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オープニングが終わり、名前を入力する。
本来であれば、ここで自分の名前を入れるものだが、俺は自己投影型ではなく、アリスたんと男どもの恋愛を眺めていたい観客モブ型のプレイヤーだ。
いや、むしろ男すらどうでもいい。アリスたんが一生懸命頑張っている姿を見たいだけだ。
名前を入力せずに次に進めると、デフォルト名の『アリスティアでよろしいですか?』というメッセージが出てくる。
よろしいです。むしろそれ以外でやるはずがございません、という気持ちを込めて素早く画面をタップする。
やがてメッセージウインドウと華麗な背景画像が現れ、訥々と物語が進んでいく。
読まずに次の選択肢まで飛ばすことも出来るのだが、大好きなアリスたんが新生活に向けてドキドキと期待を膨らませている可愛らしい様を、俺が読まずにいられるわけがない。
だがこのシーンを読むのもはたして何度目か。
(……さすがに覚えてしまったな……)
昨日の徹夜がたたったのか。暗誦出来るまで読み込んでしまった文字列のせいなのか。
普段であればありえないことだが、うとうととした強い眠気が俺を襲った。
(くそ、……眠い……)
天井がおぼろげになるくらい、ぐらぐらと視界が回る。
だめだ。眠い。でもアリスたんの晴れ晴れしい門出を見守らなければ……。
だが俺の葛藤も虚しく、指先から徐々に力が抜けていく。やばい。スマホ落としたら顔面直撃だ。
画面には丁度『スチル:初めての学園生活』で荘厳な校舎を前に、胸を躍らせながら微笑むアリスティアがでかでかと映っていた。うーん可愛い。
ちなみに乙女ゲームの主人公に顔が必要か否かは、遥か神代から論議が交わされている。俺は特にこだわりはない、むしろ攻略キャラごとに主人公を作り上げるタイプなので、顔がない方が想像力は鍛えられる気はする。
しかしアリスティアだけは違う。この可憐さを知らないのは乙女ゲームの神への冒涜とすら思っている。
そんな神いるのだろうか。
(ああ、アリスたん……)
限界を迎えた俺の手から、スマホがぽろと離れた。
かくして俺は、愛しのアリスたんと画面越しに激しいキスを交わしたのだった。
少しずつ意識が戻ってくる。
目を開けると、俺の視点は非常に高い位置にあった。まさか寝ながら立ち上がったのだろうか。
「――そんな、どうして……」
「オレは愛するマルガレーテと共に生きる。それにはお前が邪魔だ」
空は薄灰色の雲に埋め尽くされ、どんよりと陰鬱な空気を醸し出している。足元にはふかふかとした新緑の芝生が生え揃っており、俺は都会に来て、久々に植物を見たと少しだけ感動した。
(……ん? これ夢か?)
夢の背景が、さらにはっきりとした輪郭を持って俺の前に姿を現し始める。芝生の先には、ハリーポッターのロケに使われたとかいう、オーストラリアのシドニー大学によく似た建造物があった。
天を衝くように高くそびえる壮麗な塔と、それらを繋ぐ校舎。敷地は俺の通っていた大学の数倍はありそうだ。
一方俺が立っているのは、学校内にあるカフェテラスの一角らしく、周囲には見覚えのある制服に身を包んだ男女の姿があった。
(なんだこの夢……見覚えがあるような、ないような……)
磨き上げられた白い床の上には、丸テーブルが等間隔に並んでいたが、俺の前の部分だけぐしゃりと歪に配置されていた。元々こうであったとは思いにくい――まるで、誰かに突き飛ばされて、そこだけ崩れたかのような。
案の定、一人の少女が床に座り込んでいた。
傍にはひっくり返った弁当箱があり、トマトソースだろうか赤い液体が白いスカートを汚していた。目立ちすぎるその姿に、俺以外の人間も一斉に彼女に視線を送っている。
「――聞こえなかったのか? これだから貧乏貴族はたちが悪い」
「……ヴィルヘルム、様」
声が先ほどより近くで聞こえ、俺は発生源を探した。
左を向くと、明るい茶色の髪を巻いた女が、何故か俺の腕を抱きしめていた。アリスたんには遠く及ばないが、まあまあ可愛い。派手な美人だ。
というか、柔らかな胸のふくらみが異常なほどリアルなんですが。俺はどうしたら。痴漢冤罪反対。
(あれ、ていうか今、ヴィルヘルムって言った?)
自分の体に視線を落とすと、黒い襟が目に入った。
俺が仕事で着ている上下一万円の安いスーツは足元にも及ばないほど、上等な生地と仕立てで出来ている。
揃いの黒ネクタイには銀色のラインが入っており、同じような線が襟と体の部分にも入っていた。
つーか膝下、長ッ。
歩いたらバランス崩しそう。
(てか、なーんか見覚えがあるんだよなあ……)
うーんと首を傾げたところで、俺はようやく既視感の正体に思い至った。
そうだ、これはデスデスの制服だ。
一般生徒は濃紺のジャケットに白いスカート、男子はパンツスタイルという感じなのだが、攻略対象の男たちは全体の色が違ったり、細やかな装飾品が付属したりといった、いわゆる改造制服を着ていた。
まあ俗にいうキャラ付けというやつだろう。
全身真っ黒な俺の制服も、当然のそのうちの一つだったはず。はて誰だったか……と一人一人思い返していたところで、俺はようやく膝を叩いた。
(そうだ! ヴィルヘルムだ!)
今日のログインで出てきたじゃないか。あーすっきりした、と俺が安堵のため息をついた途端、体の中心にびくりと電撃が走った。
おぼろげだった意識が鮮明になり、指先や足の先までびりびりと神経が通っていく。
液体になった俺が、人の形をした容器に無理やり流し込まれているような奇妙な感覚に、いつまでも良いようにされてたまるか、と俺は強く目を見開いた。
先ほどよりも子細な光景が網膜に映り、夢とは思えないほどはっきりとした質感と重量の中に立たされる。
固い石の上に立つ靴裏、今にも雨の降り出しそうなぬるい風。人々のざわめきが近くで、遠くで、波のように寄せては返す。腕に抱きつく女の子の、なんだか甘い匂い。
これは夢じゃない。
本物の、現実だ。
だがようやく実体を得た俺の口から、予期せぬ言葉が紡がれた。
「――お前との婚約は破棄させてもらう。アリスティア」
その言葉に俺は、恐る恐る自分の掲げている指先を見た。
衆人環視の中、不安げに小さな肩を震わせる少女。彼女は他の生徒が着ているような、ぴかぴかの衣装ではなく、少し色のくすんだ古い制服を着ていた。
だが俺は知っている。
これはお金がないために、親戚から譲り受けたお古の制服だということを。
今は俯いているので表情こそ見えない。
だが細く飴細工のような金の髪に、透き通るような白い肌。やがて彼女は静かに顔を上げて、俺の方を真っ直ぐに見つめた。
その瞳は美しい夕焼けや、太陽のしずくを思わせる、吸い込まれそうなほど美麗なオレンジ色。ただし今は涙で潤んでいるのか、艶々とした光が流動的に表面を走っていた。
どんなひどい目に遭っても、決して屈することのない強い心。それを体現するかのように固く結ばれた唇に、俺は思わず息を吞む。
――自らの信仰する神に出会った人間は、こんな気持ちになるのだろうか。
そこにいたのはデスデスの主人公、アリスティア。
そして愛すべきアリスたんに、俺はたった今
――婚約破棄を宣言していた。