星なき夜空
「入れ」
そういって、牢番は手荒くナツたちを牢内に押し込んだ。
「痛いじゃないか、もう少し丁寧にあつかいやがれっ」ナツ以外のもう一人の新入り、見た目はまだ十五、六の小娘が太い樫の木を組み合わせた頑丈な牢 格子 の隙間から叫ぶ。
「へっ、威勢がいいのも今のうちさ。今晩から、怖いお姉さん方にたっぷり可愛がってもらいな」
男は、鼻で笑いながら遠ざかっていく。
「なんだと、このサンピン!」
「おい、あんた」
ナツはサヨの背にささやいた。
「あんたじゃない、あたいにはサヨっていう名前があるんだ」
「じゃあ、サヨ、大声で怒鳴るのはやめて、さきに皆さんに挨拶をするんだ」
「皆さんだぁ――っと、揃ってますね」
振り返ったサヨは、窓のない牢屋に浮かび上がる無数の目の多さに息を呑んだ。
ナツは、膝をついたまま、するすると前に進み、重ねた畳の上で肘をつく中年の女の前で停まった。
「ここを仕切られる茜の親分さんとお見受けします。手前は、神田八坂町あたりを縄張にしておりますスリ、雷鳴のナツというケチな者にござんす」
立て板に水の挨拶をすませると、懐から小ぶりな巾着を取り出す。
「こいつはつまらないもんですが、ご挨拶がわりに、どうぞ」
中身は浅草先谷堂の金平糖だ。牢屋ぐらしが長くなると、一番欲しくなるのは、こういった甘い菓子であることをナツは知っている。
「気が利くじゃねぇか、おい、みんな、こいつのことをよろしくたのむぜ」
暗闇のなか、うつむいたままナツは密かに笑顔を見せた。
ここは、地獄の一丁目といわれている、小伝馬町の女牢、西の揚屋 だ。正式には小伝馬町牢屋敷とよばれるこの場所は、中央の当番所を挟んで、西と東に、外側に向かって口 揚屋 ・奥 揚屋 ・大牢 ・二間 牢 と並んでいる。
本来は、身分によって入れられる牢が決まっているが、女は「身分に関係なく」西の揚屋に入ることになっている。ナツにとって好都合なことに……
控えめに牢の端に身を寄せると、ナツはゆっくりとあたりを見回した。女牢は三部屋あり、それぞれ広さが二間半ある。
近頃は、女の科人 が増えたため、ひと部屋に十二人近くが入れられていると聞いたが、この一番牢は今入った二人をいれても十人だ。
十人、危ない人数だね――ナツは呟く。
「ふざけんなっ」
大声とともに悲鳴が上がった。
見ると、サヨが床に横倒しに倒れている。
「土産もなし、口の利き方もなってねぇ。それで、この地獄を乗り切るつもりか」
役人は、牢内のできごとに口出しをしない。
娑婆での大物ぶりと役人のつながり、起こした事件の大きさで認められた者が、役人から指名されて牢名主となる。
牢内では牢名主が将軍となり、人殺しさえやってのけるのだ。
食事は朝夕の二度。玄米三合と汁物が配られるが、人数分配られるわけではない。
十人を超えて、食べ物が行き渡らなくなると、公然と「作造り」と称する殺人 が行われる。いわゆる間引きだ。
間引かれるのは、主に規律を乱す者、元岡っ引や目明し、いびきのうるさい者、牢外からの金品による差し入れのない者などだ。
殺したところで「病気で死にました」と届け出れば、特に咎めを受けることすらない。
ナツは、冷たい目でサヨを見つめた。
この地獄に来るのに、どんな作法を覚えればよいのか、何を持ち込めば楽に過ごせるのかを調べないのが間違っているのだ。
女の身体は、ものを隠すのに向いている。
いろんな方法で、名主の喜ぶものを持ってくるのは当たり前。
それができなければ、痛い目を見るのは仕方ない。
「ちょ、ちょっとお待ちを」
サヨが、転がったまま声を上げる。
「姉さん、お耳を拝借……」
「なんだぁ」
牢名主、茜の指示で、サヨを痛めつけていた痩せた女が耳を寄せる。
「あっ、何しやがる」
女が叫んだ。
見ると、女の耳から血が噴き出している。
「へん、不味い耳だね。痩せた年増は耳まで喰えぬ、だ」
口から血の糸を引きながら、サヨが都々逸 の節回しでうそぶいた。
