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覚えているのは家に帰って、デスデスのオープニングを見ていたところまで。
あの後猛烈な眠気に襲われて、俺はスマホを急転落下させてしまった。額が割れるような衝撃を受けた後、気が付くとヴィルヘルムの体に入っていた、という訳だ。
(うーむ、これが噂に聞く異世界転移というやつか……)
実際に体験してみると、訳が分からないことばかりで困惑しっぱなしだ。それ以上に、どうしてよりによってヴィルヘルムになってしまったのか。
(どうせならディートリヒとかヘルムートとか、他の攻略キャラならまだアリスたんとくっつける可能性があったものを……!)
そうなのである。
このヴィルヘルム、最初に婚約破棄をするという悪役であるせいか、登場する男キャラの中で唯一、アリスティアとのエンディングがないのだ。
デスデスには多くのエンディングがあり、各攻略対象とのトゥルー、グッド、バットエンド、女友達との通称百合エンド、一人で生活をしていく自立エンド、加えてノーマルルートのエンディングも複数用意されている。
しかし俺がクリアしたあらゆるエンディングの中のどれをとっても、ヴィルヘルムとのエンディングはない。
もちろんエンディングリストもすべて埋まっているから、可能性を疑う余地もない。
ただ一つ、気になることが無いわけでもない。
実は以前、とある攻略サイトの掲示板に気になるコメントが投稿されたことがあった。それは『リストには載らないけど、ノーマルルートに差分があったよーテキストが少し違ってた』というものだ。
すぐに有志達が検証を始め、他のファンからも詳細を求める声が次々とついた。
それに対する返信が『ノーマルルートの最後で、ザンギュラのスーパーラリアッ上』とだけ書かれたもので、そのあまりに有名すぎる誤字に、やっぱりネタだったかと片付けられたのだ。
俺も数日は気にしていたのだが、投稿者のアカウントがいつの間にか抹消されており、奇妙な書き込みが残るだけ、という形で終わりを迎えた。
(ただノーマルルートの差分としか言っていなかったからな……。それならヴィルヘルムが関わる可能性はほぼないだろうし……)
学園の呪いと戦う最終局面において、活動できるのは主人公であるアリスティアと、攻略が進んでいる男キャラだけなのだ。
どのルートに行こうとも、ヴィルヘルムは他のモブキャラたちと同様、黙って生死の境をさまよっていることしか出来ない。テキスト上に個別名が表記されることすらない。
つまりヴィルヘルムである俺と、アリスたんが結ばれる可能性は、万に一つもないのである。
(そんな……! あんまりです……神様……ッ!)
俺は鏡の前で膝をつき、さめざめと泣いた。
ヴィルヘルムファンが見たら、きっと絶望するような光景だったに違いない。
ひとしきり滂沱の涙を流した俺は、気づいたら床に伏して眠ってしまっていた。顔を上げて鏡を見ると、泣き腫らした不細工な俺……もとい、少し目元が赤くなっただけの色男が、実に情けない顔で正対していた。
すごい。
全然崩れてない。
イケメンというやつは、顔のむくみや目の充血とも無縁らしい、と痛感したところで、こんこんと控えめなノックの音が響く。
「……?」
誰だろう。
もしかして何らかの事情を察したアリスたんが、わざわざ俺に会いに来てくれた⁉ と慌ただしく部屋の扉を開く。
するとそこにいたのはアリスティアではなく、昨日俺の腕にしがみついていた派手女――マルガレーテだった。
「ヴィルヘルム様、おはようございます」
「……ああ」
「もうすぐ朝礼ですわ。教室までご一緒させてくださいませ」
クレバスの底に落ちたテンションと共に、あー、と俺は血液の流れていない頭を働かせた。なるほど、今までのヴィルヘルムは、恋人関係にあるこの女と、いそいそと連れ立っていたのだろう。
