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その日から、俺の地味な『アリスたんを陰から見守る活動』は続いた。
毎朝の机チェックはもちろん(あの男子生徒も律義に毎日来てくれている)、昼食時の中庭、放課後、温室に行った時など、アリスたんに見つからないよう注意しながら、そっと彼女を追いかけている。
もちろんゲーム上でのいじめイベントは把握しているが、何せこの世界ではゲーム内で描写されなかった部分も多い。
そのため、いついかなる時でもアリスたんを守れるよう、俺は常に神経を張り巡らせておかねばならなかった。
今日は図書館。
ゲームでは『勉学』コマンドを選択すると、図書館で勉強をするアリスたんの様子が表示されていた。どうやら今週は『勉学』を上げたいらしく、アリスたんは昨日一昨日と図書室に通い詰めている。
一番奥の本棚に隠れ、大判の書籍を読むふりをしながら、俺はこっそりと中央の席で勉強をする彼女に視線を向けた。
(穏やかな陽の光に照らされて、読書をするアリスたん……宗教画のモデルか何かだろうか……美しすぎる……)
上部がアーチ状になった窓から、春の柔らかい日差しが降り注ぐ。アリスティアは古めかしい洋書を手繰っており、金の髪は端が白く輝いていた。
伏せがちな瞼が頬に影を落としており、真剣な瞳で文字を追う姿は、とても言葉では表現できないほど端麗だ。
よし、ここに俺の墓標を立てよう。
すると俺の行動を内側から見ていたヴィルヘルムが、ぼそりと呟いた。
『……何やってるかと思えば……気持ちわりぃな』
「お前は黙っとけ」
その声に、俺は心の中だけで返事をする。
俺と交渉決裂した旧ヴィルヘルムだが、どうやら活動できる時間にある程度の限りがあるらしい。
実際、俺がマルガレーテさんに別れを切り出した時も、こいつは一言も割り入ってこなかった。
以降、こうして時折俺の行動に文句をつけることはあれど、婚約破棄に関する事柄以外は特に抵抗する意思はないようだ。
(なーんで婚約破棄だけそんな頑ななんだよ……諦めて俺に主導権を渡せば、晴れてアリスたん教徒になれるというのに……)
尊すぎて近づけない、と俺が合掌していると、そこに昨日まで見なかった男が姿を現した。
髪は深い青色。
ただし毛先だけ赤が混じって紫色になっている。目はアメシストのような煙がかった菫色で、淵の細い眼鏡をかけていた。いかにもインテリ、と言った風貌だ。
ディートリヒとはまた種類が違うものの、彼もまた怜悧で涼やかな面立ちをしていた。また女性にモテそうなタイプだ。
(……ん、まてよ? あれってもしかして……)
そこで俺は一度目を瞑り、脳内の即席攻略本を紐解き始めた。
勉学キャラ枠――ヘルムート。
父親は国のエリート官僚で、彼自身もまた天才との呼び声高い人物である。一歳で円周率を100桁暗記し、三歳で大卒レベルの数学を履修、10歳の時には永久に証明不可能とされていた数学の懸賞問題を、三つも解いてしまったという逸話がある。
ただし年を追うごとにその才能は鳴りを潜めており、この学園のテストでも、常にディートリヒの次点に甘んじている。
結局、過度に期待してくる両親からの期待に応えなければ、というプレッシャーが彼を苦しめていた。という事情があるのだが、それは彼を攻略することで明らかになる。
ヘルムートルートに入ったアリスたんは、学園の呪いを解決した後、学年末に行われる試験に、ディートリヒを抜いて二人でワンツーフィニッシュを決める。
そして卒業式の日にヘルムートから告白され、二人はもっと新しい知識を得たい、と揃って外交官になるのだ。『新しい世界に、君と』というトゥルーエンディングである。
