2・夜彦は何を描くのか
夕暮れの教室で彼が言った。
「今年残るのは僕達四人だけらしいよ」
見上げた彼の整った顔に夕焼けが映って、肌の色がオレンジに変わっていた。その暖かい色あいに、僕はなんだか懐かしいような穏やかな気持ちになった。
「そうなんだ、なんだか楽しそうだね」
彼は驚いたような顔をした。
「楽しそう……?」
「うん、楽しそうじゃない? みんなで残って寮ですごすのって」
「……そう、かな?」
「そうじゃない? 大人の居ない場所で、閉じられた空間で、決まった人数だけで過ごすんだ。それってすごく楽しそう。それに君が居てくれたら他の誰といるより楽しいしね」
彼は薄く笑みを浮かべた。
「そっか……そう考えると楽しそうだね」
「うん、楽しいよ」
「ああ、楽しみに……しようかな、僕も……」
彼のオレンジに染まった少し寂しげな笑顔は、僕の脳裏に焼きついた……。
「今年も四人だってね」
綾人は顔を上げた。そこには教師の川瀬裕也が立っていた。彼はまだ26歳で綾人達と年齢の近い若い教師だった。
先程、夜彦以外の三人が談話室にいる時に川瀬は現れた。川瀬は三人に混ざって座り、会話に参加していた。
「今年は相良も残るんだってね。絵でも描くのかな?」
「そうなの? 夜ちゃん絵を描くので残ったの?」
一意が聞くと川瀬は首を傾げる。
「いや、知らない。思いついて言ってみただけ。だってあいつ美術部じゃないか。だからここの大自然でも絵に描きたいと思いついたのかと思ったんだよ」
川瀬の言葉に綾人は考える。
絵を描くために残った? それが夜彦のしたかった用事? それならどんなに気が楽だろう。もしも夜彦が去年の事を調べるつもりなら、用心しないといけない。けれどただ絵を描くだけなら、そこまでピリピリと気を張り詰めないでもいられる。
「それで、相良のヤツはどこに居るんだ? 夏休み早々行方知れずじゃ困るんだけど」
「まだ寝てると思いますよ」
清春がテーブルで手を組みながら答えた。
「寝てるって、もう午後2時だぞ?」
「芸術家様なら昼夜逆転生活なんじゃないの?」
ふざけたように一意が言う。
「ここの風景画が描きたいなら昼夜逆転はないと思うけどな……」
綾人は少し不安に思いながら言った。
風景画。風景を描く。それはどこで描くのだろう? 緑の山々。古い民家。自然。動物。昆虫。植物。そこまで考えてドキリとした。ここには絵を描きたくなるような場所がある。いくつもある。けれど特に心惹かれるであろう場所がある。それは蓮池だ。
蓮池には7月の中旬から8月にかけて、蓮の花が咲く。丁度夏休みの時期に合わせてだ。その蓮池に夜彦は行こうというのだろうか?
