マニュアル
始業の時間が近づくとアニさんがオフィスから出て来て、「今日は朝礼は行いませんので、研修室で待機していて下さい」と言った。
キリアの読み通りなら、書類やハンター達への通達に変更があるため色々と忙しいのだろう。そう思い何も聞かず指示に従った。というか、正直に言うと、本心では“うっほー! やったぜ! 今日はこのまま待機で終われば、後一日で帰れる! いゃっほ~!”と思っていた。
それはアリアも同じのようで、研修室に入るとやたらとテンションが上がったのが分かった。
「今日はこのままずっと待機だったらどうしますか?」
壁際の椅子に三人仲良く腰掛けようとするや否や、アリアが嬉しそうに言う。
「でもそれだと今日の分の単位足りなくなるだろ。さすがにアニーさん、それはしないと思うぞ?」
内心はアリアに賛成だが、一応真面目ぶって正論を言った。俺だって「なぁ、アニーさん来るまで何して遊ぶ?」って言いたいよ。けど俺ももう良い歳こいたおっさんだから、建前ってものがある。
「リーパーの言う通りだ。アリア、待機も仕事だ。気を抜くなよ」
「分かってますよ、キリアさん」
キリアだって本当は、「なぁ、俺逆立ち出来るんだぜ! お前ら出来るか?」的な事を言って遊びたいはずだ。それなのに俺よりカッコいいこと言って、自分は集中してますよ~ってアピールしている。真面目ちゃんめ!
「なぁ。何して遊ぶ?」
しまった!
「え? また~リーパーさんったら~。これも仕事ですよ?」
やっべぇ! あまりにテンションが上がり過ぎて、何して待つと言おうと思ったのに本心が出てしまった! アリアには助けられた。
「ははは、冗談だよ」
怖いねハイテンション。待機がこんなに嬉しいとは驚きだ!
「冗談はそれくらいにして、少しは集中力を高めたらどうだ。あまりふざけていると癖になるぞ」
「分かってるよ。これだって俺なりの気分の上げ方なんだよ」
「そうか。それはすまなかったな」
今の雰囲気はキリアにとっても良いのだろう、珍しく素直に認めた。
やはり今日の俺は絶好調のようだ。上手く頭も働き、あのキリアを欺くことが出来た! この調子なら、今日は待機で終わるもしかしてもあり得る!
神を恨んだことも忘れ今日の良き日に寛いでいると、その祝福は儚いほど短い時間で終わった。まさかのアニさんの登場である。
「皆さん、お待たせ致しまして大変申し訳ありません。早速本日の講習を始めます」
やはり俺の神様はケツ神様だ!
俺は昔っから運が無い。ギャンブルはまず勝てない。欲しい物を買いに行けば、売り切れているならいざ知らず、まさかの臨時休業。実家は農家で裕福とは言えず、父も母も特に取り柄が無い。そのうえ貯金は増えない、モテない、運動神経は人並み。才能もあるとすれば全人類の平均値という基本能力! 神様は全てに平等だと言うけれど、あれは絶対嘘だ! だってキリアを見てよ。貴族出身、お父様は冒険者、女性にモテまくり。ケツ神め!
「では、今日は研修室での講義となりますので、皆様、椅子を用意して下さい」
「はい」
なんともスッキリしない気分だがこれも仕事である以上、気持ちを切り替えて講義に臨む事にした。
「本日はこちらの都合で、研修内容に変更を余儀なくされました。皆様方にはとても大切な研修にも関わらず、誠に申し訳ありません」
今日がどんな研修内容だったかは知らないが、本当に今日は忙しいらしい。別にアニさんが悪いわけじゃないが、申し訳なさそうにするアニさんは不憫でしょうがない。
「はい」
ここでキリアが手を上げた。もう分かる。キリアはトイレに行きたいのではなく、アニさんに質問があるのだろう。
「どうぞキリアさん」
「はい。本日の研修は受付の模擬講習となっていました」
え? そうなの? なんでキリアは講習内容知ってんの?
