2.弟子からの便り
李殊は『花巉』という、人が立ち入る事も出来ぬ霊山に身を置いていた。
山中に生える木々には愛らしい白い木花が咲き誇り、酸味が混じる甘く赤い果実を実らせるので、いつも山には甘い匂いが漂っていた。
香しさに誘われやって来た鮮彩の羽鳥たちは、枝条に止まり美しい歌声を響かせる。
花巉に唯一建てられた美しい宮では、白花を模した簪を髪に挿した李殊が、王の間に呼び出されていた。
「花巉様、お呼びでしょうか?」
「うむ、漸く来たか。随分と待たされた」
若い男が偉そうに高座で頬をつく。
長い髪はきっちりと一つにくくられて、纏う衣には皺も汚れも一つなく、まさに男の潔癖さが表れている。
彼は四山道士と呼ばれる『ものすごい霊山に住む、ものすごい四人の道士』の一人だ。
名はこの山と同じ名。何を思ってかこの『山の王』を自称し、山の名を我が物顔で名乗っていた。
花巉は中々の変わり者だった。誰が呼び始めたのか、四山道士という肩書もどこか胡散臭い。
それはさておき、鋭い切れ長の目と真一文字に結んだ口元が不愉快だと言いたげだ。
しかし随分と待たされたと言われるのはあまりにも心外で、李殊はにこりと笑みを作る。
「あら?失礼ながら、昨夜『朝になったら桃が食べたい』と、どこぞの誰かさんが言い出したもので、わざわざ朝早くから一山向こうの桃苑へと取りに行っておりましたものでして」
「へぇ、そんな事を言ったのはどこのどいつだろうか。ちなみに今朝の私は李が食べたい気分だったのですぐそこになっている李を食べたぞ」
花巉は白々しくハッと鼻で笑った。
…⋯この野郎。
李殊はにこやかに微笑みながらも、心の中では目の前の男の悪態をついた。
「……それで、御用とは?」
「蘭釆を覚えているか?」
「蘭釆?……それは花巉様のお弟子のあの子でしょうか?道士としての修練を終え、十年前に山を降りた」
「十一年前だ」と花巉は強調した。
一々細かい人……、だと心の中で思いながらもあえて口にする事はせず、話を続ける花巉に耳を傾ける。
「その蘭釆が師に助けを求めて便りを送ってきたのだ。ずっと音沙汰もなかった弟子が、都合が悪くなると急に乞うてくるなぞむしの良い話だ」
李殊はじっと花巉を見つめた。
むすっと眉を寄せながらも、見るからに嬉しそうな気が溢れ出ている。
なんて分かりやすい人でしょう。
花巉は蘭釆を弟子としてとても可愛がっていた。
ただ花巉はねじ曲がった性格の持ち主で、『可愛がる』という言葉を履き違っているようだった。
本人には心配しているつもりなのかもしれないが、傍から見ればネチネチと嫌味を言っているように見えていた。
本人には気に掛けているつもりなのかもしれないが、傍から見ればずっと監視しているように見えていた。
その所為で蘭釆は師への苦手意識が強く、修練を終えるととっとと山を降りて行ってしまった。
そうして残された花巉はこの十年……いや十一年か、時折師に便りぐらい寄越すだろうと心底期待に胸を膨らませ、健気にも待ち続けていた。
『李殊姐さん、私はお師匠様に何か嫌われる事をしたのでしょうか?』
師に苛められては酷く落ち込む蘭釆の背中を、李殊は何度撫でてやった事か。
頼りにされておらぬ者から便りなど来る筈も無いと哀憫の目を向け続けていた。
しかしこの度まさかの便りが届いたと言う。
まぁ、何とも青天霹靂だこと。
この事実に李殊はあんぐりと開いた口元を長い衣の袖で隠しつつ驚いていた。
「便りが来たと言う事ならば、蘭釆は花巉様に便りを送らざる負えない余程の窮地が訪れているのですね。一体どんな過酷な試練が、あの子に立ちはだかっているのでしょうか?」
「おい、何だそのどこか引っかかるような言い方は。全く……」
花巉は小言をぐちぐちと零しながら文を宙へと放り投げた。すると閉じられていた文はひとりでに横へと開かれてゆき、目前でゆらゆらと漂う。
しかし文の端の方は折りたたまれたままで、文章の始まりが隠れてしまっている。
ちらりと花巉をうかがうが、その事に気づいているのかいないのか、文が開かれることはない。
読めないものは仕方がないので、読める所から、李殊はつらつらと書き綴られた文を口にし始めた。
