五月廿日 その1
一週間が経った。
彩乃の家でパンケーキを食べた日から、会長は眠ったままだ。彩乃も学校に来ない。いつまで長引くか分からない以上二人の進級に差し支えがあってはいけないので、インフルエンザでの欠席扱いにしてある。多少季節外れではあるが、追求する者は誰もいなかった。診断書は漆巴守家の息がかかった医療法人に声をかけて書かせておいた。私がそれを職員室に持って行くと流石に教師に怪しまれたが、札束で校長の頬を叩いておいたので後々問題になることはないと思う。もし仮に何かあっても、然るべき人間をまた札束で叩けば済むだろう。
生徒会には顔を出していない。今日もきっと副会長の一色が黙々と作業していることだろう。彼にもいくらか握らせようと思ったのだが、とんでもないことだと言って断られた。彼もまた、自分の立場をよく分かっているらしい。だからどうというわけではないが、三人のうち二人が抜けた状態でもきちんと仕事が回っている以上、やはりここの生徒会はただの雑用係に過ぎないということもよく分かる。
彩乃のいない教室は、静かに感じる。いつも賑やかしているのは私の方ではあるが、話し相手がいないというのはこうも寂しいものなのか、と実感する。演技であるとはいえ、やはりいくらか物寂しいものは物寂しい。
教室に入ると、彩乃の机は元の場所に戻っているのに気がついた。教室後ろの個人用ロッカーに乱雑に投げ込まれていた教科書やノートの類も、机の中に綺麗にしまわれていた。この教室内の生徒で衿川さんのグループに関係のない人間がそうしたのか、教師がしたのか。が、彩乃に関する黒板の落書きに何も口を出さなかった教師がわざわざ手を入れたとは考えにくいか。教師とは基本的に事なかれ主義の生き物なのだ。案外、誰もいない時間帯を狙って一色が来たという説もあるかもしれない。
人の噂も七十五日とはよく言ったものだが、学校という小さなコミュニティの中においてその時間はさらに短い。ものの一週間で、彩乃のことを話す人間はいなくなった。時折何かの拍子にその名前が挙がっても、まるで死んだ人間のことを話すように誰も話を広げようとはせず、すぐにまた人気のアイドルグループや昨日放送されたドラマやアニメの話題に飲まれていった。
私は自分の席に向かう。いつも彩乃に宿題を教えていたが、その役目が無い今、朝の時間は退屈だ。ただ自宅にあるものよりも単純な形をした時計の針の先が均一な速度で円を描くのを眺め、時間をやり過ごす。
……が、今日は来客があった。周囲の人間を寄せ付けず優雅な立ち振る舞いでこちらに向かってくるのは、衿川だ。彼女は私の机の前までくると軽くカールした長い髪を左手でかき上げ、椅子に座ったまま腕を机について静止している私の視界を遮るようにして立つと、見下すような目線を私に送りながら言う。
「天之川さん、今日もお休みなんですってね」
喧嘩を売っているのですか? と問おうとするが、聞くまでもなくどう考えても喧嘩を売っているので、言いとどまる。売られた喧嘩を買う義理はない。吠える犬に餌を与えても、鬼退治のお供にはなってくれない。
「インフルエンザか何かで主席停止だと聞いていますけど」
後ろめたいことがあるわけではないが、必要以上に衿川に詮索されるのも癪だ。なるべく落ち着いた風を演出しながら、私は答える。が、私のその考えを透かした上なのか、あくまで挑発するように言葉を続ける。
「漆巴守さんは生徒会には行かなくてもいいのですか? 生徒会長さんも出席停止『ということになっている』のでしょう?」
うふふふふふふふふ。
下手な作り笑いがやけに耳に残る。
「……どうしてあなたがそれを知っているんですか」
「あら、前もお話しませんでしたっけ、自分が所属する学校のナンバーワンですもの。気にかけるのは当然ですわ。ねえ、生徒会書記の漆巴守さん。それとも、」
一拍置いて、衿川は続ける。
「漆巴守家のご令嬢、とお呼びしたほうが宜しいでしょうか?」
「衿川さん、あなたは……」
薄々感じてはいた。彼女は個人ではなく、家同士の争いをこの場に持ち込むつもりなのだ。
漆巴守の家と衿川の家とは、少なからず因縁がある。私の家は、五十年ほど前までここ周辺の土地の殆どを有する大地主だった。土地の多くは田畑が占めているが、その中にはこの学校を含め企業、施設などの殆どの土地が含まれ、実質的にそれらの機関の上層部は私の家には頭が上がらなかったらしい。噂程度の話ではあるが、町議会なんかも裏から牛耳っていたという話だ。とはいえ私にとっては噂以外の話も全て人から聞いた話でしかないのだが。とにかく、当時の漆巴守家の庭に石を投げ入れるような真似ができるような人間は町内にはおらず、順風満帆そのものだであった。
衿川家の手が、この街に伸びるまでは。
衿川の父親は、起業家であるらしい。二度、食品関係の会社を立ち上げるも、あえなく失敗に終わる。その後始めたのが、今の会社。私にはよく分からないのだが(一色あたりなら分かるのだろうか、)なんでもネット上の広の情報告を管理するサービスのようなものを初め、結果それが大当たりし、二度の失敗で背負うことになった借金が些細に思える程度の莫大な資産を手にする。
衿川の父親には夢があった。それは、自身が作った会社の企業城下町を育ることだ。
その目的を達するためには、何もない土地が一番だ。そこで彼が目をつけたのが、漆巴守家の手にあったこの土地だった。
資産のあるベンチャー企業がこの町の土地を欲しがっているということで、当時漆巴守家の長であった私の祖父は、大いに歓迎したらしい。空いている土地をいくつか見繕い、タダ同然の値段で売り渡した。町の財政が潤うのだから漆巴守家にとっても悪い話ではなかったのだ。
だが、それが間違いだった。土地に根をはった衿川の会社は、今度は大樹が大きく枝を伸ばすように町の周辺に手を伸ばし初めた。圧倒的な資金に物を言わせて次々と土地を買い占め、気がついた頃にはこの町で漆巴守家の土地以外は全て衿川の息がかかった状態となってしまった。以来、町議会での勢力も拮抗し、両家の間では今なお睨み合いが続いている。
「私が言いたいことは一つ。この町で力があるのはあなただけではないということですわ」
「……何が言いたいんですか」
「あら、私の前では別に聡明でない振りをする必要はないのではなくて?」
なおも挑発するように笑いながら、衿川は続ける。
「私がそう思えば、天之川さんに不利益になるように立ちまわることも可能だということです」
そう言って、衿川はポケットから一枚のコピー用紙を取り出す。きっちりと折りたたまれたそれを丁寧な手つきで広げ、私に見えるように広げる。その紙に書かれていたのは、
「……どうして、あなたがそれを持っているんですか」
動揺を隠し切れないでいる私に衿川は近づき、微笑みながら耳元でそっと囁く。
「天之川さんのパンケーキを、私にも食べさせて頂けませんか?」