「いい度胸してるじゃないか。だけど、ここじゃあそれは通用しないよ。おいっ、だれかこいつの身体に教えてやんな」
茜の指図で、女たちがサヨに飛びかかる。
それを横目で見ながら、ナツは背を丸め壁に向けて横になった。
あんな世間知らずでは、二、三日のうちに、あの小娘は作造りされてしまうだろう。
娘の身体に食い込む折檻の音を背中で聞きながら、ナツは眠りにおちた。
ともかく――すべては明日からだ。
「姉 さん」
夜中、牢の端にある雪隠で用をたしたナツが着物を正していると、すぐ側で声がした。
サヨだった。
揚屋には、半間程度の大きさの手洗がある。
もちろん別な部屋ではなく、同じ牢内にあって四角く穴が空いているだけで、臭いもひどい。牢内で一番身分の低いものが、その側で寝るのだ。
「お前も馬鹿だな」
顔全体を青黒く腫れあがらせた娘にナツが言う。
「嫌いなんだ。こんな小さいところで殿様ごっごしてやがる奴らが」
サヨが痛そうに口を開いた。
「あんたがガキなだけだろ」
「そう、あたいはガキなんだよ」
なぜか嬉しそうにサヨが笑う。
「誰か、あんたに差し入れする知り合いはいないのかい、でないと、あんた死ぬよ」
「あたいは天涯孤独さ」
「じゃあ――死ぬんだね」
「……」
ナツの冷たい言葉にサヨは何も言い返さなかった。
ただ、じっと彼女の目を見つめる。
目をそらし、自分の寝所 に戻りながらも、ナツはその妙に力強い目の光が気になっていた。
翌日、ナツは、ようやく同じ牢内の女と話をすることができた。探していた女だ。
「およしさんだね」
「なぜ、わたしの名前を知っているのです」
武家らしい言葉遣いのその女は、牢暮らしでやつれてはいるものの、物腰も顔つきも上品だった。
だが、ナツを見る目は疑わし気だ。
「正木様の使いで参りました」
その言葉で、女の引き締まっていた口元が柔らかくなる。
「まあ、ご老中さまの――」
「しっ、さあ、こちらへ」
そういって、牢の隅へおよしを連れて行く。
昨日の心づけと茜の「良くしてやれ」の言葉が効いたのか、誰も文句をいわない。
「あなた様が、お屋敷でお勤めのおり、若年寄、都築 主馬の悪事に気づかれたため、お仲間に斬りかかったという罪をきせられて小伝馬に入れられたということは、正木様もご存じです」
「きっと、おじ様が助けてくださると信じていました」
「おじ様……あなた様はいったい?」
「あの方の一番上の姉が、わたしの母なのです」
ナツはひっそりとうなずいた。だから都築はすぐに彼女を殺せなかったのだ。仕方がないので罪をでっちあげて、およしを小伝馬に送り、自分の意のままになる囚獄(牢屋奉行)石出 帯刀 の指示で獄死させるつもりなのだろう。
もっと身分が高ければ小伝馬に送られることもなかったのだろうが、下級役人を父に持つおよしの身分は、町人とさほど変わりがなかったのだ。
およしは、低く落ち着いた声で、手に入れた主 馬 の悪事を細かく語った。怪しいと思ってから主馬に知られるまでのひと夏を探索に当てたのだという。
「危ないことを……」
「ですが、おかげで悪人を叔父様に退治していただけます」
「その通りです。明日、わたしは牢を先に出ますが、二、三日うちには、あなた様も外の景色をごらんになれるはずです」
「ありがとうございます」
「あと少しの辛抱ですよ」
「星を――」
「はい?」
「星を見たいのです。この牢屋には窓もありませんから。でも、こうやって目を閉じれば、星のない空にも満天の星を思い浮かべることができるのです」
翌日、ナツに朝の食事を運ぶ役が回ってきた。玄米と塩味の薄い汁物だ。
みなに、ひとつずつ器を配る。
牢名主、茜へは、それが決まりで、二つの汁を配ろうとして――
「おっと手がすべったよ」
まともに、熱い汁を茜の顔にかけてやる。
「うわっ、何しやがる」
「ああ、すみません、おっと危ない」
そういいつつ茜の顔を拭こうとして、足をすべらせたふりをし、すぐ脇にいる手下の女を蹴り倒した。サヨをいたぶっていた女だ。
「こいつ!」
茜が立ち上がって襲いかかってきた。
