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「あ、なるほど。ここにこの式を入れれば良いんですね」
「そうだ。迷ったらここの数字を代入してみろ」
どうやら二人は数学を勉強しているらしく、アリスたんはヘルムートに師事を受けているようだった。もしかしたら、俺が心配するような恋愛的な進展があったわけではなく、単に同級生としての付き合いなのかもしれない。
しばらくしてノートを閉じたアリスたんが、はあーと嬉しそうな息を吐きだしながら、ヘルムートに微笑みかけた。
「ありがとうございます! 今日の課題、どうしても分からなくて、……つい途方に暮れていました」
「座ったまま固まっていたから、思わず声をかけてしまったが……俺で役に立てたなら、……良かった」
ふ、とヘルムートが眼鏡の奥の目を眇めた。男の俺ですら、ちょっときゅんとしてしまうような笑顔で、ヘルム―ターが見たらここに記念碑を立てるレベルだろう。
だが二人の会話を盗み聞く限り、本当にただの勉強のようだ。やれやれ、と俺が胸を撫で下ろしていると、アリスたんが何かを思い出したように立ち上がった。
「そういえば、借りないといけない資料があったの忘れてました!」
そう言うとアリスたんは、俺がいる本棚の方に歩いてきた。俺は見つからないよう必死に身をかがめながらも、棚の反対側にアリスたんがいる、という事実に心臓の暴走が止まらない。
(ア、アリスたんが、こんなに近くに……!)
婚約破棄とその後のあれそれがあったので、アリスたんは俺の姿をひと目見ただけでも逃げ出してしまうだろう。
思い返すだけで体の奥がぐさりと傷んだが、本棚一つを挟んだ数十センチ向こうに、愛しのアリスたんがいる。今の俺は、それだけで十分だった。
そんな俺の切なる願いも知らず、アリスティアは目的の書目を求めて、きょろきょろと視線を巡らせていた。
やがて目当ての本を発見したのか、しばらく上段を眺めていたかと思うと、何やら懸命に腕を伸ばして飛び跳ね始めたではないか。
(あれ、これって……)
見ている角度が違うので一瞬戸惑ったが、図書館にいたアリスたんが、高いところの本が取れなくて困る、というこのシチュエーション。
間違いない。これはスチルイベントの前振りだ。
(たしかここで、いつの間にか背後にいたヘルムートが、代わりに本を取ってくれるんだよな……)
すると案の上、ぴょんびょんと跳ねるアリスティアに気づいたのか、ヘルムートがこちらに近づいてきた。
本に集中しているアリスたんは、奴が迫っていることに気づいていない。
(嘘だろ……スチル『ほしい本はこれか?』が発生するためには、まあまあの好感度が必要なはずなのに……昨日出会って今日起きるとかあるか⁉)
だが無情にも、ヘルムートとアリスティアの距離は縮まっていく。まさか間に入るわけにもいかない俺は、苦悶を抱えたまましゃがみ込み、必死に己の存在感を消していた。
その時、ふと脇にあった本棚が揺れた気がした。不思議に思った俺が立ちあがると、反対側にいたアリスたんが、ようやく本の背に指をかけたところだ。
あれ、と思う間もなく、さらにぐらりと本棚が傾く。
(危ない……!)
どうやらアリスたんが手にした本は、中々重量があるものだったらしい。おまけに隙間なく詰め込まれていた全集の一つだったせいで、左右にあった本まで引っ張られて、本棚のバランスが崩れてしまったのだ。
俺は急いで、反対側から本棚の縁を掴んだ。
だが指先だけで支えるにはあまりに重く、俺は死に物狂いでアリスたんの方に倒れないよう踏ん張り続ける。
(うぎぎぎ……!)