そう考えると綾人の胸はギュっと締め付けられた。
「綾ちゃんはわかってないなー」
一意の声にドキリとした。見ると一意はいつもの邪気のない笑顔で綾人を見つめていた。
「綾ちゃんも川瀬ちゃんも何もわかってないよ。きっと夜ちゃんは人物画を描こうって思ったんだよ」
「人物画?」
綾人は聞き返した。すると一意は言う。
「きっとここに残って、美少年を描こうって思いついたんだよ!」
「どこに美少年がいるんだよ?」
清春の問いに、一意は胸を張りながら自分を指さした。
「お前は美少年じゃなくて微少年。つまり極めて小さい微少の微と書く。微少生物だろう?」
その発言に一意以外の全員が笑った。するとその時、廊下から夜彦が現れた。
「なんか、みんな揃って楽しそうじゃん?」
「おはよ、夜ちゃん」
「ああ、先生もいるんだ。久しぶり」
川瀬は微笑む。
「今、君がどんな絵を描くのか、みんなで話してたんだよ」
「絵? なんの?」
不思議そうに聞く夜彦に、川瀬は目を細めて微笑む。
「どの美少年の顔を描くために寮に残ったんだろうって、そう話してたんだ」
夜彦は談話室にいたメンバーを見まわした。
童顔で小柄な一意、顔は至って普通。
優等生で大人びた清春、顔はあっさりで優男風。
大人しくて真面目な綾人、顔はかわいい系。
そして何故かこの場にいる教師の川瀬。数学教師で理論的で、でも生徒と話が通じる気安さがある人間。顔は文句なく男前で笑うと歯磨きのCMに出てきそうだ。
その全員を見てから夜彦は言う。
「美少年描くなら自画像しかないじゃないか。このメンバーじゃさ」
言った瞬間、全員が手近にあったものを投げつけた。クッション、ハンカチ、ティッシュ、ペットボトル。次々に襲い掛かる小物をかわしていた夜彦だが、ペットボトルが額に的中した。
「いってー! 誰だよ、よりにもよってこんなの投げたの?!」
「あ、ごめん、当たると思わなくて」
「って先生かよ!」
みんな揃って、そのやりとりに笑った。
綾人は笑顔でここに居る全員を見渡した。親しい友人と信頼できる教師。とても楽しくて幸せだった。このままこの幸せが続けば良い。去年の事に誰も触れずに、望森の話など誰もしないで、このまま過ごせたら。それだけを綾人は望んでいた。
夜。綾人が自室にいるとノックの音が聞こえた。
綾人は深く考えずにドアを開けた。そして廊下に立つ人物に一瞬息を止めた。
「ちょっと話があるんだけど良い?」
内心ギクリとしたが、表面は笑顔で答える。
「いいよ。どうぞ入って……」
夜彦は部屋に入ると、ベッドに腰掛けた。綾人は机の椅子に座りながら、緊張しつつ聞いた。
「何? 夏休み早々寂しくなって、話し相手が欲しくなったの?」
夜彦はニコリと笑った。
「はは、そうそう寂しくてさ。綾人ちゃんが添い寝してくれないかと思って」
「僕の添い寝は高いよ。それよりイチイに声かけたら喜んで一緒に寝たがっただろうに」
二人は冗談を言い合った。けれど綾人は緊張した空気に気づいていた。夜彦は楽しい話をしにきたのではない。おそらく去年のあの件を問い詰めにきたのだ。そう思うと心臓を直接掴まれたような恐怖を感じた。
夜彦はベッドの上で胡坐をかくと、両手を頭の後ろで組んだ。
「たいした話じゃないんだけどさ……」
たいした話じゃない? じゃあどうして目がこんなに怖いんだよ? 綾人はそう言いたいのを堪えた。
「何かな……?」
心臓がさっきから激しく脈打っている。怖い怖い怖い。夜彦はきっとすべてを知っている。知っていて僕を糾弾しようとやってきたんだ。そう思うと体が震えだしそうだった。
夜彦は笑わない目のままで、綾人に聞いた。
「ミモリってさ、どんな人間に見えた?」
ドクン。
心臓の音が大きくなった。ドクドクドク。血管を破って出てくるんじゃないかと思える位、激しく脈打った。
「ミモリが何……?」
声がかすれた。喉が渇く。いや、喉が張り付くようだ。
「何って、うん、そのままの意味。あいつってどんな人間だった?」
意味が分からなかった。夜彦は自分に何を聞こうとしているのだろうか。どう答えたら良いのだろうか? 自分の答え方によって、何かの情報を得ようと考えているのだろうか? 分からない、分からない、分からない。
綾人は逆に聞き返す事にした。それで様子を見て、なんらかの答えを返そうと。
「夜彦はミモリの事、どう思ってたの……?」
「ん……ああ……」
