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茫然としたままの俺を残し、アリスたんは逃げるようにその場を立ち去った。
無理もない。多くの生徒が集うカフェテラスで、婚約の破棄を言い渡されたのだから。
いなくなったアリスティアに向けて、周囲からひそひそとした笑い声が浮き上がる。彼女の家柄や身なり、容姿について嘲るもの。やっぱりヴィルヘルム様には、マルガレーテ様がお似合いですわ、と媚び諂うもの。
ごちゃごちゃと人の醜い部分ばかり凝縮したような空間から離れるように、俺は隣の女を振り払うと、脱兎の勢いで走り出した。
(違うんだ! アリスたん!)
ストライドの違いか、普段歩いている倍くらいの速度で景色が変わる。カフェテラスから渡り廊下を抜け、俺は中庭へと全力で走り抜けた。
次第に上空からぽつぽつと水滴が落ち始め、俺はいっそう焦燥を浮かべながら周囲を見回す。
(どこだ……校舎裏……!)
俺の勘違いでなければ、このシーンはゲームの冒頭で発生する『ヴィルヘルムとの婚約破棄イベント』だ。
チュートリアル終わりに強制発生し、この日を境にアリスティアに対する周囲の対応が一転する。
だがこのイベントは、プレイヤーにとっては悪いことばかりではない。何故なら――その直後にもう一つ強制イベントが起きるからだ。
俺は必死の形相で校舎裏を探し求めた。
ゲームであればコマンド一つで移動できるのだが、実際に足を運ぶとなると当然体力を消費する。
おまけにデスデスにはマップ表示がなかったので、校舎裏と呼ばれているポイントを捜し歩かねばならないのだ。
やがて本格的に雨が降り始め、俺はずぶ濡れになりながら校舎外をうろつき続けた。
すれ違う在校生たちにぎょっとされながら、俺は校舎裏のヒントとなりそうな単語を思い出す。デスデスのテキストであれば、俺は99パーセント履修済みだ。
(校舎裏は、アリスたんがつらいことがあると逃げ込んでいた場所……出てくるのはこれと、ストレス値マックスで倒れる時、あとノーマルルートで誰とも踊れなかった時、……たしか『温室を抜けて、いつもの校舎裏に……』と書いていたはずだ。温室が近くにあるということか?)
すると目の前に、温室らしきガラス張りの建物が姿を現した。俺は過去最高のトップスピードを保ったまま建物の角を旋回し、校舎の裏側目がけて疾走する。
だがすぐにキキ、と急ブレーキでもかけたかのような制動力を発揮した。
(……間に合わなかった……)
俺は脱力し、よろよろと校舎の壁に体を預ける。
建物の角に指をかけ、こっそりと覗き見た先にいたのは、降りしきる雨の下で涙を零すアリスたん
――そして、デスデスの王子枠こと、『ディートリヒ』が彼女に向けて傘を差しだす姿だった。
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『大丈夫?』
「す、すみません、ありがとうございます……」
『何があったのかは知らないけれど、君はきっと、笑っていた方が可愛いと思うよ』
「そんな、ことは……」
『ああ、ごめんね。初対面の男に言われても困るよね……僕はディートリヒ。君の名前を聞いてもいいかな』
「ア、アリスティア、です」
『アリスティア――綺麗な名前だ』
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……と、実際は離れているので会話は聞こえていないが、俺の頭には一言一句違わずメッセージウインドウのテキストが再現されていた。
そう、これこそが俺の恐れていたもう一つの強制イベント『ディートリヒとの出会い』である。
乙女ゲームによっては、最初から攻略対象全員が出ているものと、あるパラメーターが一定に達する、もしくはキャラが所属する部活動に所属するなどの基準を満たさなければ、そもそものキャラが登場しないというものがある。
デスデスは後者で、例えば勉学キャラを落としたい場合、パラメーター調整が煩雑になる他の武芸・流行キャラを出さないという攻略方法もあるのだ。
だが今俺の目の前で、アリスたんに微笑みかけている男――ディートリヒだけは違う。
彼は乙女ゲームに一人はいる、通称『王子枠』だ。
メインと言い換えてもいい。
各種派生するシナリオの中で、最も中心に据えられる人物。幾多の世界線の中でも、一番主人公に対して重く強い感情を持つ者であり、パッケージなら大体中央か、主人公との絡みがある。
いわば『世界から両想いを約束された存在』だ。
王子枠はシナリオ、キャラデザ共に力が入っていることが多く、一人だけテキスト量が1.5倍くらいあることもある。もちろん、どのキャラとのルートを正史ととらえるかは、各プレイヤーの信条に基づくが、やはり王子枠に人気が集中することは多い。
そして大抵の場合、主人公のパラメーター如何に関わらず、必ず初期に出会うことが出来る、というチートすぎる特性を持っているのだ。
(ああっ……出会って、しまった……)
雨に打たれながら、俺はがくりと肩を落とす。遠すぎてよく見えないが、きっとアリスたんの頬はほんのりと染まっていることだろう。俺の大好きな照れ顔差分で。
悔しくなった俺は、そっと男の方に恨みがましい視線を移動させた。
王子枠――ディートリヒ。
有力な貴族ひしめく『ルイス・カレッジ』に、少し遅れて入学した転校生。公爵家を名乗っているが、その正体は本物の王子である。
薔薇のような深紅の髪に、熱したルビーのように赤い瞳。人形のような造作は、この離れた距離からも輝いて見え、髪や頬に宿る雨粒ですら、彼を彩るアクセサリーのようだ。
ディートリヒを攻略するためには、他キャラの数段上のパラメーターが要求され、一つでも不足していると即バッドエンドとなる。
呪いによって発狂したアリスティアが、自らの手でディートリヒに手をかける『貴方と共に』エンドは、今でも俺のトラウマだ。
その一方、見事パラメーターを達成し、最後のイベントをクリアすると、婚約破棄をして得意げなヴィルヘルムを前に、アリスティアとの婚約を宣言してくれるというトゥルーエンドが待っている。
その時彼は自らが王子であると明かし、周囲の女性陣は乗るべき船を間違えた、とばかりにヴィルヘルムへと非難の視線を浴びせるのだ。
さらには王妃となる女性に対して、幾度となく無礼を働いたとして、ヴィルヘルムはこの国にいられなくなり、やがて国外に逃亡する――と、そんな終わり方だった気がする。
(むかつくヴィルヘルムが追いつめられる展開が好きで、何度も繰り返しやったんだよなあ……皆から責められるヴィルヘルムを、聖母のように許すアリスたんがすごい好きでさあ……)
空想の世界に舞い込んでいた俺は、いかんいかんと頭を振った。俺がアリスティア本人だった時は、確かにドリームズカムトゥルーなエンディングだろう。
だが今は状況が違う。
何故なら俺が――他でもないヴィルヘルムだからだ。
(あいつとアリスたんがくっついたら、俺はみんなから散々非難されて、おまけに国外追放されてしまう……! それに何より、俺の愛しいアリスたんが、け、結婚してしまう……!)
エンディング時点では、あくまでも婚約で終わるので、実際にアリスティアが結婚するシーンがあるわけではない。
だがこの現実のデスデスで話が進んでしまえば、それすなわち、アリスティアが誰か一人の男のものとなってしまうことになる。
(そ、そんなのは嫌だ! でもどうしたらいいんだー⁉)