秘恋
僕と彼女の出会いの話をしよう。
僕が彼女に初めて出会ったのは夜会のとき。僕の友人が婚約者が出来たと紹介してくれたのだ。
彼女はとても綺麗な人だった。
月のように淡く儚げに輝く金色の髪を揺らし、サファイアを嵌め込んだような目を細めて挨拶をしてくれた。にこりと微笑む顔は、いつか見た絵画の天使のようだった。
僕に挨拶をした後は絹のように滑らかな傷一つない美しい手を友人に引かれ、雪のように白い頬を薔薇色に染めて他の友人へ挨拶に行ってしまった。
僕はその時その場を動けなくなっていた。
一目惚れ、だったんだ。
世の中にあんなに美しい人がいたなんて。
だけど僕の初めての恋は始まってすぐに終わってしまった。
いや、終わらなきゃいけない恋だった。
彼女は友人の婚約者だ。
友人はとても頼りになる尊敬できるいい奴で、そして彼女のようにとても美しい男だった。二人が一緒にいるとそれだけで場が華やいだ。
とてもとても、お似合いだった。
彼女は友人の婚約者。
僕は友人の友人。
結ばれることなんてない、悲しい恋だった。
僕と彼女の学園での話をしよう。
彼女は僕と友人より2つ下で学園の後輩だった。
友人と彼女は政略的な意味合いの強い婚約を結んでいたようだったが、友人は彼女に夢中だったし彼女も友人に夢中だった。
友人は彼女が婚約者となってからはよく彼女と一緒に過ごしていた。
そしてそこに友人と仲の良かった僕をたまに混ぜてくれた。
友人は僕のことを過大評価していて、とてもいい奴なんだと彼女に話していたようで彼女はとても好意的に僕に接してくれた。あくまで友人の友人としてだけれど。
僕は決して友人の言うようないい奴なんかではない。友人の婚約者に恋するような卑しい男だ。
それでも僕は嬉しかった。
彼女と話せるのなら、なんでも構わない。
友人が話してくれたような奴でいられるように僕は頑張った。
決して彼女に自分からは話しかけず、踏み込み過ぎない。
あくまで友人の婚約者として対応する。
僕は友人と彼女と過ごすときは常にそれだけは忘れなかった。
この関係が壊れたら彼女と話せなくなってしまうから。
僕たちより幼いはずの彼女は、とても大人びた美しい女性だった。
そして彼女は淑女のお手本のような人だった。
所作は美しく、品がある。あまり表情を変えないけれど、それは淑女教育によるものだろう。
だからたまに笑う笑顔がとても綺麗だった。
大輪の花が咲き乱れるように笑うその顔が、絵に描いて飾っておきたくなるくらい好きだった。
やっぱり彼女は天使みたいだ。
だけど僕にとって彼女は天使であり悪魔だった。
こんなにも僕の心を掻き乱すのだから。
こんなにも僕を苦しめるのだから。
何度、手を伸ばしそうになっただろう。
何度、その唇に触れたくなっただろう。
何度、その体を抱きしめたくなっただろう。
そのたびに僕は苦しくなってその場から逃げ出したくなった。
友人でいることが、我慢ならなかった。
だけど僕はあくまで友人の友人でなければならない。
彼女と友人と過ごす日々は、甘くも苦い日々だった。
僕たちが卒業する時彼女は泣いていた。
寂しい、もう学園では会えないのねと。
僕はあくまで友人のおまけだろうけど、それでもそんな風に泣いてくれたのがとても嬉しかった。
この日のことは今でも僕の大切な思い出だ。
僕と僕の婚約者の話をしよう。
僕は婚約者をなかなか作れなかった。
まだ彼女が好きだったから。
なにかと理由をつけて婚約を先延ばしにしていた。
学園を卒業した後、そんな僕にもついに婚約者が出来た。
友人の婚約者である彼女と同じ歳の、小さくて可愛らしい女性。
名前はオードリー。
オードリーの家の方から持ち掛けられた婚約だった。
