五月二十一日 その3
「はっ!」
唐突に意識が戻る。どれくらい時間が経ったのだろう。きょろきょろと見回すが、俺の目の届く範疇に時計はなく、計り知ることはできない。
ここは……たしか、家庭科準備室だ。尾道に引きずられて、その後眠らされたのだ。尾道は部屋の中にはおらず、どこかへ行ってしまったようだ。
その扉の向こうの家庭科室では、彩乃がパンケーキを作っているはずだ。食べた人間を失神させるほどに、とんでもなく美味いパンケーキ。
それを衿川に食べさせて安全性を証明する、という話だが、無論そのまま食べさせては衿川もまた俺と同じように失神してしまうだろう。それでは安全性の証明どころか、明らかに危険なものとしてクラスメイトの目に晒すことになる。まさか死ぬことはないだろうが、衿川はそのことを言いふらして回るだろう。
それでは意味が無い。
だから、危険性を取り除く必要がある。
漆巴守達は気が付いているのか或いはあえて口に出していないのかは分からないが、どう考えても怪しいのはあの粉だ。だから、俺はあの粉を別のものにすり替えることにした。
ただの白い粉のようにしか見えないので、適当に砂糖か何かを用意すれば十分間に合うだろう。これがもし緑色の粉なんかだったら抹茶塩でも用意しなければいけないところだったが、その点は楽に用意できるもので助かった。
問題は、それをどのように衿川、そして何よりも彩乃自身に気づかれずに行うかということだ。
その点では、家庭科準備室に一人取り残されたという状況は、かえって好都合かもしれない。準備室というだけあって、置いてある皿のラインナップは家庭科室と同じになっている。俺はいくつか粉を乗せるのに使いそうな小皿に目星をつけ、一枚ずつ用意する。砂糖も棚の上の段に予備のものが置いてあった。それを一袋拝借し、順に小皿に適量を注いでいく。まあ、こんなものか。
「わ~彩乃ちゃん、完成ですね~」
俺がひと通り作業をし終えた時、家庭科室の方から漆巴守の声が聞こえた。パンケーキが完成したようだ。
「あとは、これをこうして……」
俺は家庭科室と家庭科準備室をつなぐ扉をほんの少しだけ開ると、向こう側を覗きこむ。
彩乃は手元に置いてある小さな小皿に、ポケットから取り出した小さな袋を開けて粉を流し込んでいく。あれだけは、やはり尾道の用意したものではないらしい。
俺はその皿をよく確認すると、先程用意した皿の中から同じものを選びとり、零れないように後ろ手に持って前からは見えないようにする。
「よし」
俺はガラガラガラばあん! となるべく大きな音を立てて扉を開け、彩乃と漆巴守の注意をこちらに引きつける。不自然に思われないように気をつけながら、俺は大きめの声で言う。
「おお、完成したのか! どれ、俺が味見を……」
「馬鹿なんですか?」
「会長さんが食べちゃったら意味無いですからね~」
「二人とも辛辣だなあ、分かってるよ冗談じゃ……ああっ! 廊下に生活指導の先生がぁ!!」
俺がそう言うと、その瞬間二人の視線は廊下の方に向けられる。しめた、と思い、そこに置いてあった小皿を用意してきた小皿と取り替える。
「……どこにもいないじゃないですか」
「驚かせないでくださいよ~」
「いやいや本当だぞ、本当にそこを通りかかったんだ」
「と言うか、よく考えたらくるくる先生の許可はとってあるので見つかったところで指導されることはないと思うんですけどね~」
「まあ、確かにそれもそうか……そう言えば、尾道さんは?」
「制服の胸元がキツいので先に学校を出て車に戻ってると~」
「胸元……」
確かにキツそうではあった……が、さっき縄で縛られていた彩乃を思い出して比べると……見た感じはだいたい……いや、彩乃の方が少し大きいか?