大きな女だった。ナツより頭ひとつ背が高い。
だが身体が大きい、それだけの女だった。
その動きは直線的で何も工夫がない。
ナツは身をかがめて大女の胸元に入り、伸び上がりながら掌を茜の顎に突き上げた。
同時に左に回り込み、牢名主の利き腕の間接を外す。
相手の身体の破壊に身体の大きさや力など必要ない。長年の修練がそれを可能にするのだ。
振り返ると、手下の女は口をザクロのように真っ赤にして白目をむいていた。
「おい、弱い奴をいたぶるのはやめろ」
騒ぎを聞きつけた牢番が、含み笑いをしながらいいかけ――
倒れているはずの新入りのナツが立って、茜が転がっているのを見て声を上げた。
「お、お前、何をしている」
慌てふためきながら鍵をあけ、牢内に入って、ナツを取り押さえる。
「なんて奴だ。とんでもない騒ぎを起こしおって、ただですむと思うなよ」
牢の外に連れ出されながら、なつは、およしに目配せをした。
サヨには、片目をつぶってみせる。
――これで、あんたもしばらくは怪我をしなくてすむだろう。
――余計なお世話だってんだ。
彼女の目はそういっていた。
その後、あらかじめ決めてあった通り、ナツは奉行所で再吟味するという名目のもとに、昼過ぎには伝馬町牢屋敷から解放された。
そのまま、八丁堀近くの湯屋に回ってさっぱりしたナツを、背の高い同心が出迎える。
「ご苦労さまでした。那津姫さま」
「姫はやめろって、山田。わたしは江戸の長屋で育って何度も小伝馬に入った、ただの科人あがりの女さ」
「それでも、あなたは会津藩主の血を引く姫さまに違いありません。ともかく正木さまがお待ちです。お着替えになって、ご一緒ください」
夜半、老中の屋敷で会った正木は、心なしか疲れているようだった。
「こたびはご苦労だったな。那津」
「およし様から聞き取った話は、これから書状にまとめてお渡しします。今は、一刻も早く、あの方を小伝馬から出してさしあげませんと」
「もうよい」
「は?」
「もうよいのだ。今日の夕刻、お前のいた一番牢は一人をのぞいて全員死んだ。食あたりだ――およしも死んだ」
「そんな……それで生き残ったのは?」
「サヨという巾着切りの娘、だそうだが、その後どこに消えたのか足取りがつかめぬ」
「まさか――」
「そうだ。おそらくは都築の手の者に違いあるまい」
正木はしばらくうつむいたあと、
「生き証人は死んでしまったが、話を聞いたお前が生き残って良かった。まだ打つ手はある」
「――もうしわけありません」
「お前のせいではない。だが……ひとつ、わしの我がままを聞いてくれぬか。いま、むこうの奥座敷に男が待っておる。およしの許嫁じゃ。いや、正しくはそうではないのだが、まあ、そのようなものだ。ふたりともよい年なので、互いのつとめを口実に、長らくわしが反対をしておったのだが……愚かであった。あやつに牢内での、およしの様子を教えてやってくれ」
奥座敷には、端正な顔立ちの男が座っていた。年の頃は四十近いだろう。およしが三十前であったから、許嫁と呼ぶには少々とうが立っているが、歳の差を考えれば似合いのふたりであったと思われる。
男は、幕府天文方 高梨裕吾と名乗った。
ナツは、牢内にあっても、およしが美しかったこと、毅然としていたこと、そして空の見えない薄暗い部屋にいて、なお星を眺めていたことを話した。
「おそらく、あの方の言われた星とは、あなたさまのことであったのでしょう」
天文方は星を見るのが仕事だ。
男は、ナツの言葉をかみしめるように聞いたあと、黙ったままゆっくりと頭を下げた。
屋敷を出ると、すっかり夜は更けていた。
月のない夜だった。
ひとり、無言で地面を踏みしめながら歩くナツの脳裏にはサヨの顔が浮かんでいた。
あいつは、若いながら天才的な人ごろしだった。裏の世界に詳しいわたしでさえ騙されるほどの。
だが――サヨは握りしめた拳を見る。
いずれ必ず見つけ出して、この決着はつけてやる。
真っ直ぐに前を見て歩くナツの目は、頭上に輝く満天の星など、一切見てはいなかった。
<了 >