黒猫のダークの物語
ダークは、門脇家で飼われている雄の黒猫だ。
闇夜を猫のカタチに切り取ったような、漆黒の毛並みが美しい。
だから、「ダーク」という名前を付けたんだと、蒼は言う。
蒼は、門脇家の長男で、ダークを拾ってきた中学二年生の少年だ。
「ダーク」なんて、いかにも中二が考えそうな名前だけど、ダーク自身は、蒼のくれたこの名前をとても気に入っている。
新学期が始まったその日は快晴で、麗らかな春の日差しと、頬を撫でる優しい風が心地良かった。
通学路沿いにある公園の桜の木の下に、ダークは三匹の兄弟たちと一緒に、段ボールに入れられて置かれていた。
蒼の登校時間には既に段ボールはそこにあり、「みゅうみゅう」と鳴き声がしていたので覗いてみたのだが、今、猫を拾ったところで、学校へは連れていけない。
それに、四匹もいるんだからどうしようもない。
(誰か拾ってくれるかなぁ? また帰りに寄ってみよう)
そう思い直し、蒼は後ろ髪を引かれる思いで登校したのだった。
進級したばかりの二年生の教室で、新担任の先生の話を聞いている間も、蒼の心は上の空だった。
(あの猫たち、どうしただろう?)
そのことばかり気になってしょうがなかった。
散り始めた桜の花びらが、仔猫たちの上にもはらりはらりと降り掛かり、まだ目が開いたばかりの小さな体に、淡紅色の模様をつけてゆく。
兄弟たちは、みんな少しづつ毛色の違う、それぞれに可愛い仔猫たちだったが、真黒なのはダークだけだった。
仔猫たちが置かれていた公園は、それなりに広く、魅力的な遊具がたくさん設置されている。
そのせいか、いつも子どもたちの歓声で溢れていたし、その子どもたちに付き添う大人たちも大勢いた。
だから、桜の木の下に意味ありげに置かれ、微かに鳴き声のする段ボールの存在に気付く人は多かった。
「わあ、猫! 可愛い〜」「ちっちゃ〜い」「飼いたい!」
子どもたちが駆け寄って歓声をあげると、大人たちも集まってきた。
「捨て猫なんて酷いよねえ」「誰がこんなこと……」なんて口々に話しながら、仔猫を抱き上げて家に連れて帰ってくれる人がいたことは、不幸中の幸いだったかも知れない。
最後に、たった一匹残っていたのが、黒猫のダークだった。
その体はひときわ小さく、既に相当弱っていた。
ダークは、「みゅう……みゅう……」と弱々しい声をあげて必死に鳴いたが、お昼前の公園は、人影も疎らになり、弱りきったダークを連れて帰ってくれる人は、誰もいなかったのだ。
ダークの声はさらに弱くなり、ついには口を開くことも、体を動かすこともできなくなった。
春風がふわりと通り過ぎ、桜の花びらが優しく舞い降りてきて小さな瞼に触れる。
ダークはそれに促されるように、静かに目を閉じて、深い眠りに落ちていった。
◇◇
次の日、ダークが目を覚ましたときは、温かい部屋のふわふわのベッドの上だった。ここはどこで、どうやってここに来たのか、ダークは全く憶えていなかった。
ただ、自分の胸に広がる安心感と、既視感のようなものが不思議だった。
「お母さん、猫が目を覚ましたよ! ちゃんと生きてる!」
人間の少年が、嬉しそうにそう言ってダークの小さな頭を人差し指で撫でた。それが蒼だった。
どこか親しみの湧く笑顔とその声に、ダークは心からホッとした。
蒼の母は「うん。良かったね」そう言って微笑んだが、あまり元気がないように見えた。
それもそのはずだった。彼女はほんの数週間前に、大切な我が子を亡くしたばかりなのだから。
その子は蒼の双子の弟で、名前は「翠」といった。
二人は一卵性の双子だったので、見た目こそそっくりだったが、小さく生まれたわりには健康に育った蒼と違い、翠は生まれつき重い心臓の病気で、その短い人生のほとんどを病院で過ごした。
だから、蒼と翠は普通の兄弟のように、喧嘩をしたり、一緒に外で駆け回ったり、自転車に乗ったり、プールではしゃいだりしたことはなく、翠が疲れてしまうからと、旅行に行ったりすることも勿論なかった。
