3.池の花
後宮に来て早一週間。下女として難なく潜り込むことが出来た李殊は、未だ会えない文の差出人を探していた。
中々姿を現さないのは、文を出しておきながら、今になって姿を現す事を尻込みしてしてしまったのだと察した。
あの子の場合は、少しぐらい師匠の堂々とした性格を見習うべきですわね。まぁ、ほんの少しで十分ですが。
仕方がない子ですわ、とため息を落としているとどこからか甘い香りを感じ、袖で鼻を覆った。
辺りは不愉快にさせるまでの甘い香りが漂い、あまりにも閑散とし過ぎていて、まだ日が高い時刻にしては異様だった。
後宮内では聞こえていた鳥たちの囀りも、徐々に小さくなっていき、今は全く聞こえてこない。
空気も淀んでいるようで、肌が微かに粟立っていた。
なんだか嫌な感じがしますわね。
李殊は漠然とした感覚に平静を装いながら香りがする方へと足を進めると、辿り着いたのは大きな池がある庭園だった。
池には青の睡蓮がちらほらと浮かんでいて、どうやら甘い香りは花が発しているようだ。
さらに大きく花開かせた青花は霊気を帯びていた。微かに他の何かが混ざっているが、肌にひしひしと感じる覚えのあるそれは、以前感じたよりもずっとしっかりとしていて逞しさがある。
「まぁ、随分と立派になって……」
その成長ぷりに胸を熱くさせる。
李殊は池の中央に浮かぶように作られた四阿へと向かい、中の椅子へと腰をつけると呆れた吐息を一つ。
「それで、貴方はいつまで隠れているのですか?」
「……お久しぶりです李殊姐さん」
柱の影から文官のなりをした男がぬっと現れた。
現れた男こそが蘭釆だった。
すらりと伸びた背丈と、整った容姿。穏やかで優しげな雰囲気はとても懐かしい。
そしてどこか気まずそうに首筋を擦る癖は相変わらずで、昔と同じく目を泳がせる挙動不審な所は折角の整った容姿も台無しだ。
見かけに大した変化がないのは道士だからではあるが、癖すら変化がないの内気な性格によるものだろう。
ただ霊力が格段と上がっているのを感じ、道士として成長を改めて感じた。
花巉様がいたらとても喜んでいましたわね。
李殊の頭の中に、弟子の成長に鼻を高くする花巉の姿が浮かび上がっていた。
確か、『蘭釆は仕える魏の主の命により、魏の娘の護衛として、娘の後宮入りと同じくして宦官として入り込んだ』と花巉が語っていた。
便りに、李殊が目を通せなかった箇所に書いてあったらしい。
あくまでフリだとは思うが、ゆっくりと目線を下げ、蘭釆を盗み見て「う~ん」と小さく唸る。
「どうかされましたか?」
李殊は「いえ、何でもありませんわ」と平然と返す。
「久しぶりですわね、蘭釆」
はい、と小さく言葉を返しながら蘭釆は李殊の目の前に腰を下ろした。
気まずそうに両手の指を遊ばせて、一向に話を切り出さない蘭釆を見つめていると、やはり池から漂う匂いの存在が気になってしまった。
「あの睡蓮の結界は貴方が施したのですか?花を媒体に使うなんて珍しい術ですわ」
「魏氏で教わりました。花の香りを利用して生き物を呼び寄せたり、反対に遠ざけたりする花術の一つです。この頃ここには人が寄り付かなくなっていましたが、一応念の為に術をかけました」
蘭釆の言葉の中に引っかかる所があり、李殊は首を傾げた。
「何故人が寄り付かないのですか?この頃というのならば、最近ここで何かが起きた、と言うことですわよね?」
李殊の問いに、蘭釆はしまったと口元を手で覆う。
何気なく聞いたつもりだが、その反応を見れば深い事情があるのだと察する。
「……一月前でしょうか、宦官と下女が変わり果てた姿であの池に浮いているのが見つかる騒ぎがありました。心中、というものです。それから皆ここへ来るのを避けているのです」
「文の件と何か関わりが──」
「それはないと思います」
李殊の言葉を遮るように蘭釆は否定した後、自信なさげに「…⋯多分」と小さく言葉を出した。
「件の妃たちとは関係のない者たちですし、魏王朝の時にも後宮の中では色恋沙汰というのがたくさんあったそうですから」
「まぁ、恐ろしい所ですわね、後宮という場所は」
確かに人が多い場所には常に争い事がつきものである。特に妬み嫉み辛みがより強い色恋事は厄介なものだった。
池に浮かぶ睡蓮から感じる気は蘭釆のものだが、微かではあるが他の気が混ざっていた。恐らくは二人の骸から溢れた瘴気によるもの。
それが術の妨げになり、歪な形として強い香りを発している、と言うところでしょうか?
李殊は池をじっと見つめ推測する。
この場の気が淀んでいるのも瘴気の影響だとすれば納得出来た。
関係がないのならば、本題を早く聞きたいところ。
蘭釆の名を呼べば、空気を察したのか蘭釆は背筋を伸ばして「はい」と返事を返した。
「そろそろ一体後宮で何があったのか話しなさい」
「はい──」
蘭釆は真剣な面持ちでようやく事の始まりを語り始めた。




