五月十日 その2
この学校では学年ごとにフロアが分かれている。一年が一階、二年が二階、そして三年は想像にお任せする。
……想像して頂けただろうか?三年のフロアは地下一階である。そう、この学校には地下がある。話の流れには特に関係ないので忘れてもらっても構わない。
俺は部活には入っておらず上下の繋がりはほぼないので、わざわざ一年のフロアに入ることはない。生徒会関係の要件なら放送で呼んでしまえば済む。職権乱用ではない。
「そういう訳で、俺がここに足を踏み入れるのは、実に一年と二ヶ月ぶりになる」
「また渾身のポエムが声に出てますよ」
呆れたように一色が言った。
「と言うか私が来る意味ありますか? 鞄は会長が持ってるわけですし」
「まあそんなこと言わずに付き合ってくれよ。上司の誘いを断る部下は出世できんぞ」
回れ右して立ち去ろうとする一色の腕を、鞄を持っていない方の手で掴んで引き止める。が、すぐに払い落とされる。
「いつから私が会長の部下になったんですか」
「え、副会長って会長の部下じゃないのか」
「違います」
違うらしい。
「そんなことより、早く探しましょうよ。えーと、漆巴守さんでしたっけ」
「いやほら、深呼吸をだな」
「意味がわかりません。帰りますよ?」
「待て待てえぇーい」
再び帰ろうとした一色を再び引き止めるために再び彼の腕を掴む。俺の手は再び払い落とされる。再びだ。
「わかったわかった、今から行くから」
一年のフロアの前で騒ぐ二年と三年。先程から横を通って行く人通って行く人、こちらをじろじろ見てくる。このまま躊躇していてもそれはそれで恥ずかしい。
「というか、なんでまたそんなに緊張してるんですか? ただ一年のフロアに入って漆巴守さんを探して鞄を渡すだけでしょう」
「そ、それはほら、お前は少し前までここにいたのだろうが、俺は一年以上……」
「違いますね」
一色は鋭い眼光をこちらに向ける。いつの間にかメガネを着用している。一体どこから取り出したのだろう。
「過剰な緊張、それとこれは入学式の時からずっとですが、様子が変です。元から変なのを差し引いても、かなり変です。まるでそう好きな人のことを考えて何も手につかなくなった、乙女のような……」
「っ!! お前……」
「図星ですか」
してやったり、という顔で一色はメガネの弦を中指でくいっとやる。見事にしてやられた感じになっている。
「で、誰なんですか? それ」
「そんな簡単に言えるか!」
「帰りますね」
「ごめんちょっと待って」
何回目だろうか、一色が回れ右して帰ろうとするのを遮る。
「じゃあ直接言わなくてもいいです。特徴だけ教えて下さい。あとは適当に一年生の個人写真と照らしあわせて特定して会長の弱みを握った風にしますから」
「生々しいなぁ」
「じゃあいいです。帰りますね」
「わかりました言わせていただきます」
「そんなに一人で行くの嫌なんですか……」
何か書くものはないかとズボンのポケットをまさぐると、昨日の帰りに寄り道したコンビニのレシートがみつかった。胸ポケットに挿しっぱなしのボールペンを手に取り、レシートの裏に書く。
(廿 廿)
「なんですか、これ」
「似顔絵だ」
一色は体育館の屋上に引っかかったボールを見るような目でこちらを見る。
「…………」
「嘘は言ってないぞ」
「自信満々に出すほどの代物じゃないですよ」
「時代が俺に追いついてないだけさ。どうやら生まれてくるのが早すぎたようだ……」
「はいはい。それで、他の特徴は?」
「ないな」
「はあ。自信満々に言うようなことじゃないですよ」
「あ、強いていうなら少し背が低い気がする」
「会長、本当にその一年生のこと好きなんですか?」
「好きだとは言ってないだろう。気になっているだけだ」
「それを世間一般では好きって言うんですよ」
一色はじっとりとした目で俺を見る。
「そう、だいたいそんな感じだ!」
「はい?」
「そんな感じの目だ!」
「会長って年下から軽蔑の視線を送られる趣味があるんですか? それなら私が毎日でもやってあげますけど、と言うか、頼まれなくてもほぼ毎日……」