「『私は今、晃浮江の魏氏にお仕えしております』──晃浮江の、魏氏ですか」
晃浮江──西の二大山峡の合間に悠々と流れる江河の名だ。
水面には黄色の睡蓮が浮かんでおり、朝日に照らされた花たちが晃晃と輝いて見える。江河に浮かぶ黄金の光。その幻想的な美しさが名の所以と言われている。
その辺り一帯を統べているのが魏氏の一族だ。
遥か昔、魏氏の始祖たる男が晃浮江に棲まう人喰い水怪を鎮めたという伝承がある。
男は仙であった、はたまた花の精であったとも言われ、魏氏は奇異たる一族と言われるようになった。
悔しくも玉座を追われて故郷の晃浮江へと落ち延びたが、その奇異たる力で道人妖魅荒れ狂う乱世を勝ち上がり一度は人の上に立った程の一族だ。
「あの一帯は強い気が集まる霊域。さらに魏氏は優秀な道士を多く抱えている。まだまだ未熟者のあやつには良い刺激になり修練を積むには持って来いの場所だ」
師馬鹿の花巉は「其処を新天地と選ぶには流石は我が弟子」と口元をにやけさせている。
「馬鹿真面目な蘭釆はこれまで修練に明け暮れ、それで俺に文一つ寄越す間も無かったのだろうな」
「そうですわねー」
納得といった表情の花巉の言葉を聞き流し、李殊は一体何があったのかと文を読み進めた。
『千王の正妃となられた魏氏の寵児、魏桂馨様がある妾妃の毒殺未遂の犯人とあらぬ嫌疑をかけられ、果てには後宮の一室で軟禁されてしまいました』
文を読んでいた李殊は「まぁ、恐ろしい話ですこと」とそっけない様子で言葉を漏らした。
「どうせ妃同士の痴情のもつれだ。足がつきやすい狭い世界で毒殺なんぞ、愚行だな」
「ええ、それに未遂なんて手が甘いですわね。けれど嫌疑と言うからには犯人は他にいるようですわ──『それで……』」
その先を読み進めようとするが、「あぁ、そのようだ」と花巉は指先を動かし、文はまたひとりでに折りたたまれていく。
まだ言葉は続いていたが、最後まで目を通す事は出来なかった。
「蘭釆はそれで私に何とか主人である魏氏の寵児を助けてくれと便りを寄越してきたのだ。全く世話が焼ける」
やれやれとため息を吐きながら、便りを再び己の手の中へと戻す。「仕方のない弟子だ」と呟く口元は分かりやすく緩んでいて余程嬉しいと見える。
なんて分かりやすくて可愛い人かしら。
李殊は長い袖で口元を隠して笑みをこぼした。
「なのでお前行って来い」
「……はい?」
くすくすと笑っていた李殊は聞こえてきた花巉の言葉に首を傾げた。
「人の話を聞いていなかったのか?お前が行って何とかして来い」
「私が?何とか?何故?」
「男である私が後宮に入れる訳ないだろう、馬鹿者め。お前が後宮へと向かい真の犯人を見つけ魏の娘を助けてやれ」
馬鹿なのは果たして誰か。例え男でも後宮に入れる方法はあるというのに。
…⋯奇妙ですわね。
花巉の性格ならば可愛がる弟子から頼られたのならば真っ先に駆けつけそうなのだが、それをしないのが少し引っかかった。
花巉の言動の奇妙さに首を傾げ、丸く黒い瞳でじっと主を見つめる李殊だったが、ある疑念が頭に浮かんだ。
「花巉様、そもそもその便りは本当に花巉様に届いたのですか?」
「……何を当然な事を聞く?」
花巉は平然と答えたつもりの様だが口元は引き攣っている。
本当に分かりやすい人だ。
「先ほど女しか入れぬ後宮の事とおっしゃいましたが、ならば何故蘭釆は花巉様にお願いするのでしょうか?まさか……」
「……なんだ?」
「その便り、元々私に届いたのではありませんか?」
「そ、そんな筈ないだろう!」
「本当に?」
丸い双眸は真っ直ぐと挙動の怪しい主を見つめ、またくてんと小首を傾げる。その目線に居心地の悪さを感じた花巉はふんっと顔を逸らした。
「まぁ確かに宛名はお前になっていたが、彼奴は師に頼むのが気恥ずかしいかったのだ!」
「……どこまでも意地をお張りになられる。とことん意地っ張りな御方ですこと」
見ていて飽きませんわ、と怒りを感じるどころか面白さを感じてつい笑みが零れる。
「分かりましたわ。花巉様の御心のままに」
李殊は左右の長い袖を合わせ、主へと頭を垂れた。




