奇策
研修三日目。
ようやく三日目にして宿舎のベッドにも慣れたのか、気怠さを感じない朝を迎えた。
外では朝早くから雀が鳴き、カーテンを開けると、心地の良い日差しが僅かに残った眠気を取り払ってくれた。
身支度を済ませ、食堂に向かうため一階に降りると、ランケイさんに挨拶した。
「おはようございます」
「おはよう」
いつもは一言挨拶してそれで終わりだが、今日は少し違い、ランケイさんが話し掛けて来た。
「坊や、食堂の夕食食べてないだろう?」
「え?」
たしかにミズガルドに来てからは諸事情により、夕食は一度も食べていない。
「そうですけど……」
もしかしてと思った。宿舎などでの食事は、食べない事が決まっている場合、事前に要らないと報告しておくのが礼儀だ。俺はそのことを一度も報告していない。
「食べないならきちんと伝えなきゃ駄目だよ。食べ物だって元は命なんだから、余れば可哀想だろ?」
「はい……すみませんでした……」
朝一の説教は正直堪える。それでも悪いのは俺だ。
「私に謝らなくてもいいよ。それで、今日は食べるのかい?」
「いえ。ここにいる間は、夜はギルドでは食べないと思います」
「そうかい」
多分この先、夜は毎日ロンファン達と食べるだろうし、ロンファン達が駄目だったとしても、アリアが誘ってきそうだ。
「あの~、それは誰に伝えればいいんですかね?」
「いいよ、私の方で伝えておくよ。坊やは、夜は要らないんだね?」
「はい」
ランケイさんはそれを聞くと、メモを取った。容姿やふてぶてしい態度から、ただ椅子に座って一日を潰しているだけだと思っていたが、意外としっかりしているようだ。
「呼び止めて悪かったよ。もう行っていいよ」
「あ……はい」
俺が返事をすると、ランケイさんは煙草に火を点けた。
う~ん……意外としっかりしているのか? まぁ食事の管理も出来ない俺よりはマシか……
そんなランケイさんを後にして食堂に向かうと、今日も空席だらけの寂しい食堂で朝食を取った。
先ほどの件もあり、直接おばちゃんたちに謝りたかったが、忙しなく動き続けるおばちゃんたちは、挨拶しても会釈を返すだけだった。
しばらくするとアリアも来て、暗い顔で昨日の事を謝った。俺としては二人も気にしておらず、礼儀正しく謝るアリアに「気にすることは無い」と返した。アリアは気に病んでいたのか、それを聞くと肩の荷が下りたように普段の明るいアリアに戻り、他愛もない話をしながら二人で食事をした。
朝食を済ますといつものように部屋で時間を潰し、少し早くオフィスの前で終業を待つ事にした。
今朝はキリアが早く来ていて、自分の右手を見ながら一人ぽつんと佇んでいた。
「おはよう。お前今日は早いな?」
挨拶するとキリアは無言で俺を見つめ、少しの間の後返事をした。
「あぁ」
あぁ!? 普通そこはおはようじゃないの!? 挨拶はきちんとしないと駄目だってお祖母ちゃんに教わらなかったの!? 挨拶した俺が損したみたいじゃん!
まぁ、社交辞令も出来ないキリアが、この先どんな人生を歩むのかは知らないが、こいつももう良い歳こいた大人だし、俺には関係ないけど……
「おいてめぇ! 先ずはおはようだろ!」
「んぁ! ……おはよう」
なんでこいつはいちいち腹立つ返事するの! まぁそれでも、きちんと挨拶出来たから許すけど……
そんな事を思いながらいつもの自分の定位置に行き、窓の外を眺めた。
まだ日の差し込まない静かな廊下の薄暗さと、外音の心地良い喧騒。狭い中庭の奥には街を行き交う人々に馬車。今朝は雲一つない青空が広がり、何処までも突き抜けるような空が一層俺を感慨深くさせた。
これから始まる仕事という戦いを前に、この郷愁を誘うような僅かな時間を俺は好きだった。
ヒー達は今頃何をしているのだろうか。リリアと二人で朝のコーヒーでも飲んでいるのだろうか。実家では今頃、朝食を済ませた父と兄が畑に出る前のひと時を、ソファーで寛ぎながら過ごしているのだろうか。
ミズガルドに着いてまだ四日目だが、とても懐かしくなった。……それにしても、キリアが全く話し掛けてくる気配がない。アリアもまだ来ないし……意外と気マズイ! 何? キリア怒ってんの?