ああそうか、と一色は何かに気づいたようで、一人で頷く。
「それで会長、変なことを言って私に睨まれる度に嬉しそうな顔してたんですね」
「そんな顔してたか?」
「アダルトサイトで変なボタンをクリックしたら架空請求されると思いきや水素水の販売サイトに飛ばされた時くらいの気持ち悪さです」
「よくわからんがとてもとても酷いということは分かるぞ……だが、俺がその目で見られたいのはお前じゃないんだ。すまんな」
「よく分かりませんけどそうやって謝られるとなんかむかつきますね。殴ってもいいですか?」
「断る」
「とは言え、そんなうろ覚えだと仮にすれ違っても気づかないんじゃないですか」
「そんなことはないぞ。特徴が思い出せないだけではっきりと覚えている。その子は……えーと、そう、ちょうど向こうから歩いてくる一年生なんかがそっくりだな」
俺は一色と俺から向かって奥の方からこちらに向かって歩いてくる二人組を指差す。赤いリボンを付けているのですぐに一年生だと分かる。
「ほら、あそこにいる右側の……」
「あれ? 左側じゃないですか?」
「違う、右側だ。あいつによく似た……というかよく見ると本人っぽいな、あのじとっとした目の」
「会長の性癖はどうでもいいです。それよりもあれ、漆巴守さんですよ」
「まじで」
よく見ると、確かに彩乃と一緒に歩いてくるのは漆巴守こと我ら生徒会の書記氏だった。一色が軽く手を挙げると彼女も俺と一色に気づいたようで、急ぎ足でこちらに近づいてくる。
「探す手間が省けましたね」
安堵の口調で一色が言う。さてはこいつも一年のフロアに入るのは嫌だったんだな。
「と言うか、お前こそ名前もうろ覚えなのによく遠目に見ただけで分かったな」
「それは……まあ、そういうこともありますよ。さっきのは名前と顔が一致しなかっただけですし」
「ほあ」
一色の持ち前のイケメンボイスがなんだか少し引っかかったが、ひとまず今はどうでもいいので俺はそれを持ち前のスルースキルで華麗に受け流す。
「あいつら、知り合いだったのか」
「同じ学年だったらそういうこともあるでしょう。別にうちの学校そんな人数いないですし」
「でもまだ一年だから入学してまだ一ヶ月だぞ?」
「同じ中学だったとか、或いはそうでなくても有り得ないことはないでしょう。一年のフロアに来るだけでキョドるコミュ障ならともかく」
「そうだな、俺やお前ならともかく」
「なんでそこに私が入ってるんですか」
「え、ちがうの?」
「ちがいます」
ちがうらしい。
いずれにせよ、一年間過ごしてもたった三十人ほどのクラスメイト全員の顔と名前が一致しない俺からすると遠い遠い異世界の物語だ。
「会長さんと副会長じゃないですか~、どうしたんですか一年のフロアに来て~」
不自然に自然な様子でこちらに声をかけてくる漆巴守。先程泣きながら生徒会室を出て行ったとは思えない。俺と一色の対応がそこまで彼女を傷つけた訳ではなく単にオーバーリアクションだったのかはたまた何か別に理由があるのかは分からないが、なんにせよ一年のフロアでまで泣かれるようなことがなくてよかったと少しほっとして胸を撫で下ろす。
が、それも束の間。
漆巴守の隣にいるじとっとした目の少女に胸ぐらを掴まれる。身長差のせいで大して威圧感があるわけでもなく避けようと思えば避けられそうではあったが、とっさのことで呆気にとられ、何も手が打てない。
「今会長と副会長って言いましたよね?」
「あ、はい」
彼女こそ、まさに入学式の日に俺のことを死んでから暫く放置された魚と評した張本人、天之川彩乃である。
彩乃はじっとりとした目で俺を睨みつける。威嚇のつもりかもしれないが、俺としてはご褒美だ。もっと睨んでほしい。
横から一色がにやにやしながらこちらを見ている。こちらは気持ち悪い。
「あなた、卯美々ちゃんに何したんですか?」
「あーいやな、ちょっと名前を思い出せなくてな。あと、主犯は俺じゃなくて隣にいるこいつだ」
「言い訳無用!」
彩乃が俺を掴む手に力が入り、じりじりと壁際まで追い詰められる。やはり抵抗しようと思えば余裕で止められそうだったが、俺は彩乃にされるがままになる。悪い気分ではない。ジト目の女の子にされる壁ドン、悪くない。