オードリーの家は僕の家より爵位が高い。
こちらとしては断れなかったが、断るまでもなく非常に良い条件だったようで父はこの婚約をとても喜んでいた。
僕はまだそんな気持ちにはなれなかったが、もう潮時だろうと思っていたので婚約を淡々と受け入れた。
友人たちと同じ政略的な婚約だったけれど、これから長い付き合いになるだろうと思ってにっこり笑ってオードリーに挨拶をした。
すると彼女は顔を真っ赤にして俯いてしまった。
僕はなんとなくこの女性となら上手くやっていけそうだと思って安心した。
僕たちは婚約後にデートをしたり食事をしたりして過ごすようになった。
オードリーは最初の印象と違わない、中身も可愛らしい人だった。
オードリーはいつも僕のつまらない話を楽しそうに聞いてくれてる。
僕に話してくれるのはオードリーらしい可愛らしいお話。
今日も庭の薔薇が綺麗だったとか、刺繍が上手くできたとか、そういうお話。
オードリーが話す世界は、とてもキラキラと輝いていた。
そんなオードリーが可愛かった。
だから素直にそう言うと、オードリーは嬉しそうに頬を染めた。
オードリーは普段は淑女らしく落ち着いているけれど、僕と2人きりでいるときはとても元気だ。
コロコロ表情を変えて、少し忙しないくらい。
そしてオードリーはよく笑う。なんでも楽しそうにする。
少し子供みたいな、可愛らしい人。
友人の婚約者である彼女とは正反対な人。
彼女と違うタイプであることに僕は安堵していた。
オードリーと過ごしている間、僕は彼女を忘れられるから。
ある時キスをしたら林檎みたいに真っ赤になった。
そして急に走り出したから追いかけて捕まえたら、オードリーが泣いていた。
吃驚してどうしたの?と聞いたらどうやら嬉しくて泣いてしまって顔を見られたくなかったようだ。
あんまり可愛かったからもう一度キスをしたら嬉しそうにしながら怒られた。
やっぱりオードリーは可愛い。
オードリーと過ごす時間はとても癒された。
このまま僕とオードリーは結婚するだろう。
オードリーとなら、きっと素敵な家庭を築いていけると思う。
だけど僕はオードリーにいつも申し訳なく思う。
オードリーは可愛い。僕はオードリーを確かに愛していると思う。
ただしそれは家族として。
いつでも僕の心が恋しく思うのは、友人の婚約者。
僕はまだ彼女を忘れられない。
気持ちに区切りをつけられない。
恋を、終わらせられないでいた。
だから僕はまだ、オードリーに愛を囁いたことはない。
可愛いとはよく言う。
だけど、彼女が忘れられない僕はオードリーに心から愛しているとは伝えられなかった。友人の婚約者を想っているその心でオードリーに愛を囁くことは出来なかったから。
こんな不誠実な僕と結婚するオードリーが少し可哀想だった。
愛しているのはオードリー。
だけど恋をしているのは、オードリーではなく友人の婚約者。
今はまだ話せないけれど、いつか僕のこの恋をオードリーに告白しようと思う。
僕に恋してくれているオードリーに嘘はつきたくないから。
オードリーに不誠実でいたくないから。
もしオードリーに殴られても泣かれても僕はオードリーの全てを受け入れようと思う。僕が恋をしているのは確かに友人の婚約者だけど、結婚したいのはオードリーだけだから。
もうすぐ僕の友人とその婚約者である彼女は結婚する。
僕も招待されているので2人に会うことになるだろう。
そしたら多分、この恋は終わると思う。
だから、2人の結婚式が終わったら僕はオードリーに伝えるんだ。
この許されない恋と嘘偽りないオードリーへの想いを。
僕と僕の友人の結婚式の話をしよう。
今日は僕の友人と彼女の結婚式。
