魔法の石
ハルの持ち物の中には、古ぼけた手縫いのお守り袋が一つある。
もとは子供用の着物をほどいた布で出来たそれは、ハルの祖母が作ってくれたものだ。そして、その中にはいっているのは小さな石だった。
子供の手のひらでも包み込んでしまえるような、小さな石。ハルは鉱物には明るくないのでなんという石かはわからなかったが、薄緑のつるりとしたまろく滑らかな表面には縞模様が浮かんでいた。
これは魔法の石だよ。
そう言って、おばあちゃんが渡してくれた石。
ハルが小学生の頃、妹ができた。出産のために母親は入院して、どうやら少々危ない状態だったらしい。ハルは近くに住む祖母の家に預けられた。
まだ幼いハルに大人たちは詳しいことを話さなかったが、その様子を見ていれば「母親に危険が迫っている」という事は察せられる。
不安と、母が居なくなるかもしれない恐怖と。
怖くて暗い感情に泣いていたハルに、祖母はそっと寄り添った。
「ハルちゃん、はい」
祖母の皺くちゃの小さな手が、もっと小さなハルの手を包み込む。
握らされた石を見て、ハルは涙に濡れた目で祖母を見上げた。
「なあに?」
手と同じくらい皺くちゃな顔に、優しい笑みを浮かべて、祖母は至極真面目に答えた。
「これはね、魔法の石だよ。ハルちゃんの不安な気持ちも、悲しい気持ちも、嫌な気持ちは全部吸い取ってくれるよ」
そう言って、石を握るハルの手をぽんぽんと優しく叩いた。
ハルだって、小学生だから「魔法の石」なんて存在しないことはわかっていた。
だけど、確かに心は軽くなったから、ハルにとってその石は「魔法の石」になったのだ。
それ以来、ハルはどこに行くにも、いつだって「魔法の石」をお守り代わりに持っていった。いや、祖母が作ってくれた小さな巾着袋に入ったそれは、真実お守りだった。
大人になっても、それは変わらない。
就活の最終面接の時には直前まで握りしめていたし、彼氏のご両親に会いに行くときも鞄に入れていた。
ハルの心を、「魔法の石」はいつだって軽くしてくれた。
なのに。
なのに、今、いくら石を握っても、溢れてくる悲しみに胸が押しつぶされそうだった。
「おばあちゃん、おばあちゃん」
涙はいくらだって後から後からこぼれてくるのに、祖母はそれを拭ってはくれない。
斎場の布団の上で、祖母はもう、目を開けてはくれない。
「魔法の石」は、役立たずだ。
だって、ハルはわかっていた。
「魔法の石」は、石だけではだめなのだ。いつだって、「魔法の石」に魔法をかけてくれたのは祖母だった。
「大丈夫だよ」
「頑張れ、頑張れ」
「ハルちゃんならできる」
そんな言葉とともに、背中を押してくれたのはいつだってハルのおばあちゃんだった。
魔法使いが居なくては、「魔法の石」はただの石になってしまうのだ。
泣きつかれ、通夜の場でうつらうつら舟を漕ぐハルに、母は別室で眠るように促す。斎場の人が、布団を敷いてくれているから、と。
「通夜の番はね、お父さんたちがいるから」
こくりと一つ頷いて、ハルは用意された別室で横になった。
吸い込まれるようにハルの意識は眠りの中に落ちていく。
「ハルちゃん」
真っ白な世界。果てすらわからないその場所には、場違いな古びたちゃぶ台が一つと、その前に正座をする祖母の姿があった。
「おばあちゃん」
手招きする祖母に従って、祖母の隣に座る。ハルのいつもの定位置だった。
「ハルちゃん。大丈夫、大丈夫だよ。ね」
小さな手が、ハルの背中をゆっくりと擦る。手のぬくもりが体に染み込むようで、ハルは初めて自分が氷のように冷えている事に気付いた。
「おばあちゃん、寂しいよ」
「うん。うん。でもね、ハルちゃんは大丈夫よ。ばあちゃん、いっつも言ってるでしょう?」
「うん」
ハルちゃんなら、大丈夫。
目が覚めて、頬を伝う涙を拭った。腫れた瞼を濡らしたハンカチで冷やしながら、気が狂いそうな悲しみが落ち着いているのを理解した。
悲しみは未だある。けれど、それは穏やかで、ハルの心をぐちゃぐちゃに踏みにじるようなものではなくなっていた。
やっぱり、おばあちゃんは魔法使いだ。
一つ溢れた涙は瞼にあてたハンカチに吸い込まれた。
ハルは「魔法の石」を握って、呟いた。
「大丈夫、大丈夫」
これは、ただの石。そしてやっぱり、「魔法の石」なのだ。