医師から外泊許可をもらい、翠が家で過ごせるときは、二人でゲームをしたり、玩具で遊んだり、静かに絵を描いたりして過ごした。
そのとき、翠の描いた猫の絵が、今でもリビングルームの壁に飾ってある。
それは黒猫の絵で、不思議とダークによく似ていた。
翠も蒼も動物が好きだった。特に、隣家で飼われている猫を気に入っていて、自分たちも飼ってみたいと母に何度も訴えた。
門脇家の住まいは、母方の亡き祖父母が残してくれた古い戸建て住宅だ。だから、猫を飼えないわけではない。
しかし、シングルマザーの母は、パートをいくつか掛け持ちしていたし、翠の入院している病院へも通っていたため、目の回るような忙しさだった。
父親は、蒼と翠が幼い頃に家を出てゆき、今では別の家庭があるらしい。
「ちゃんとお世話してあげられないとにゃんこが可哀想。お母さん忙しいし、蒼にはまだお世話は無理でしょう? だからね、今は飼えないの。ごめんね……」
母はそう言って、幼かった蒼をなだめた。
蒼自身も、物心つく頃には、そんな母を困らせることは言うまいと、我慢するようになっていた。
だから、ダークを家に連れて帰ろうと思った瞬間、蒼の脳裏には母の顔が浮かび、飼うのを反対されるのは覚悟していた。
「元気になるまでお世話したら、どこか貰い手を探さなきゃね」
そう言われるに違いないと思った。
でも、蒼はもう幼い子どもではない。
猫の世話くらい自分でやれるはずだ。
いざとなったら母にそう言って頼んでみよう。
そんな決意をして、ダークを家に連れてきたのだった。
「ねえ、この猫、うちで飼ってもいい?」
蒼は、思い切ってストレートにそう切り出した。
「うん。いいよ」
母のあまりにもあっさりした承諾に、蒼は拍子抜けしつつも嬉しかった。
「本当に? やったあ! でも、なんで? 反対されると思ってた」
「その猫、翠の描いた絵の猫に似てるよね? 蒼もだけど、翠もずっと猫飼いたいっていってたじゃない」
「……うん」
「やっとおうちに帰って来られたんだもん。猫がいたらきっと喜ぶよ」
「うん。そうだね……」
「それにね、本当はお母さんも、猫を飼ってみたいってずっと思ってたんだ」
◇◇
それから、蒼と母とダークの、二人と一匹の暮らしが始まった。
ダークは、死にかけていたのが嘘みたいに食欲旺盛で、ミルクをたくさん飲んですくすくと育った。
そして、ミルクを卒業すると、キャットフードをもりもり食べた。
その甲斐あってか、手のひらに乗るほど小さかった体も、今では雄猫らしいガッシリとした存在感を示し、漆黒の毛並みと金色の目が美しい大人の猫へと成長した。
ダークは不思議な猫だった。
トイレや爪研ぎの場所は一度で覚えて失敗することがなかったし、人間の言葉や表情をちゃんと理解してるようで、恐ろしく頭がいい。
それでいて、やけに普通の猫らしく振る舞い、自由で野性的で、手の掛かるところもある。
そのギャップが、蒼や母には可愛いらしく思えた。
蒼は、その日あったことや、悩みごとなど、何でもダークに話して聞かせるようになった。
友達と喧嘩したこと、新しいクラスになかなか馴染めないこと、好きな女のコのこと、失恋したこと、先生への反発や、母への不満。
まるで弟の翠が、猫の姿を借りて帰ってきたような気がした。
何しろ、蒼の話を聞いているときのダークは、耳をピンと立て、猫とは思えないほど思慮深い表情をしているのだ。
そして、蒼が話し終えるまで、その場を動くことはなかった。
実は、母も同じようにダークに語りかけていた。
今夜の献立のこと、職場の上司の愚痴、反抗的になった蒼のこと、亡くなった翠のこと。
家事をしながら、取りとめもなく話した。
聞き上手のダークは、緩衝材のように、思春期の息子と母の決定的な衝突を防いでくれていた。
そのおかげか、二人きりの暮らしはさほど息詰まることもなく、それなりに平穏に過ぎていったのだった。