「彩乃ちゃん、私そんなに怒ってないよ~?」
「卯美々ちゃんは黙ってて!!」
彩乃は漆巴守を一喝し、俺の方に向き直る。
「これが噂の修羅場ってやつですね! 視聴率が鯉のぼりです」
「それを言うなら鰻登りだ。ぜんぜんうれしくないぞ」
「会長、話聞いてますか?」
だんだんとギャラリーが増え、周囲がざわめき出す。それもそのはず、一年生に胸ぐらを掴まれて説教される三年生と、その隣でなかよくならんで突っ立っている一年生と二年生など滅多に見られるものでもない。録画して動画サイトにでも上げようものなら再生回数は鯉のぼり……かもしれない。
「はいはいすまんすまん、なんだっけか」
「あなたが卯美々ちゃんの名前を忘れたことです! こんなにちっちゃくて可愛らしい卯美々ちゃんの名前を忘れるなんて信じられません!」
「お……おお」
「名前を忘れるってのがどういうことかわかりますか? それは、自分のアイデンティティを認められないということです。人間は多かれ少なかれ、承認欲求というものを持っています。その根幹となるもの、それが名前です。名前を忘れられるということは、他人から評価される機会、認識される機会、認められる機会を全て失うことに他なりません。仮にです、もしあなたが野球部のエースだったとして、今年の地区大会で優勝したとします。そこで次の生徒集会の時にチームを代表してエースであるあなたが壇上に登って表彰されることになりました。嬉しいですよね? あなたは当日、意気揚々と集会が行われている体育館の階段を上ります。他の部で何かしらの活躍した人たちが次々と呼ばれ、あなたの番になりました。全校生徒の視線を背中に感じながら、校長先生の前まで行き、賞状を受け取ります。野球部といえばそれだけで運動部の花型です。鼻高々です。天狗です。あなたは受け取った賞状に視線を落とします。その時気がつくのです。そこに書かれてある名前は、なんとあなたではなくサッカー部のキャプテンではありませんか。嫌でしょう。この校長ぶっ○してやるってなるでしょ。あなたが卯美々ちゃんにしたのは、つまりこういうことです」
「すまん、例えが特異的すぎてちょっと意味が分からなかった」
「もし卯美々ちゃんがぶっ○してやるって感情を抱いたとして、その後彼女はどうなってしまうでしょうか? きっと華奢でか弱くてとてもかわいい卯美々ちゃんは実行に移すことはないでしょう。そればかりか、持て余した感情を自分の内側で消化し切れずに海に身を投げてしまうかもしれません。そうなったら、一体どう責任とるつもりなんですか?」
うみみちゃんだけに海に身を! と一色が小声で言う。気温が僅かに下がる。
「いや、いくらなんでも風が吹いたらひしゃく屋が儲かるくらいの話の飛躍っぷりでちょっと良く分からない。あと実行に移せずにとは言うが実行に移すやつなんていないと思うぞ」
「そうですか? 私だったらやりますけど」
そう言って彩乃は俺の胸を掴む手を緩めた……かと思うと、なんと両手で俺の首を掴んだ。
「しまってるしまってるしまってる」
「締めてんのよ」
俺は持っていた二つの鞄をその場に落として手で彩乃の背中を軽く叩く。柔らか……決して他意はない。なにかしらの武道で言うところの、降参の合図だ。こないだテレビで見て知った。
が、彩乃が俺の首に回した手を緩める気配はない。それどころか、更に強く掴まれる。ぎりぎりぎりぎり。
可愛いジト目の女の子に首を絞められて殺されるなら本望……というのはさすがにない。やばいやばいしぬしぬしぬしぬ。
「あ~、それ、私の鞄じゃないですか~」
「え?」
彩乃が俺の首を掴む手がほんの少しだけ緩み、視線が漆巴守の方に向く。しめた。ここぞとばかりに俺は彩乃の腕を掴み、危なげなくはないが開放される。
漆巴守が指差す。床に落とされた二つの鞄。一方は俺の、もう一方は漆巴守のものだ。だが学校指定のほぼ無地の紺色の鞄で、ぱっと見る限りでは見分けはつかない。加えて言うと、学年で色分けもされていない。持ち手の隅に校章の刺繍が入っているだけだ。