「それは私達見習いにとってはとても重要な講習だと思いますし、私としては最も重要視していた項目です。その変更には疑問を抱かざるを得ません」
こいつ、ミズガルドのギルドの重役に知り合いでもいるの? 確かに言っている事はごもっともだけど、なんで内容知ってんの?
「キリアさんのお気持ちは重々承知しておりますが、模擬受付には実際のフロントを利用しての研修となっておりましたので、都合上やむを得ないのです。ご理解頂けますか」
「…………」
キリアは納得がいかないようで、返事をしない。っていうか、なんでキリアは研修内容知ってんの!?
「しかしながら、変更はありましても、講義として受付を学んで頂くプログラムを作成しました。実際のフロントに立っての実践形式ではありませんが、講習室で出来るだけ実践に近い受付を体験できるよう尽力致しますので、ご了承願いますか」
「……分かりました。よろしくお願い致します」
アニさんに抜かり無し。朝の僅かな時間で組み立てたのだろう、キリアを納得させられるだけの準備は出来ているようだ。
「大変申し訳ありませんキリアさん。ご協力に感謝致します」
こういう機転を咄嗟に利かせられるアニさんに、改めて感服した。
「では、お時間も惜しいので、早速講義を始めたいと思います。先ずは……」
コンコン。
とうとう講義が始まると思った矢先、扉をノックする音が聞こえた。
「はい」
アニさんが返事をすると扉が開き、女性スタッフが申し訳なさそうに俺達に一礼すると、アニさんを呼びよせた。
二人は背中を向け、内容が聞こえないようにヒソヒソと話す。
「……ます。……すので……すか?」
「はい……では、一度……します」
恐らく朝の件だと思うと、どうしても聞き耳を立ててしまう。しかしさっぱり聞こえない。
「分かりました」
結局聞き取れないまま話がまとまったのか、そこだけは聞き取れた。ガッテム!
「皆さん。申し訳ありませんが、再度待機していて下さい。私は席を外しますので、よろしくお願い致します」
そう言うとアニさんは、軽く頭を下げ出て行った。余程込み入った状態なのか、何やら慌ただしい。しかし再び楽しい時間が訪れた事に、今はこの緊急事態に感謝だ。どうやら俺の神様は、まだケツを拭かれる前の神様らしい。
アニさんのいなくなった研修室は、空気が柔らかくなり、明るくなった気がする。アニさんは威圧感を出すような人ではないが、ギルドオーダーという肩書が独特のオーラを放っている。それが責任という力なのかもしれないが、ここまで空気を変えるとは驚きだ。
アリアも再度訪れた待機に表情が綻んでいる。しかし一方のキリアは落胆したようにため息を付いている。年齢的にはキリアを見習わなければならないのだろうが、それは無理だ! 肉体と精神年齢は比例しないみたいだ。
それでもキリアが楽しみにしていた受付講習を邪魔されたことに肩を落としているのを見ると、そう易々とははしゃげない。そこで、空気を変えないよう、キリアに何故研修内容を知っていたか尋ねる事にした。
「なぁキリア」
「……なんだ」
返答するまで僅かな間があった事に、こいつはどんだけ真面目なんだと思った。
「お前、なんで研修内容知ってたんだ?」
「…………」
俺の質問にキリアは無言で見つめ、ため息を付いた。何? 俺変な事聞いた?
「お前、マニュアル貰ってないのか?」
「マニュアル?」
「そうだ」
マニュアル?
「……マニュアルって、ここに来た時……」
そう言えば、なんかあったような……
「……アニさんに貰ったやつか?」
「あぁ。それに……」
「ぁぁあああっ!」
書いてあった! たしか研修規約とは別にあった! あれを読んだときは迷子になったせいで遅くなって、時間が無いから怒られたらマズイ規約ばっかり読んでた! そのせいで全然忘れてた!
「お前、もう帰った方が良いんじゃないか?」
「うっ、うるせぇよ! あの時は忙しかったんだよ!」
「忙しいで許されるなら、誰もお前に賃金など払わんぞ?」
「うっ、うるせぇよ!」
「大体な……」
この後しばらく、キリアの説教が続いた。




