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自室に戻った俺は、机上に置かれた端末に目を向けた。以前ドレスを買うのに使ったものだが、珍しく右端のアイコンが点灯している。メールのマークが入ったそれをタップすると、画面いっぱいに便箋らしき図が広がった。
「なんだ、これ……」
差出人はヴィルヘルムの実家から。
画面をスクロールさせながら、流れるような文言を読んでいた俺は、最後までたどり着くとそっと右上の×印を押す。
「ヴィルヘルム――いるんだろ」
返事がないのにも構わず、俺は続けた。
「この手紙に書かれているのは本当なのか? アリスティアとの婚約は正式に解消された――これはいい。でもその後に書かれている『申し出通り、先方の債務については当家が責任を以て返済する』って……どういうことだ?」
手紙の内容はこう書かれていた。
アリスティアとの婚約は正式に解消された。ただしヴィルヘルムの一方的な申し出によるため、婚約破棄に相当する。
よって条件として掲げられていた『アリスティアの家の借金』については、以前と同様にヴィルヘルムの家が負担する……という内容が、お役所仕事らしい難解な単語を使って記されていた。
「条件がアリスたんちの借金返済って……、それをお前が返すって」
『人に来た手紙を勝手に見てんじゃねえよ。お前には関係ねえ』
「それは確かに悪かったけどさ! それよりいい加減、ちゃんと説明してくれよ!」
『何度言えば分かる! オレのすることに口を出すな!』
ヴィルヘルムの言葉から、徐々に本気の憤懣を孕んでいるのが分かった。俺は一瞬たじろいだが、アリスたんの寂しそうな顔と、マルガレーテの微笑みを思い出して、ぐっと腹に力を込める。
「うるせえ! 女の子二人も泣かしやがって!」
『は⁉ それはお前が……』
「あーもー腹立った! 見てろよこの野郎!」
俺は怒りにまかせて立ち上がると、つかつかと部屋の奥へ突き進んだ。ずらりと並んだクローゼットの一番端に立つと、ヴィルヘルムが焦燥した声を漏らす。そこはかつて、絶対に開けてはならないと言われていた場所だった。
『……おい、やめろ』
「嫌なら体を奪い返せばいいだろ!」
『出来たらとっくにやっている! いいから離れろ!』
「お前……本気で気づいてないのかよ」
普段ならせいぜい声だけしか取り戻せなかったお前が、どうして武術大会の時だけ、体の主導権を得ることが出来たのか。そんなの――アリスたんがピンチだった以外にないだろうが。
「いい加減に、認めろ!」
ヴィルヘルムの制止を振り切り、俺は取っ手に手をかけ勢いよく左右に開いた。
『……ッ』
「――これでもまだ、違うっていうのかよ」
開かずのクローゼット。
その中に入っていたのは、たくさんのプレゼントだった。
かつて俺がアリスたんのために買った品物と同じ包装紙で、色とりどりの輝くリボンが巻かれている。大小さまざまに、二十近くはあるだろう。
それ以外にもアリスたんのパラメーターを上げるための育成アイテムや、体力を一気に回復させる超高級アイテムが、店を開けそうなほど揃っていた。
ヴィルヘルムはしばらく沈黙していたが、絞り出すような声量で俺に尋ねる。
『……どうして、分かった』
「買い物した時に、ポイントカードがたまってたんだよ。満タンになると、半額で買い物出来るやつ。俺あの時まで一度も買い物したことなかったのに、おかしいなって」
ショップでアイテムを購入すると、金額によってポイントカードがたまるシステムがある。普段の買い物で溜めておいて、ドレスや水着といった高額商品を買うときに活用するものだ。
あの時、アリスたんにドレスをと意気込んでいた俺は、満タンのカードに気づいていたものの、その時はさほど気に留めていなかった。だが。
「後になって、俺より先に誰かが大量に買い物したんじゃ、って思ってさ。この端末を使えるのはお前だけだし、このショップで買えるものは女性向けの品物ばかりだから……お前が買うとすれば、それは『アリスたんへのプレゼント』しかないって」