最初は冷たい態度のヘルムートが、少しずつアリスティアに心を開いていく姿は微笑ましく、俺も一時期狂ったように繰り返し攻略した。
特に、眼鏡を手で押さえながら照れる顔が素晴らしく、ヘルムートファンは通称『ヘルムーター』と呼ばれる。
もはや宗教である。
(そう言えば、あいつの登場は図書館だったな……)
ヘルムートの登場条件は、勉学パラメーターが一定に達するか、彼の所属する『野鳥同好会』への入部のいずれかを満たさねばならない。
アリスたんが部活動をしている様子はないので、おそらく勉学のパラメーターが規定値に達したのだろう。
脳内攻略本を閉じ、俺は改めてヘルムートの動向を追った。彼は勉強するアリスたんにすたすたと近づいたかと思うと、淡々とした口調で彼女に話しかける。
「その本」
「え、あ、はい!」
「終わったら貸して」
言葉少なに立ち去ったヘルムートを、アリスたんは驚いたように見つめていた。よしよし、ゲームの通りだ。
(ヘルムートはツンデレだからな。最初から馴れ馴れしくはしないから安心だ)
うんうん、と一人頷きながら、ふとディートリヒのことを思い出す。あれから数日経つが、結局アリスたんとの好感度をどのくらい上げているのだろうか。
(あいつの好感度、ちょっと異常なんだよな……課金アイテム使わないと、そこまで上がるかどうか……)
ではヴィルヘルムはどうかと言うと、そもそも好感度というパラメーター自体が存在しない。俺はぐぎぎとエアハンカチを噛みしめた。
(まあいい。ヘルムートは落とすまでに、かなり時間がかかる奴だからな。しばらくは大丈夫だろう)
改めて視線を戻すと、本を読み終えたアリスたんが、ヘルムートに渡しに行くところだった。
短い「ありがとう」に丁寧に礼をするアリスたんを見て、俺はふうと安堵の息を漏らした。
だが翌日、事態は急転した。
うっかり授業が遅くなってしまった俺は、慌ただしく廊下を走っていた。まあ今週のアリスたんはずっと図書館にいるはず。
人目のある場所だから、分かりやすい嫌がらせを受けることもないだろう、と油断していた俺は目を剥いた。
(な、なんだ、あれ……)
どうしたことか。いつもの図書館のはずなのに、今日に限って他の生徒の姿がまったく見当たらない。
それだけならまだいいが、何故か二人だけ――アリスティアとヘルムートが並んで座っているではないか。
(ど、どうして、ととと、隣の……)
となりのトントロ。
俺はネギ塩が一番好き。いかん現実逃避か。
こともあろうか、昨日知り合ったばかりの二人が、ちゃっかり隣り合った席で勉強しているのだ。えっ、他にも席いっぱいあるよね?
眼精疲労を疑った俺は、気持ちを落ち着けるべく、二人の死角となる本棚の裏へと身を潜めた。どうか見間違いであってくれ、と祈るような気持ちで、アリスたんがいる場所に目を向ける。
だが悲しいかな。先ほどの光景が幻ではない、と再確認させられただけであった。
(どういうことだ⁉ ヘルムートと親しくなるには、勉学コマンドで何度かイベントを起こして、強制イベントでスチルを見てからじゃないと……)
だが俺は、はっと何かに気づいたように顔を上げた。
考えてみればディートリヒは、普通では考えられないほど早くアリスたんと親しくなっていた。であれば同じ攻略対象として、ヘルムートにもその事象が当てはまるのではないだろうか。
理由は分からないが、この世界ではゲームよりも好感度が容易に上がるのかもしれない。
(だから! それならどうして! 俺には好感度がないんだよ!)
悪役だからである。
というツッコミが浮かんできて、俺は思わず地団駄を踏みたくなった。だが二人に気づかれたら、陰から見守っていることもばれてしまう。
ぐっと涙をこらえた俺は、あまりに情けない状態で、渋々二人の様子を観察することにした。