ヴィルヘルムの男らしい長い指先が、圧迫されて真っ白になっている。だがアリスたんに怪我をさせるわけにはいかない、と俺はなおも必死に本棚を引っ張り続けた。
すると異変を察したのか、ヘルムートが本棚を片手でそっと押し戻しながら、アリスティアの引き出した本に指をかける。
「目的の本はこれか?」
「あ、はい! なかなか届かなくて」
「……欲しい本があれば俺に言え。このくらい、いつでも取ってやる」
「あ、ありがとうございます……」
はい、スチルいただきましたー。
と冷やかす気力もなく、俺はようやく安定を取り戻した本棚を前に、一人ぜいはあと膝をついていた。
あと少し、ヘルムートが押し返してくれなかったらやばかった、と恋敵でありながらも感謝を送ってしまう。
(しかし何というか……良いところだけ取られた感じだ……)
俺の隠れた努力を知る由もなく、二人は先ほどよりもさらに親し気な空気を醸しだしながら、再び中央のテーブルに戻っていく。
その背中を見つめながら、俺は改めてがくりと肩を落とすのだった。
魔の勉学の一週間が経過した後も、俺は相変わらず陰からアリスたんを見守り続けていた。今週はどうやら『武芸』コマンドを実施しているらしい。
(アリスたんの、体操服姿……)
『武芸』のパラメーターを上げる際、校庭をランニングするミニキャラが登場する。
俺もデフォルメキャラの姿は幾度となく見てきたが、ここはいわばVRデスデス。当然運動するのも現実で、立体で、等身大のアリスたんなのである。
乙女ゲームの主人公というものは、そもそも立ち絵を描かれることはほとんどなく、表情差分があるデスデスはまだましな方だろう。
その代わりに男どもの立ち絵は嫌というほど充実しており、制服はもちろん、体操服、礼装、私服は季節ごとに三種類、好感度が上がるとさらにプラス三、といったように、ファッションショー並に入れ替わる。
そのためここ『ルイス・カレッジ』の体操服がどういうものかは、事前の知識として知ってはいた。
だが実際にアリスたんが着ている様を見た瞬間、俺はデスデスの神に五体投地したくなる。
(半袖……生足……ポニーテール……ありがとうございます、ありがとうございます……!)
想像以上の破壊力に、俺は泣きながらそっと口元を覆った。傍目にはとんでもないイケメンのヴィルヘルムが、こんなことを考えながら鼻血を堪えているなんて知られたら、きっと学園内での地位は急転落下することだろう。
いかんいかん、と自分を律するように頭を振る。
俺の役目は不測の事態に備えて、遠くから気づかれないようにアリスたんを見守ることだ。
そして今回はもう一つ、アリスたんのために準備を整えてきた。
(習熟度マックスの『健康野菜ジュース』! これがあれば、アリスたんの努力も一気に身につくはず……!)
乙女ゲームの中には、調合や工作といったクラフト要素があるものも多く存在する。
デスデスにも採用されており、飲食店でバイトをしたり、図書館で調べることによって『レシピ』を手に入れることが出来るのだ。
あとは売店や商店街で食材を手に入れ、調理室で料理をする。完成した料理は攻略キャラにプレゼントして好感度を上げたり、自分で食べてパラメーターを上げたりも出来る。
ただしデスデスの料理システムは、乙女ゲームの一部要素としてとらえるには、あまりに作り込まれていた。
レシピだけで100を超え、より効果が高いものになると食材を自ら狩りに行かねばならないこともある。
一狩り行こうぜ。
また習熟度という要素もあり、何度も同じ料理を作り続けることで、より高い効果のアイテムを生み出せるようになるのだ。
卒業までにこのレシピと習熟度を、すべてマックスにすることが条件のエンディングもあり、俺も一度だけクリアはしたが、作業作業作業時々運、の連続で一週間かかった。
デスデスの世界に入ってすぐ、俺はヴィルヘルムの調理スキルを確認した。
すると意外なことに、奴の持つレシピの種類は結構な数があり、そのどれもが高い習熟度を有していたのだ。
(俺が一度でも極めたのが影響してるのか? でもデスデスに引き継ぎ要素はないし、レシピの種別も随分と偏ってたし……もしかしてこいつ、実は料理好きとか? しかし良いとこの貴族の坊ちゃんが、自分で料理とかするかね……?)
気になって一回だけ、俺の中にいるであろうヴィルヘルムに尋ねてみたことがある。だが応答する気すらないらしく、仕方なく俺はその能力だけを使わせてもらうことにした。