仲の良かった2人はあれから順調に愛を育んで、彼女が学園を卒業すると同時に結婚式を迎えた。
本当は来年に結婚する予定だったらしいのだが、友人が早く結婚したいといって今年結婚することとなったらしい。
久しぶりに見た彼女はとても美しかった。
今までも美しい人だったけど、それに磨きがかかっている。
数少ない子供らしさを残していた体は女性らしくなっていて、もう彼女が立派な女性であることを感じさせた。
顔も大人び、美しさに妖艶さを含ませるようになっていた。
友人が結婚を急かしていたのも頷ける。
こんなに美しくなってしまった彼女を早く自分の妻にしたかったのだろう。
僕も彼女と婚約していたら友人と同じことをしていたと思う。
純白のドレスを纏う彼女は月の女神のようだった。
嬉しそうに頬を薔薇色に染め、友人と見つめ合っている。
これから結婚の誓いを立てるのだ。
誓いを立てた2人はキスをした。
唇を重ね、ゆっくりと離す。
ちくり、と胸が少しだけ痛んだ。
だけどその痛みはすぐに消えて暖かいものが込み上げてきた。
友人と彼女は、夫婦となった。
会場から大きな拍手が聞こえる。
僕も最大級の祝福を込めて拍手をした。
友人に手を握られて嬉しそうに笑う彼女は、今までで一番綺麗だった。
幸せに満ち溢れた表情からは心から喜んでいるのが分かる。
彼女はついに友人のものになったのだ。
彼女に出会ってから、僕はずっと彼女に恋をしていた。
彼女と話すたびに、彼女が微笑むたびにどんどん僕は堕ちていく。
深く深く堕ちて沈んだ先は、悲しみの海。
僕の恋が叶うことはなかった。
僕はずっと友人と彼女が恋を共有し合えることが羨ましかった。
僕の恋は独りよがりな恋だったから。
誰にも知られることのない、知られることの許されない恋だったから。
僕の恋は確かに悲しい恋だった。
辛く苦しい恋だった。
けれど僕は今、友人と彼女が結ばれて幸せになることが心から嬉しいと思える。
僕は2人が好きだ。
今後も仲良くしていけたらいいと思っている。
だからこの結婚に対しても、以前のような苦しさはなくあるのは純粋な祝福の気持ちだけ。
僕が2人に届ける言葉は、心からの祝福なのだ。
叶わなかった僕の恋は、とても穏やかに終わりを迎えた。
僕と僕の妻の話をしよう。
僕は友人たちの結婚式から帰ってからオードリーに手紙を書いた。
会って話がしたいと。
そして僕たちは会うことになった。
話をするだけじゃ寂しいから、ついでにデートに誘った。
薔薇が好きなオードリーの為に、美しい薔薇があることで有名な薔薇園へ。
オードリーはとても喜んでくれた。
そこで僕はオードリーに僕の終わりを迎えた恋を告白した。
オードリーは黙って僕の目を見て話を聞いてくれていた。
その表情は悲し気で、僕は罪悪感を感じながらも最後まで話しきった。
オードリーは泣いていた。
それはそうだろう、僕がオードリーではなくずっと別の女性を想っていたのだから悲しいはずだ。
僕はオードリーに頭を下げた。
殴ってくれても叩いてくれても構わない、君の気が済むまで僕はされるがままでいよう。僕は君にずっと不誠実でいたのだから。許されないことをしていたのだから。そうオードリーに言った。
しばらくしてもオードリーから返事がないので頭を上げてオードリーを見た。
オードリーは今も泣いている。
だけど怒るでもなく罵倒するでもなく、ただ泣いていた。
僕は自分の予想と違う状況に戸惑って彼女に声をかけたら、彼女は口を開いた。
私は以前から、知っておりました。
僕は彼女が何を言っているのかしばらく分からなかった。
だけど彼女は続ける。
きっと、貴方は優しいから。
不誠実でいるのはよくないと私に打ち明けて下さったのでしょう?