だが悲しいかな、今の俺はかつてのヴィルヘルムではない。アリスたん至上主義の俺としては、彼女を傷つける一助となったこの女も許すわけにはいかないのだ。
「ごめん」
「……え、ええッ⁉」
「悪いけど一人で行ってほしい」
「そ、そんな、昨日まではいつも一緒に」
途端にマルガレーテはその大きな瞳を潤ませた。
さすがの俺も女性を泣かせる趣味はない。だがこのまま彼女といることで、アリスたんをむやみに傷つけるのも嫌だ。
「えーと、その。言いにくいんだけど、俺たち、普通の関係に戻れないかな」
「ふ、普通の、とおっしゃいますと……?」
「ただのクラスメイトというか、友達としてというか……と、とにかく、恋人じゃなくて、一度距離を置きたいというか……」
強烈なファンタジーの世界のはずなのに、言っていることは現実世界と大差ないのが不思議だ。おまけにこんなセリフ初めて使ったぞ。マンガだけかと思った。
しどろもどろになりながら伝えた俺の言葉に、マルガレーテはしばしきょとんと瞬いていた。だがすぐにぶわわと溢れ出るような涙を湧き立たせたかと思うと、眦からぽろぽろと零し始める。
「それは……もしかして昨日の、あの女のせいですか……?」
「あーいや、そうではなくて、ちょっと俺も色々あって」
実際はそうなのだが、さすがに角が立つと気づいた俺は、あくまで自分の気持ちの変化だと訴える。
しかしマルガレーテには届かなかったようで、さらに大粒の涙を流しながら、彼女は叫んだ。
「嫌です! 別れるなんて絶対嫌!」
「う、ま、まあ急な話過ぎて本当に申し訳ないとは思うけど、でも」
「わたくしがあんなに何度も告白して、ようやく受け入れて下さったじゃありませんの⁉ どうして急にそんなことを!」
おっと、意外なことに先に告白したのはマルガレーテの方だったらしい。
ゲームではそのあたりの詳細は明記されておらず、てっきりヴィルヘルムが先に惚れ込んだのだと思っていた。だがどちらが始めた恋であろうと、今の俺にはアリスたんしか見えていないのだ。
許せ、ヴィルヘルムよ。
「本当にごめん。でも俺、実はその……他に好きな人がいるんだ……」
言った後で、これはさすがにまずかったのではと気づいたが、後の祭りだった。
「好きな方、ですって……?」
……しまった。
恋愛経験値のなさがここで裏目に出るとは。
人生の攻略本ください。
「あ、いや、別に二股してたとかではなくて! 俺の片思いなんだけど……でもこんな気持ちで、君と付き合い続けるのは失礼だと思って……」
あああ、どんどん事態が悪化している気がする。
案の定、眼前のマルガレーテはほぼ放心状態で、鯉のように口をはくはくと開閉していた。無理もない。昨日まで恋人だった男から、他に好きな人が出来たと伝えられたのだから。
(ああーッ、なんかもっと良い言い方があっただろうに! 俺の馬鹿ーッ!)
後悔に苛まれる俺をよそに、マルガレーテはふるふると首を振ると、ぐいと頬に残った涙の跡を拭った。
気の強そうな目をきっと吊り上げると、俺に向かって叩きつけるように宣言する。
「わたくしは、……わたくしは認めません! 絶対に別れませんから!」
そう言うなり、マルガレーテは身をひるがえし、つかつかと廊下の向こうに消えていった。残された俺は途方に暮れながら、ぱたんと自室のドアを閉めて部屋に戻る。
(ごめん、でも俺は……アリスたん一筋なんだ……!)
まさか一生体験することはないだろう、と高をくくっていた修羅場というものに、異世界で巻き込まれるなんて。
中身が変わっているとは知らないマルガレーテには大変申し訳ないが、俺は二人の女性を愛せるほど器用な男ではない。
だが必死に自身に言い聞かせながらも、彼女を傷つけてしまったという事実は変わらない。
俺は重苦しい鉛のような感情を飲み込みながら、のろのろとクローゼットに並ぶ制服の一つを手に取った。
急がなければ。
教室に行きたくはないが、今日の授業が始まってしまう。