『あーくそ、そんなの知らねえ……』
まあ割引なんて庶民が嬉しいシステム、お貴族様のヴィルヘルムが気にするはずもない。すっかり沈み込んでしまったヴィルヘルムに向けて、俺はそっと言葉を続けた。
「お前、本当はずっと、これをアリスたんに渡したかったんじゃないのか」
『……』
「頼むよ。俺、頼りないかも知れないけど、……話くらい聞かせてほしいんだ」
ヴィルヘルムは恐ろしいほど沈黙していた。やはりだめか、と俺が諦めかけた時、長い静寂を破るようにヴィルヘルムは呟いた。
『……もう全部、終わった話だ』
二人は幼馴染だった。
『親同士の仲が良くて、オレとアリスは小さい時からよく一緒に遊んでいた。昔のあいつは体が弱くて、一緒に遊んでいても、すぐ熱を出して寝込んだ』
そのたびヴィルヘルムは、女の子に無理をさせるなと怒られ、面会を禁止された。心配になったヴィルヘルムは、摘んで来た花を窓際にいくつも並べたりと、いつも懸命に彼女の回復を祈っていたらしい。
なるほど、アリスたんの武芸パラメーターが上がりにくいのは、元々の体質が影響していたのか。
『両家の間では、自然と婚約の話も出ていたらしい。その時のオレはよく分かっていなかったが、大人になってもあいつとずっと遊べるのなら、婚約とやらをしても良いと思っていた』
「まあ、小さい時なら何が何だかだよな……」
『決定打となったのは、オレが八歳の時だ。珍しく体調が良かったあいつと、森に遊びに行った。久しぶりの再会に喜んでいたオレは、どんどん奥に進んでしまい……案の上、戻れなくなってしまった』
子ども二人で彷徨う森は恐ろしく、さらにアリスティアは慣れない環境に倒れてしまった。ぐったりとしたアリスティアを背負いながら、帰路を捜す間は生きた心地がしなかったという。
『結局捜索していた使用人から発見されて、あいつはすぐに邸に運ばれた。オレは一生分では足りないくらい怒られて、しばらく自宅謹慎させられた』
自らの責を自覚していたヴィルヘルムはそれを受け入れ、アリスティアに会えない間はひたすらに手紙を書いたそうだ。
危険な目に遭わせてごめん。許してくれなくてもいい。ただ元気になってほしい。
「お前にも、そんな可愛い時期があったんだな……」
『……九年も前の話だ。それから数日して、アリスが自宅に戻ったと聞き、オレはすぐに見舞いに行った』
怒られるだろう。もう二度と顔を見せないでと罵倒されるかも知れない。それでも手紙だけでは足りない。
アリスティアと会って、ちゃんと謝らなければという焦燥に駆られて、ヴィルヘルムは彼女の自宅に向かった。
嫌われていると思っていた邸の使用人たちは、ヴィルヘルムの訪問に嫌な顔一つせず、すぐにアリスティアの自室に通してくれた。恐る恐る扉を開けると、ベッドに座っていたアリスティアが変わらない笑顔で「――ヴィル」と微笑んでくれたそうだ。
『あいつは自分が死にかけたというのに、開口一番、俺は無事だったのかと聞いてきた。なんともないと分かると、良かった、とぽろぽろと涙を零して泣いていた。その姿を見た瞬間、オレは――こいつを守りたい。一生傍にいたい、と自覚した』
「馬鹿! 遅いよ! それもうずっと好きだったやつじゃん!」
『……たしかに、あの時のオレは馬鹿だった。死ぬ一歩手前まで行かないと、自分の気持ちにも気づけないほど、愚かな奴だったんだ……』
話を聞きながら俺は、武術大会でのイレギュラーは過去のこれが原因だったのでは、と思い至った。
ヴィルヘルムがアリスたんの危機に対し、異常なまでに過敏だったのは、もう二度と彼女を傷つけたくない、傷つけさせないという、自身への誓いだったのだろう。
だが聞けば聞くほど、婚約破棄をする理由が分からなくなる。
「でもお前は気づいたんだろ? アリスたんが……好きだって。それならどうして、婚約を破棄するような真似をしたんだよ」
『……それから数年後、あいつの家の事業が失敗した。資金繰りに困窮し、家としての名誉を保つことすら厳しくなっていた。オレは親に言って、アリスティアとの婚約を結ばせた。……借金の返済を肩代わりする条件で』




