5.武官
日が暮れた後、李殊は花紅宮へと向かい歩いていた。
暗い夜道を歩くのはあまり好きではない。しかし多くの者が働くこの広い後宮内を、人目を気にせず行動するには否応なしにこの時刻になる。
もしここで巡回中の武官に遭遇してしまうと面倒ですわね。
そう思った矢先、物音が聞こえてきて李殊は近くの物陰へと隠れた。
靴音が二つ。つまり相手は二人でしょうか。
歩く速度は規則的で、聞こえてくる音の中に微かに金属音が混じっている。それは腰に佩いた剣から鳴る音で、となれば巡回中の武官だろう。
まぁ、こんな時刻に歩き回る者なんて武官以外にいませんが。
李殊の読み通り、現れたのは二人組の武官だった。凛々しい表情で辺りを回し、隙のない警戒心が伝わってくる。
見つかれば即牢屋行き。白を切れば刑部でじっくりと尋問。暗殺未遂どころではありませんわね。
彼女たちに見つからないよう、李殊はただ静かに通り過ぎて行くのをじっと見つめた。
何だかこそ泥にでもなったような気持ちですわ。
今の状況に虚しさが襲ってくる。屈辱とはこんな気持ちなのかと実感する。もし花巉に見られたら、と鼻で笑われる光景を想像し、今度は不快な気持ちになった。
こんな思いをしながらも、それでも花紅宮へと向かうには理由があった。
それは蘭釆との会話の中で、引っかかる事があったからだ。
そもそも魏妃は、何故人払いなどしたのでしょうか?
よりにもよってその夜に、疑われる行動をしてしまったが為に、事がややこしくなった。
なので何故人払いをしていたのか気になっていた。
そして──
「っ…⋯」
突然何か硬いものが背中をとんっと押し、李殊は微かに眉を顰めた。
「──こんな所で何をしているんですか?」
背後から女の声が聞こえてきた。
鞘を微かに抜く音から当てられているのは剣か。剣を持つなら女は武官。
「こんな時刻に一体何を?」
問いかける声は囁くように小さく、そして優しい口調だか、しかしどこか圧がある。
体に突き刺すような気を感じ、本能的にむやみに動かない方が賢明だと察した。
もし少しでも動こうならば容赦なく鞘から剣を抜いて、今度は刃先を突きつけてきそうだ。
斬られてしまうのは困りますわねぇ。痛そうですもの。
ふぅ、と小さく息をつくと「でしたら」と口角を上げる。
「私もひとつ質問があります。貴女もこのような所で何をしておいででしょうか?」
女が微かな動きで、動揺したのを感じた。
武官の巡回は基本二人以上で行うものだ。しかしここにある気配は李殊と女のものだけ。
さらに、初めは女は突然現れたと思ったが、女は最初からここに、気配を殺していたのだ。そう考えを改めれば、李殊が女に気が付かなかった事に説明がつく。
恐らく武官の女は見つからないように初めてからここに隠れていた。
何から?
理由は李殊と同じく、巡回中の武官だ。
正解だと言わんばかりに、女は黙り込んだまま何も言わなくなってしまった。
「いつまでもそのような恐ろしい物で脅されていると、あまりの怖さに悲鳴を上げてしまいそうですわ……」
すぅと息を吸い込んで、声を上げようとした時、後ろから伸びてきた手に口を塞がれてしまった。
「あぁ、声を上げないで下さい!」
慌てるような声色に李殊はほくそ笑む。
「剣で脅されても怖がりもせず、逆に脅し返してくるとはなんて人ですか」
手が離れ、李殊はゆっくりと振り返る。
すらりと伸びた背丈は李殊の頭一つ高い程か。纏う装束は向こうにいる武官たちのと同じ。鞘を持つ手に、あら?と小首を傾げる。
「こんな所で油を売っているのが上に知られてしまうとどうなることか……」
眉をハの字にさせる女の言葉は、サボっているのがばれると不味いということか。
ちらりと茂みの向こうをうかがえば、遠ざかって行く武官たちの姿が見えた。けれどまだ声を上げれば聞こえてしまう距離だ。
「貴女は見つかりたくはないみたいですわね」
「……えぇ」
「もし私が彼女たちを呼べば貴女は非常に困ってしまうと」
「……何が言いたいのですか?」
女は気づいたようだ。立場が逆転してしまっていることに。
「では、道案内をして頂けませんか?」
「道案内?何処へ?」
「魏妃のいる花紅宮ですわ」
優位に立った李殊は此処ぞとばかりににこりと微笑んだ。