◇◆◇
中学校を卒業した蒼は、県内でも指折りの進学校へと進み、その後は自宅から通学のできる、とある国立大学に入学した。
大学進学は諦めていたのだが、もともと成績の良かった蒼を気に掛けてくれていた担任教師の勧めもあり、奨学金を受けて進学することを決めたのだ。
そして、この春、無事に大学を卒業し、希望していた大手企業への就職が決まった。
蒼にとって何より嬉しかったのは、これでやっと母に恩返しができることだった。
「翠、明日が入社式だよ。俺さ、これから頑張って母さんを支えていくから、安心してくれよな」
蒼は、リビングに置いてある、翠の写真が飾られた小さな仏壇に手を合わせて呟いた。
「にゃーーん」
相変わらず、美しい漆黒の毛並は健在だが、すっかり貫禄のついたダークが、鳴き声をあげた。
「ダーク、お前も喜んでくれてるのか?」
ダークは喉をゴロゴロと鳴らしながら蒼の足元に鼻先を擦り付けた。
「翠も元気に生きてたら、蒼みたいに就職なんてしてたのかしらね……」
振り返ると、もう眠っていると思っていた母が立っていた。
「母さん、まだ起きてたのか。俺、翠の分まで頑張るよ」
「ふふ、頑張り過ぎなくていいのよ。無理しちゃダメよ」
「いや、俺、楽しみなんだ。明日からやっと母さんに恩返しができるんだからさ」
「恩返しなんて……私の方が蒼に生かされてきたのに」
「ダークがいたお陰でもあるよな」
「そうね。ダークもいつもありがとね」
母はそう言ってダークを床から抱き上げると、しっかりと胸に抱き、その柔らかな毛並みに頬ずりした。
「じゃ、俺もう寝るよ。ちょっと頭痛がするし」
「やだ、薬飲んだ?」
「ああ。さっき飲んだ」
「本当に無理しないでね。明日は何時に起きるの?」
「六時には起きなきゃまずい」
「そっか。仕事休みだけど、早めに起きてご飯作るよ」
「ありがと母さん、おやすみ」
「おやすみなさい」
母は、ダークを抱いたまま、リビングの隣の寝室へと戻っていった。
◇◇
「蒼? 今日は早く起きるって言ってたのに、まだ寝てるの?」
翌朝、六時を過ぎても起きてこない蒼を不審に思った母が部屋のドアをノックするが、全く返事はない。
「……蒼? 入るよ?」
母は胸騒ぎを抑えつつ、ドアノブに手を掛けた。
母の後を追ってきたダークは、いつになく激しく鳴き続け、ドアが開いた瞬間、蒼の部屋に飛び込んで行った。
門脇家に、けたたましい救急車のサイレンの音が近付き、玄関の前で止まった。
早朝の騒ぎに、近所の住民たちが何事かと覗いている。
救急隊員たちの手で慌ただしくストレッチャーに乗せられて運び出されてきたのは、意識を失い、全く血の気のない顔色の蒼だった。
取り残されたダークは蒼の部屋にいた。
部屋に飛び込んだとき、意識のない蒼の側に立っていたのは、昔会ったことのある、黒衣の男だ。
全く日に当たったことのないような白い肌に、ダークに引けを取らないほどの漆黒の髪がよく映え、その鋭い目には、仄暗い光を宿している。
一見若いように見えるが、同時に年老いても見える。
ダークは彼が何者なのか知っていた。
いや、翠は、と言うべきか。
「死神、あなたを引き止めた理由は分かっているはずだ。蒼を連れていかないでくれ」
「ふぅん? 君は勝手なことばかり言うね」
「……あの日、黄泉の国へと旅立つのを拒んで逃げた僕を、あなたは見逃してくれた。そのことには心から感謝している」
「感謝、か。なにも私は見逃したわけではないんだがな……」
「……でも、こんなに長い間、家族と暮らせたのはあなたのお陰だ」
「ふん、それで? 今度は兄を見逃してくれと?……ふざけたことを」
「そうじゃない……」
「お前に、黄泉の国へ連れて行くのはもう少しだけ待ってくれと懇願され、子どもだからと、死神らしくもない情けをかけた私も馬鹿だったが……」
「……」
「約束の期日に迎えに来てみれば、死んだばかりの猫の体を奪って生きながらえているとはな」
「それは、違う」