「会長、目つきが気持ち悪いです」
彩乃はいつの間にか効き手をフライ返しからドライバーに持ち替えていて、俺の肋骨の下あたりを一突きした。
「ぐぼふぁあ」
「汚い音出さないでもらえますか?」
そう言って彩乃は俺を、テーマパークのアトラクションでリア充がシングルライダーを見るような目で見る。かわいい。
「それじゃあ彩乃ちゃん、パンケーキが冷めないうちにそろそろ行ってください~」
「え、卯美々ちゃんは来てくれないの」
「私が持って行ったら彩乃ちゃんが作ったことが疑わしくなるじゃないですか~。少し遅れてついて行きますから、安心して下さい~」
「でも……」
「大丈夫だ漆巴守、お前のパンケーキは間違いなく美味い。一度食べた俺が言うのだから間違いない。自信を持て」
「心配してくのはそこじゃないんですが……」
「いいから行って来い。俺も漆巴守と一緒に後で行くから」
「え、別に来なくていいです」
「会長さんは来なくていいんですよ~?」
「えっ、ひどい」
「気を取り直して~、さあ彩乃ちゃん、早く行かないと会長さんがついてきちゃいますよ~。会長さんは彩乃ちゃんみたいなじっとりした目の女の子が大好きなので、きっと舐めるように視姦されちゃいますよ~」
「はい、行ってきます」
彩乃は即答し、パンケーキの皿を持ったかと思うと一瞬で廊下の側まで移動し、扉を開けて出て行ってしまった。
「俺、そんなに嫌がられてるかな」
「どうでしょうね~、案外、そうでもないかもしれませんよ~」
「どういうことだ?」
「そうですね~、例えば……会長さんの顔が殺人的に気持ち悪くて、それこそ人を殺しかねないほどだったとします~」
「なんだそれ酷い設定だな」
「この物語はフィクションですが、現実の設定と似せて作られています~。同じ名前や団体名等があった場合、それはまさにそのものかもしれません~」
「……もういい、続けろ」
「見られるだけで殺される会長さんの周りからは、当然人は離れていきますよね~。そこでです、もし仮に突然現れた一人の女の子が『会長さんは気持ち悪くないよ~』って言ったとしたら、どう思いますか~?」
「可愛いジト目の女の子だったとすれば、間違いなく惚れるな」
「会長さんの性癖はどうでもいいです~。それがジト目の女の子じゃなくても、まあ悪いようには思わないでしょう~」
「まあ場合によっては……あれ、ということは、俺もしかして惚れられてるのか?」
俺が自分でも分かるほどウキウキした声で言うと、
「えっ、自意識過剰なんじゃないですかね」
急に辛辣な口調で漆巴守が答える。いつもの間延びした口調はどうした。
「そう言えば、さっきから何を隠しているんですか~?」
「お、おお、これか?」
俺は後ろに回していた手に持っていた小皿を漆巴守に見えるようにしながら言う。
「例のパンケーキに乗っていた小皿だ」
「え~? でもちゃんと彩乃ちゃんが持っていったパンケーキの大皿には小皿が載ったままになっていたような気がするんですけど~」
「それは俺がすり替えた砂糖だ。と言っても、お前もパンケーキを食べたならこの粉が怪しいことくらい気づいていただろ?」
「あ~、それはですね~……」
「まあ食べれば分かることだ。少量なら問題ないだろ。どれ」
俺は指で白い粉をすくって口元に運ぶ。その瞬間、前に彩乃の家でパンケーキを食べたことを思い出して一瞬躊躇するが、意を決したように口に含む。またあの強烈な美味さに襲われる……かと思った。が、
「……ん……?」
舌先に感じたのは、ただただ甘いだけの粉末。
量が少なすぎたのかと思い、もうひとつまみ舌の上に載せる。しかし、前のような衝撃的な美味さを感じる気配すらない。それはただ甘いだけで、そう、まるで俺が用意した砂糖と同じような……と言うか、
「これ、砂糖じゃないか」
どういうことだ? すり替え損ねたのか? いや、小皿についた微妙な傷なんかを鑑みるに、これは俺が用意していたものとは明らかに違うものだ。ということは、彩乃が用意した小皿に盛ってあったのは、最初からただの砂糖だったということか? ということはまさか、本当に人を失神させるほど美味いのは、この粉のせいではなくて……
「まさか……っ!」
「会長さんの考えていることはだいたい分かります~。けど、この粉は砂糖ですよ~。ただ、昔星灯会の生産ラインで使用されていたものと同じものであるというだけです~」
「っ…………!!!」
漆巴守の言葉を聞き終わるか聞き終わらないかのうちに、俺は走りだしていた。
衿川があのパンケーキを口にするのを、止めなければいけない。




