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 体中の水分が出てしまったのではないか、と思うほど泣いた後、彼女は俺に何度も頭を下げながら寮へと戻っていった。その背を見送った俺は、ようやく息をつけるとばかりに、再びベンチに腰を下ろす。

 舞踏会の喧噪さが嘘のように、中庭は穏やかな夜の空気に満たされていた。夏の夜は好きだ。草の匂いが強くて、少し湿気を孕んだ風が俺の白金の髪を弄ぶ。


(結局、アリスたんのドレス姿、ちょっとしか見れなかったな……)


 おまけに彼女に見せたくないと思っていた、傲慢なヴィルヘルムまで披露してしまった。これでまた一つ嫌われゲージが上がったな、と自嘲する。


(でもまあ、アリスたんを守れたから、オールオッケーか)


 きっと後半の部も、攻略キャラの彼らと共に楽しんでいることだろう。懸命に努力したおかげで、ようやく参加出来た念願の舞踏会だ。嫌な思い出のまま中座することが無くてよかった、と俺は瞼を閉じると、一人満足げに微笑んだ。






「――あの、」


 突然運ばれて来た声に俺は二三瞬きし、ベンチからがばりと体を起こした。東屋の傍に立っていた人影に俺は我が目を疑う。


「なんで、ここに……」

「すみません、お傍に行っても大丈夫ですか?」


 そこにいたのはアリスティアだった。

 幻ではない。立体映像でもない。本物の、生身のアリスティアが、俺から二メートルの距離に立っている。

 俺はなんと聞かれたのか。どう返したらいいか。声の出し方すら忘れてしまったかのように口をはくはくさせ、ようやく「どうぞ……」とだけ絞り出した。


 するとアリスたんは安堵したように微笑むと、俺のいる東屋に足を踏み入れ、斜めの位置にあるベンチに座る。さらに近づいたその距離に、俺の心臓は破裂寸前だった。


(な、なんでアリスたんがここに⁉ もう舞踏会が終わったとか⁉ いや、まだ時間はそこまで経っていないはず……も、もしかして、俺がさっきの女子に乱暴を働いていると思って止めに来たとか……⁉)


 どんどんと悪い方に進んでいく思考をよそに、アリスたんは何か言いたそうにじっと俺を見つめていた。やがて意を決したように口を開く。


「あの」

「……!」

「お洋服、貸してもらえませんか」


 おようふく、と言われた単語を脳内で繰り返す。俺の着ている礼服のことを言っているのだと、気づくのに随分と時間がかかった。


「ど、どうして」

「すぐに洗った方が、汚れが落ちやすいと思って……」


 もしかして、シャンパンの汚れを気にしてわざわざ来てくれたのだろうか。信じられない、と思いつつ、俺はおずおずと上着を脱いだ。白いシャツ姿になった俺が手渡すと、アリスたんはどこか嬉しそうにそれを受け取る。

 それからアリスたんは、自身の膝に当て布を敷き、上着の濡れた部分を広げた。洗剤を付けたタオルで、丁寧にぽんぽんと叩いていく。




(アリスたんが、目の前にいる……)


 俺はあまりの急展開に、脳の処理が完全に追い付いていなかった。アリスたんだって一応は貴族の令嬢だろうに、染み抜きなんて良く知ってたな、などとどうでもいいことばかりが頭の中に浮かんでは消える。

 静まり返った夜。どこからか鈴のような虫の声がする。

 中庭に置かれた外灯に照らされて、アリスたんの金の髪が輝いていた。シャンデリアの下にいたような煌びやかさはないが、澄んだ夏の空に静かに浮かぶ月のようで、俺はこっちの方が好きだな、とそっと目を眇める。


――このまま時間が止まればいいのに、なんてありふれたセリフが口の中に浮かんだが、俺は黙ってそれを呑み込んだ。


「懐かしいですね」

「……?」


 突然、アリスたんの方から話しかけてきた。他に誰かいるのかと周囲を見回したが、俺以外に人らしき姿はない。


「小さい時も、よくこうして服を汚して、私が直していました」

「……俺が?」

「昔のことだから、忘れてしまったかもしれませんね」


 どういうことだ、と俺はアリスたんに尋ねようとした。だがここに来て急に、ヴィルヘルムの奴が力を発揮し始めたのか、途端に喉の奥が空回りする。


(どうして邪魔するんだよ!)