「何が違うと言うんだ?」
「あのとき、猫は瀕死の状態だったが、まだ辛うじて息があった」
「ほう……」
「僕は猫の体を奪ったわけじゃない。こいつの中で密かに共存してきたんだ。僕が離れても、こいつはちゃんと生きていける」
「猫から離れる? それで、お前が兄の代わりに今さら黄泉の国へ行こうと言うのか?」
「ああ、その通りだ」
「本当に身勝手な奴だ。死ぬ予定だった人間の寿命を曲げることなど、本来許されることではない」
「……っ、死神、お願いだ! あの時僕が逃げた報いを蒼が受ける謂れはない! 今度こそ僕の魂を連れてってくれ!」
「それとこれとは別のことだ」
「そうだとしても! お願いだ! どんな罰でも受ける! だから、頼む……っ!……お願いだから……」
涙声で懇願する猫を、死神はじっと見下ろしていた。
◇◇
蒼は、夢を見ていた。
今まで何度も見た夢だ。
名も知らぬ美しい花々や、満開の桜が咲き乱れる麗らかな春の野で、とうの昔に死んだはずの翠と一緒に、駆け回り、転げ回って遊んでいる。
その姿はいつも、幼い頃の二人のままだ。
夢の中の翠の頬は薔薇色で、健康そのものに見える。
遊び疲れた二人は、草の上にゴロンと寝転び目を閉じた。
風に揺れる木々の葉ずれの音や小鳥のさえずりが優しく耳を撫で、甘い花の香りが鼻孔をくすぐる。
何もかもが幸せ過ぎて、悲しかった。
夢の中でも、これは夢だと分かる夢。
もし許されるなら、この夢に浸っていたいと思うのに、やはり翠の言う台詞はいつも同じだった。
「ねえ、蒼。僕ね、遠い場所へ行くことになったんだ」
「……」
「だから、蒼がお母さんをちゃんと守ってあげてね」
「……なんで行っちゃうの? ずっと一緒にいようよ」
翠は、悲しげな表情でかぶりを振る。
「それは無理なんだ。今度こそ約束を守らなきゃ」
(あれ? いつもと違う台詞だ……)
蒼が引き止めても、翠がかぶりを振ってどこかへ行こうとするのは同じだが、《約束》とは何だろう?
「どんな約束?」
「蒼には内緒だよ」
「なんで?」
「なんででも」
「教えてよ!」
「しょうがないな……」
そのとき、強い風が吹き、目を開けていられないほどの桜の花びらが舞い、翠の姿はその花吹雪に掻き消されるように見えなくなった。
「翠!? どこにいるんだ!?」
気がつけば、蒼は元の大人の体に戻っていて、必死に目を開けて、花吹雪の向こう側へと手を差し伸べたが、その手を掴む者はいない。
ほどなくして、空一面を覆うように舞っていた花びらの一片一片が、はらはらと地面に降り積り、何事もなかったように長閑な春の景色が戻った。
そこには、蒼と瓜二つの青年と、見覚えのある漆黒の毛並みを持つ猫の姿があった。
「……翠? お前、翠なのか?」
「……そうだ」
「そこにいる猫は、ダーク?」
「ああ」
「どうしてこんな所に……それに、何でお前と一緒に……?」
「……僕、ずっと寂しかったんだ。蒼や母さんと、普通の家族みたいに暮らしたかった……それが叶ったのは、ダークのお陰だ」
「どう言う意味だ?……まさか、本当に……?」
「?」
「翠、ダークはお前の生まれ変わりなのか?」
「……あはは! そうか、なるほど。そうだったら本当に良かったのにな」
「……違うのか?」
「うん。ちょっと違う。僕、ダークの中に居候させてもらってたんだ」
「はあ? どういう意味だかさっぱり分かんねえよ」
「はは、そりゃそうだよな。とにかくさ、僕もう行かなきゃいけないんだよ」
「何でだよ。よく分らないけど、今までダークの中にいたって言うなら、そのままでいいんじゃないのか?」
「それが、そうもいかなくなったんだ」
「どうして……」
「……僕は、死神と一緒に黄泉の国へ行くことにした」
「は?」
「母さんには、僕がダークの中にいたことは言わないでおいてくれ。僕のことで、何度も悲しませたくないんだ」
「……なんで今更そんなこと言うんだ? お前、狡いよ。そんなこと聞いて、俺があっさり納得できると思ってんのか?」