今まで幾度となく顔を合わし喧嘩してきたキリアだが、実際二人きりというのは初めてかもしれない。それもこんな集中力を高めなければならないという状況で。
――しばらく俺はそんなキリアを無視するように外を眺めていた。が、こういう時間はとても長く感じる! もうかなり時間は経ったと思うが、アリアはまだ来ないし、誰も出勤してくる気配がない!
そんな状況を打破するために、仕方が無いから俺から話し掛ける事にした。
「おい」
「あぁ?」
これから始まる仕事に心持良く向かうため、懸命に努力しようとする俺にキリアは不愛想に答える。
ふんっ! 所詮二流め! 仕事前のコンセントレーションは一流の証だ。それがまともに出来ないとは、キリアもまだまだだ。
「お前、なんでギルドスタッフになったんだ?」
「ああ? ……お前には関係無いだろ」
お前には関係無い? ……たしかにそうだ。キリアがギルドスタッフになろうが犯罪者になろうが、俺には関係ない。俺もただ話題が無くて適当に選んだ質問だった。俺だってキリアに同じ質問をされたら同じことを言うだろう。俺達は友達とかそういうものじゃないし、たまたまここで一緒になっただけだし……
「てんめぇ! 舐めてんのか!」
「ぁあ!」
「ぁん!」
しばらく睨み合うと、珍しくキリアの方から目を反らした。そして、何事も無かったように整列した。
えええ! こいつ新たな戦法取って来たよ! 今までは最低でも、肩をどつき合うくらいは絶対してたよ! これ超堪えるんですけど……
「…………」
キリア完全無視! 俺はこの後どうすればいいの? このまま引き下がったら俺の負け? ……こいつどんだけ陰湿な攻撃してくるの!?
「…………」
「…………」
アリア早く来て!
この絶体絶命の状況に俺の中で何かが覚醒し、画期的な対抗策が閃いた。俺は再び窓枠に手をつき、何事も無いように外を眺めた。そして、
「なぁ?」
「…………」
俺の読み通り、キリアは返事をしてこない。だが、これは俺としては完ぺきな勝利への方程式通りだ。
ここでキリアの無視を確認すると、姿勢はそのままで、一呼吸おいて勝利の一投を放った。
「お前、なんでギルドスタッフになったんだ?」
デジャヴ。そう、俺が見つけた方程式。それはデジャヴだ! これにはいくらリリアでも対抗できないだろう。
「…………」
「…………」
これも俺の読み通り。この技の凄い所はここからだ!
「なぁ?」
「…………」
「お前、なんでギルドスタッフになったんだ?」
「…………」
「なぁ?」
「…………」
「お前、なんでギルドスタッフになったんだ?」
「…………」
「なぁ?」
「…………」
「お前、なんでギルドスタッフになったんだ?」
「…………」
さすがはキリア。この猛追とも言える攻撃に微動だにしない。
「なぁ?」
「…………」
「お前、なんでギルドスタッフになったんだ?」
「…………」
ここからは根比べだ! 俺は時間が許す限り止めるつもりはない!
「なぁ?」
「…………」
「お前、なんでギルドスタッフになった……!」
肩越しに見えるキリアの頭が動いたのが分かり、その目線を追うと、廊下の陰から隠れるように俺達を見るアリアを発見した。その顔は口を半開きにして驚いたようなものだった。
アリアは俺達の視線に気付くと、すっと隠れた。
やっちまったぜ! 昨日の今日で俺は完全に頭のおかしい奴だと思われた! そりゃそうだよね。この作戦は絶対勝てると思ったけど、今思えば周りから見られたらただのイカれた人にしか見えないよね! これは全部キリアが悪い! こいつが早くツッコまないからいけないんだ!
「アリアちゃん~!」
その後、廊下の陰に隠れていたアリアを捕まえ、なんとか遊びだったという事で誤解を解いた。
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