『うるせえ。てめえには関係ねえだろ』


 やがてアリスたんは乾いた布で拭き上げると、どうぞと上着を差し出した。立ち上がった俺はそれを受け取りながら、感謝を述べようとする。だが先ほどから出張っているヴィルヘルムのせいで、全く意図していない言葉が口から出てしまった。


「――余計なことするな。迷惑だ」

(おおおおお前ーーー! アリスたんがわざわざ綺麗にしてくれたのに。その言い方はないだろーーー!)


 馬鹿! 人でなし! と俺が心の声で必死に抵抗するも虚しく、アリスたんは奴の冷たい物言いに落胆するように肩を落とした。無理もない。大丈夫です。後でこいつの口座から貢ぎ物買っときますんで。


「……わたしがしたかっただけなので。では、失礼します」


 アリスたんはそれだけ言うと、ぺこりと頭を下げてすぐに東屋を後にした。見る間に小さくなっていく月の精霊を、俺は泣く泣く見送り続ける。やがてアリスたんの姿が完全に見えなくなったのを確認してから、そっと自身の胸元に言及した。


「おい」

『……』

「都合が悪くなるとだんまりかよ」

『……』


 本当になんなんだこいつは。


「婚約破棄をそのままにしたいのは前にも聞いたけど。でもあんな風に、わざわざ傷つけること言う必要はないんじゃないのか?」

『お前に言われる筋合いはない』

「でもなあ……」


 汚れた上着を綺麗にするなんてイベント、ゲームでは存在しなかった。だからこれはアリスたん本人が、彼女の意思でしてくれた『本物の好意』なのだ。それをないがしろにするヴィルヘルムのことが、俺はどうしても理解できなかった。


(やっぱりマルガレーテのことが好きなのか? でもそれなら俺が振った時に止めに入る筈だよな……。アリスたん自体が嫌いというなら、俺が毎日のようにストーキングしていることも嫌がりそうだし……)


 あれ、そう言えば嫌がられていた気もする。

 ともかくヴィルヘルムの行動の一貫性のなさに、俺の頭は処理落ち寸前だった。だめだ、俺一人で考えたところで、多分必要な答えは出てこない。


「もういい。お前が関係ないっていうなら聞かないよ」

『……』

「その代わり、お前の金でアリスたんに送るプレゼントを爆買いしてやる!」

『……勝手にしろ』


 ようやく聞こえたその返事は、いつものヴィルヘルムのもので。俺はそのぶっきらぼうな口調が嬉しくなって、思わず笑みを零した。


「そういえば、アリスたんを庇おうとした時、俺いつもより早く動けた気がしたんだけど」

『気のせいだろ』

「いや、絶対瞬発力上がってた気がする。でさ、思ったんだけど……お前あの時、俺の体動かしてなかった?」


 返事はない。


「絶対お前だよな? もしかして、アリスたんが狙われているって気づいて――」

『黙れ塩野郎』


 ぐ、と俺は一撃を食らったかのように腹を押さえた。


「や、やめろ……その罵倒は俺に効く……」

『うるせえ! 人の礼装勝手に着て汚しやがって!』

「あ、やっぱりちょっと気にしてたんだ。ごめんて。でもアリスたんが綺麗にしてくれたから逆に良かったじゃん」

『知るか! オレは寝る!』


 そう言うと、本当にヴィルヘルムは一切の返事をしなくなった。俺はやれやれと観ずると、東屋を出て自分の寮へと足を向ける。


 美しい夏の夜空には、かすかに瞬く大三角と、燐光を放つ満月が輝いていた。



 

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