「……ごめん」
「これで本当にお別れなのか?」
「……ああ。僕はとうに死んだ人間だ。あのとき素直に死神の手をとっていれば、こんなことにはならなかった……ごめんな、蒼」
「……」
「脳出血の後遺症はごく軽いはずだ。リハビリ頑張れよ。でも、お前真面目過ぎるからなぁ。あんまり無理しちゃダメだぞ」
「……どっちなんだよ」
「あはは! 無理せず頑張れ! 母さんをよろしくな」
「……ああ。お前も元気でな……ってのも変だな」
「ははっ、確かに変だな……」
「蒼……っ! 戻ってきて! 蒼っ!」
遠くで誰かが呼んでいる。あれは、母の声だ。
(翠も俺も、母さんを悲しませてばかりだ……ごめんな。今、戻るから)
「じゃあな、蒼。ダークも本当にありがとう。俺が本当に生まれ変わるまで、ずっと元気でいるんだぞ」
「にゃーーん」
ダークは翠の顔を見上げて、淋しげにひと声鳴いた。
翠は、軽く右手をあげ、蒼とダークに背を向けた。
その後ろ姿を、また桜吹雪が掻き消してゆく。
目の前が、淡紅色から徐々に白く染まってゆき、その先に淡い光の輪が見える。
(ああ、帰って来た。母さん、ただいま)
◇◆◇
季節は巡り、何ごともなかったかのように草木は芽吹き、また花が咲く。
桜はもう満開だが、散り始めるにはまだ早い。
「ダークってばすっかり普通の猫みたいになっちゃったわね。やっぱり年なのかしら?」
母はそう言いながらも、以前と変わらず、愛おしげな手つきで膝の上のダークの背を撫でる。
「俺が中二の春に家に来たんだから、もう十歳くらい?」
「そうねえ。猫の十歳って人間で言うと幾つくらい?」
「ちょっと待って……」
蒼はスマートフォンを取り出して検索する。
「なんか、五十代半ば? それくらいらしい」
「やだ。それじゃ私とあんまり変わんないじゃない。まだ老け込むには早いわよ」
母の言葉に苦笑しながら、蒼はダークのためにキャットフードと水を用意する。
ダークの食欲はまだまだ衰えることなく、元気そのものだ。
そして、蒼の体も順調に回復していた。
手足の軽い痺れはあるものの、リハビリを続けながら仕事に復帰できるまでになったのだ。
門脇家に、また二人と一匹の穏やかな暮らしが戻ってきた。
◇◆◇
「まま、おでかけした?」
「うん、ちょっと病院に行ってるよ」
「だーく、だっこする」
三つになったばかりの蒼の娘、藍が、絵本を読む祖母の膝から離れ、ダークの寝床を覗き込もうとしている。
門脇家は、蒼の結婚を機に建て替えられた。
南向きの日当たりの良いリビングルームには、庭に面した大きな掃き出し窓があり、ダークのお気に入りの寝床がそこに置かれている。
漆黒の毛並みには白いものが混じり、ひとまわり小さくなったダークは、そこで日なたぼっこをしながら、一日の大半を微睡んで過ごすようになっていた。
「だーく、ねんねしてるよ」
「どれどれ? よく寝てるかな?」
蒼は藍の隣にしゃがみ込んで、満ち足りた顔で眠る、ダークの柔らかな毛並みに触れた。
「……ダーク?」
思わず蒼の手が止まる。
「どうしたの?」
今は祖母となった蒼の母も、ダークの寝床を覗き込み、それきり言葉を失った。
ダークは既に事切れていた。
十八歳の、大往生だった。
春風が吹く。どこから運ばれてくるのか、淡紅色の桜の花びらが、ひらりひらりと門脇家の庭にも舞い落ちる。
(ダーク、お前との思い出はいつも、春の景色の中だったな……)
「だーく、ねんねしたね〜」
藍の言葉に、母は声を殺して泣いていた。
蒼は、母や藍に背を向けて、じっと天井を仰いだ。
帰宅した妻から、待望の第二子を授かったことを聞いた蒼は、確信めいたものを感じていた。
ダークは、翠との約束をちゃんと果たしたのだ。
その誇りを胸に、安らかに旅立って行ったに違いない。
麗らかな春の日差しの中、満足気な顔で永遠の眠りについたダークの姿を見れば、そう思えてならないのだった。