔で続ける。
「まぁ、ただの噂でしょ? でも、ちょっと調べる価値ありそう!」
彼女の軽い口調とは裏腹に、悠真の頭には、鏡に映った白い人影がちらついていた。
4
夕方、買い物に出た悠真は、近所のコンビニで奇妙な老人に出会った。白髪に皺だらけの顔、背中が曲がった男が、じっと悠真を見つめていた。
「君、あの洋館に住んでるな?」
突然の声に、悠真はぎくりとした。
「え、はい…どうして?」
「その鏡、捨てなさい。見ちゃいけないものだ」
老人の目は、まるで悠真の心を見透かすようだった。
「鏡って…何のことですか?」
言葉を濁す悠真に、老人は一歩近づき、囁くように言った。
「見たら、終わりだ。あれは、迷宮の入り口だよ」
老人はそれだけ言うと、杖をつきながら去っていった。悠真は立ち尽くし、背中に冷や汗が流れた。迷宮? 何の話だ? だが、老人の言葉は、昨夜の鏡のささやきと重なった。
5
その夜、悠真は再び鏡の前に立っていた。布で覆ったはずの鏡は、またむき出しになっている。シーツは床に落ち、まるで誰かが剥がしたように。
「ふざけるな…」
怒りと恐怖が混じる中、悠真は鏡に近づいた。表面に触れると、冷たさが全身を貫く。鏡の奥、薄暗い部屋が映る。そこに、白い服の女が立っていた。長い黒髪が顔を覆い、ゆっくりとこちらを見上げる。
「ゆうま…」
声が、鏡の向こうから響く。低く、掠れた声。悠真は後ずさり、足がもつれた。
「やめろ! 誰だ!?」
叫ぶが、声は部屋に吸い込まれる。鏡の女が、一歩近づく。ガラス越しなのに、彼女の気配が部屋に満ちる。
バン!
突然、玄関のドアが鳴った。悠真は我に返り、鏡から目を離した。鏡には、もう女はいない。自分の顔だけが、青ざめて映っている。
玄関に急ぐと、美咲が立っていた。
「やばい、悠真! あの鏡、調べたら変な話出てきた!」
彼女の手には、印刷された古い新聞記事。30年前の失踪事件、洋館の住人、そして「呪いの鏡」の記述。
「これ、読んでみて。やばいよ、ほんと」
美咲の声は興奮していたが、目には恐怖が滲む。悠真は記事を受け取り、読み始めた。だが、背後で、カサリと音がした。振り返ると、廊下の突き当たりに、鏡が立っている。屋根裏から、また移動していた。
「ゆうま…見つけた…」
鏡の奥から、ささやきが響く。美咲もその声を聞いたらしく、顔を強張らせた。
「何…今の声?」
悠真は答えられなかった。鏡の表面が波打ち、まるで笑うように揺れた。