「ほら~、そのクマさんがついているやつです~」
「クマさん?」
「ついてるじゃないですか~、それです~」
むむむ、と俺はその場にかがんで二つの鞄をよく見比べてみるが、何かついているようには見えない。右隣に視線を向けると、一色は無言で明後日の方角に目をそらした。日本人かよ。
「確かについていますよ。会長の目は節穴ですか? 風穴開けましょうか?」
彩乃はそう言いながら自分の鞄の中から業務用らしきグリップのついたごついドライバーを取り出した。なんでそんなもの持ち歩いてんだよ。
「も~彩乃ちゃん、そんな物騒なものしまってしまって~。確かにちょっと暑いですけど、壁を壊さなくても窓を開ければ風は通りますよ~」
「……卯美々ちゃんがそう言うなら」
「季節の変わり目は急に暑くなったり寒くなったりするのでちょっとしんどいですよね~」
明らかにに噛み合っていないが本人達は気にする様子はない。彩乃は渋々といった様子でドライバーを鞄の中にしまう。可愛い。
一色は……いつの間にかいなくなっていた。薄情者に次期生徒会長の座を譲るわけにはいかない。
「ほら、ここです」
彩乃は二つのうち一つの鞄、の校章のあたりを指差す。
「この校章がどうかしたのか?」
「校章じゃないです~。よく見てください~」
言われる通りによく見る、が、やはりそれは校章――ではなく、クマの刺繍が施されていた。
「わかるかそんなもん!」
「可愛いでしょ~?」
「知らんわ!」
「卯美々ちゃんお手製の刺繍が可愛くないとか節穴ですか? やっぱり風穴を……」
彩乃が再び鞄からドライバーを取り出す。好きだなそれ。
「あれ、そう言えばなんで会長が私の鞄を持ってるんですか?」
そこかよ!
「お前がさっき生徒会室に置いたまま出て行ったんだよ」
そう、だから感謝こそされても間違っても絞め殺されるようなことはしていない。が、
「あれ~? そうでしたっけ~」
「適当なこと言ってるとぶっ刺しますよ」
少なくとも感謝されることはなさそうである。
「どうでもいいけどお前ら仲良いな」
「どうでもよくないです! 卯美々ちゃんと私は一心同体です!」
「でしょ~? さっき知り合いました~」
まじかよ。
「泣いて走ってくる女の子がいたら普通声をかけるでしょう。それで少し話していたら、私達は心の友だということに気が付きました。でもこんなに可愛いんですよ? あなたは声かけないんですか?」
「そりゃまあ、声くらいかけるかもしれんが」
「うわあ、初対面の異性にいきなり馴れ馴れしく声かけるとか変態ですか?」
「まてこれは悪質なおとり捜査だ」
「こんな変質者放っといて行きましょう卯美々ちゃん……って、あれ?」
卯美々と手をつなごうとしたのか彩乃は手を伸ばすが、その手はすかっすかっと空を切る。不信に思い振り返る彩乃。その視線の先には、こちらに手を振りながら走って行く漆巴守の姿。
「彩乃ちゃんごめん~! わたしまだ今日の日直の仕事が残ってるの忘れてた~! LI○Eでうちの住所送るから先に行ってぐぶふぉふゎぁ」
そして、廊下から少し出っ張っている柱に激突する漆巴守の姿。
「……そういうことなんで、私は今から卯美々ちゃんのお家にお呼ばれしてきます。じゃあ会長お先に。今度会うまでに節穴埋めて来てくださいね。もう会うこともないかと思いますが」
俺に背を向け、漆巴守が倒れている方に向かって立ち去ろうとする彩乃。その背中を、俺は呼び止める。
「なあ彩乃」
俺の声に、彩乃が振り返る。
「なんですか? 馴れ馴れしく名前で呼ばないで下さい」
「さっきお前、卯美々のこと小さくて可愛いって言ってたな」
「それがどうかしましたか?」
「お前も小さくて可愛いぞ」
「節穴に風穴開けられたいんですか?」
彩乃がじっとりとした目で俺のことを見る。
「ジト目の美少女にだったら殺されてもいいかな」
その目は、入学式の日見た目と同じで、
「馬鹿なんですか?」
敵意むき出しの声で彩乃は俺に言う。
その声に、その表情に、そしてその視線に俺の体は夕立に降られた後の様に震える。
そう、それだ。俺が見たかったのは、その目だ。