聞き返されて、一瞬夜彦は困ったような顔をした。けれどすぐに腕を組みながら言う。
「あいつは優等生だったよな。クラスでも人気者でさ。みんなのお手本って感じ。頭脳明晰、品行方正、容姿端麗、明眸皓歯、ええと、他になんか褒め言葉あったけ?」
綾人はあいまいな顔をする。
「ま、俺のイメージはこんな感じ」
「……」
綾人は夜彦の言葉に足すべきかどうかを考える。よけいな事は言わない方が良い。けれど今の言葉では望森の人間性をカケラも現していないと思った。望森はそんな人間ではなかった。もっと複雑な繊細な……。
綾人は耐え切れず口を開く。
「ずいぶんと遠まわしな表現だね。今の言葉じゃ、まるでイジメ発覚後の学校のコメントみたいだよ。「あの生徒は明るくて人気者でした」そんな言葉で個人の何が語れると言うんだろう? 人間性には明るいと暗いしかないの? クラスには人気者と嫌われ者しかいないの?」
綾人はしまったと思った。語りすぎた。見ると夜彦の顔はさっきよりも余裕があるように見えた。
「じゃあさ、もっと人物像を描き出した言葉で綾人は言ってくれる? ミモリってどんな奴だった?」
意地悪な質問だった。返す言葉に困る。自分こそが望森の事を客観的に、他人事として語りたかったのに。
綾人は早まる心臓を抑える。冷静に、そう冷静に……。
「ミモリは思いやりのあるやさしい人だったよ……」
綾人は望森の事を思い出しながら言う。それは最初、望森に描いていた人物像だった。
「そう、やさしくて、でも芯は強くてね、真面目だけど、でも冗談は上手くて、みんなを楽しい気分にさせてくれる。しっかりしてるから頼りやすくて、僕もいつもミモリを頼ってたんだ」
「……それっていつまでの話?」
その一言に心臓が止まる気がした。
綾人はグルグルと世界が回っているように感じた。いつまで、いつまで?
綾人は思い出す。蝉の声。木陰を抜ける風。水の上の花。白く儚く。自分の描いていた幻想が消えた瞬間。自分の中から身を切るようにして出てきたものは、涙ではなくて赤い憎しみの感情だったことを。
夜彦がもう一度繰り返した。
「いつまで、ミモリを信じてたの?」
耳鳴りがする。そう思いながら唾を飲み込んだ。冷静になれ、冷静になれ。
綾人はつかえた喉から声を出した。
「いつまでなんてないよ……今もそう思ってる……」
夜彦が帰ったあとで、綾人は慌ててドアの鍵を閉めた。そしてふらつく足で机に近寄るとノートを探した。
ノート。それは綾人の心の拠り所だった。このノートが自分を支えてくれている。生きる力となっている。だからすぐにノートを見たかった。
綾人はページをめくる。そして目的の文字を探し出す。
『僕は彼を信用していた。とても良い友人だと思っていたんだ。けれど彼は僕が思っているような人ではなかった。あの日、それを知った僕は彼を殺した』
殺した。
綾人は机の上のペン立てからペンを取ると、新しいページを開く。そしてゆっくりと丁寧に文字を書き出した。
『大丈夫、彼はもう僕の前には現れない。二度と戻ってはこないんだ』
その行為は綾人にとっては、まじないのようなものだった。おまじない、願掛け、あるいは薬でも、言葉としては何でも良かった。
ただ綾人は錯乱したり強い恐怖にかられると、このノートが読みたくなった。読んで安堵する。もう彼は戻ってこないのだと。
誰が疑問に思っても、その事実だけは変わらない。だから綾人はことあるごとにこのノートを読み返し、更に文字を書き足した。そうする事で心が落ち着いて安心できた。
綾人は文字を書き終えると、書いた文を何度も読み返した。そして深く息をつく。そこまでしてからノートを机の引き出しにしまい、そしてベッドに寝転がった。
「マズイかもしれない……」
強いプレッシャーの後にはすぐにノートを見て安心したくなる。けれどこれからの四人だけの生活を考えると、いつどこで夜彦にプレッシャーをかけられるか分からない。すぐにでもノートを見て安心したいのに、手元にノートがなければ、錯乱さえしかねない。綾人はノートを持ち歩きたいと思い出していた。
でも、それは危険だ。
ノートを見ている姿を誰かに見られたら不審に思われる。しかもノートに書かれた言葉を読まれたら、それこそおしまいだ。だから綾人はノートの持ち歩きだけはしてはいけないと思った。
「我慢しないと……」
綾人はイラつきながら黙って目を閉じた。