だから私も打ち明けます。
貴方がずっと別の方を想っているのは知っておりました。
だけど、それでも私は貴方をお慕いしておりました。
ずっと、貴方と婚約する前から私は貴方が好きだったのです。
学園で貴方を初めて見たとき私は貴方に恋をしてしまいました。
いつもいつも、貴方を見るたび目で追ってしまいました。
だから貴方に好いている方がいるのはすぐに分かりました。
相手がどういう方で、貴方のしている恋が報われない恋だということも。
貴方はとても素敵な人です。
貴方を好いている女性は沢山おりました。
でも何故か貴方には婚約者がおりませんでした。
きっと、あの方に恋していらっしゃったからでしょう。
だから私はお父様に貴方の婚約者にしてほしいと頼んだのです。
貴方が叶わぬ恋をしていることに付け込んで。
そして私の願いは叶い、貴方の婚約者になることができました。
愛してもらえなくてもいい、貴女のそばにいられるならそれでいい。
ずっと貴方があの方を想っていても構いません。
私はとても卑しい女です。醜い女です。
貴方に好いている方がいると知って、貴方とそれでも一緒にいたくて婚約したいと頼み込むような女です。
本当にごめんなさい、ごめんなさい。
私を嫌いになっても構いません。
卑しい女だと、醜い女だと罵って下さって構いません。
だからどうか、どうかこんな私を捨てないで下さい。
オードリーはそう言って泣いていた。
苦しそうに、嗚咽を上げながら。
突然の告白に驚いたけれど、込み上がってくるのは愛しい想い。
オードリーも、僕と同じだったのだ。
オードリーは僕に愛されなくてもいい覚悟を持って打ち明けてくれた。
嫌いになっても構わないから、捨てないで。
そんな風にオードリーに言わせてしまったことが申し訳ない。
僕と同じで、苦しい恋をしていたのだろう。
あの眩い笑顔の裏には沢山の悲しみを隠していたのだろう。
決して自分を想ってはくれない。
それでも一緒にいたい。
そんな風に思ってくれていたオードリーが、とても愛おしかった。
だから僕はこの恋を告白した後に伝えようと思っていたことを伝えた。
君を愛しています。
結婚して下さい。
オードリーは一瞬目を見開いて、また涙を流した。
僕はその涙をそっと拭い、赤くはれる目元にキスをした。
ああ、僕の婚約者はなんて愛おしいんだろう。
友人の婚約者にした恋とは違うけれど、僕は多分オードリーに恋をするだろう。
友人の妻となった彼女にしたような、燃え上がるような恋ではない。
隠さなきゃいけないような辛い恋でもない。
穏やかで、きっととても心地の良い優しい恋。
いつか夢見た、共有し合える素敵な恋を。
オードリーが僕に恋をしてくれたことが、とてもとても嬉しかった。
だから僕も君に恋をするよ、オードリー。
君となら、きっと堕ちてしまっても苦しくも悲しくもないだろう。
沈んで行く先は悲しみではなく、幸せに満ち溢れているだろうから。
そして僕たちはお互いの秘密を告白したその年のうちに結婚をした。
僕が早く結婚したいと急かしたからだ。
オードリーは僕の妻になった。
妻はたまにこの秘密を思い出して僕に言う。
私の恋は叶ったけれど、貴方の恋は悲恋のままで終わってしまったのねって。
とても悲しそうに言うんだ。
優しい優しい僕の妻。
僕の終わってしまった恋を憂いてくれる。
君が気に病む必要なんてないのにな。
今僕は彼女にした恋は、終わってよかった恋だったと思っている。
こうして新しい恋に出会うことが出来たのだから。
辛い、秘密にしなくちゃいけない恋じゃない。
堂々と愛を囁ける素敵な恋だ。
それにこんなに可愛い奥さんが出来たのだ。
何を憂うことがあるのだろう。
僕の愛が足りていないのかな?
そう言うと妻は恥ずかしそうにしながら僕の胸をぽこぽこと叩くのだ。
可愛い人。
愛しい愛しい僕の妻。
君と日々を過ごしていけることが僕はとても幸せだよ。
これが幸せではないのなら、人は何を幸せと呼ぶのだろう。
そんな風に思うくらいに、僕は妻に夢中だ。
僕の最初の恋は、確かに悲しくて苦しい恋だった。
想いを伝えることも出来ない、秘めた恋。
だけどその恋の終わりはとても穏やかで。
僕の胸に悲しみも苦しみも残してはいかなかった。
きっと、オードリーのおかげだろう。
君の笑顔が、君の僕を想う気持ちが僕の恋を優しく終わりに導いてくれたんだ。
かつての初恋は、今は綺麗な思い出として僕の胸にしまってある。
妻しか知らない終わってしまった秘密の恋。
それは僕に悲しさや苦しさを思い出させることはない。
だから僕は妻に言うんだ。
僕の初恋は悲恋ではなく、秘恋であったとね。