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「今はもう遠く」

 目の前で1人の女の子が泳いでいた。

 とても綺麗なクロールだ。

 水泳の事に関して何の知識もない僕が何を言っているんだ、って思われるかもしれない。

 でも、そんな素人の僕がそう思ってしまうくらい、楓のクロールは美しかった。

 彼女は両方の足を交互に動かして水を蹴り、両腕を交互に回して水を掻き、スイスイと進んで行く。

 もしかすると……いや、もしかしなくとも、僕なんかよりも断然早いスピードで、だ。

 きっと、いつも一緒にいるみんなに今の楓を見てもらって、今日まで泳げなかったことを伝えたとしても、誰も僕の言葉を信じてはくれないだろう。

 ましてや、つい十数分前に溺れかけたことなど夢にも思わないはずだ。


「凄い上達スピードだな。泳げないってのが本当は嘘だったんじゃないかって疑ってしまいそうになるくらいだ」


 泳ぐのを一旦やめ、海から顔を上げた楓に僕は言った。

 楓はその言葉を聞いて、ムッとした不機嫌そうな表情をして僕を睨んだ。


「そんなことよく言えるね。もしかして、もうあのことを君は忘れてしまったのかい?」


「わ、忘れるわけないだろ! 今のはただのものの例えであってだな」


 僕は慌てて与えてしまった誤解を解こうとする。

 そんな僕を見て、楓は腹を抱えて笑い出した。


「なんだよ……」


「いや、ごめんごめん。そんなに焦るとは思ってなかったからさ。大丈夫、ちゃんと分かってるよ」


 あー、それにしてもおかしい。と付け加えながら楓は手で目をこする。

 僕はそこで彼女にからかわれていることに気づいた。

 先ほどまであたふたとしていた自分を思い出し、だんだんと恥ずかしくなる。

 今もなお笑い続ける楓を見て、なんだかやり返してやりたい気分になった。


「あぁ、そうだ。忘れることなんてできるわけがないんだ。半裸同然の女の子に強く抱きしめられたのはあれが初めてだった訳だし、きっとこれから楓のことを見るたびあのことが頭に過るんだろな」


 正直、とてつもなくキモいことを言っているという自覚はある。

 ていうか恥ずい。

 すっごく恥ずい。

 そりゃあもう、今から海に飛び込んでここからかなり離れた場所まで泳いでしまいたいと思うくらいに。

 柄にもないことを言ったせいか、顔に熱が灯ってくる。

 今、僕の顔は恥ずかしさのあまり、赤色にへと染まっているのだろう。

 それがどれくらいの赤なのかは自分の顔を確かめる術がないため分からない。

 ただ、言えることが一つ。

 きっと、目の前にいる、耳まで真っ赤に染め上げてしまった少女ほど、僕の顔は赤くはないだろう、ということだけ。


「な、な…………」


 楓は言葉が出てこないのか、口をわなわなとさせ、体を小刻みに震わしていた。


「っ……ごめんっ、ちょっと魔が差したというかなんというか……」


 元々は僕が楓の手を勝手に放したのが悪かったのだ。

 本来ならば楓にいくらからかわれても文句なんて言えやしない立場。

 それなのに僕はいっときの感情でつい反撃してしまった。

 それも中々に気持ちの悪い言葉で。

 楓は開けていた口をギュッと紡ぎ、両手を海にへと突っ込む。

 僕は咄嗟に目を瞑る。

 そしてその直後、ぬるい海水が僕の顔に当たった。


「変態! 許すって言ったけどやっぱり取り消し! この……っ、バーカッ! バーカッ!」


 まだ言葉がまとまっていなかったのか、楓らしくない小学生並みの罵倒が聞こえた。

 顔についた海水を拭い、楓を見ると、彼女はいまだに頬を赤くし、ふくれっ面でそっぽを向いて僕から顔を背けていた。

 どうやらかなり怒らしてしまったらしい。


「ご、ごめん……」


 僕は急いで手を合わして頭を下げる。

 頭の中にはそんな謝罪の言葉しか出てこなかった。

 いや、あの言葉しか言えなかった、の方が正しい。

 まぁ、何を言ったところで結果なんて分かりきっていた。

 僕が頭を下げてからしばらく経ったが、楓は一言も言葉を発さない。

 僕はそっと顔を上げて楓の様子を窺う。

 そこには僕の予想通り、謝る前となんら変わり映えのない、楓の姿があった。


「そ、そうだ。みんなももう昼飯を食べ終わっている頃だろうし、海の家にそろそろ戻ろうか。楓も泳げるようになったことだしな」


 空気に耐え切れず、僕はみんなのもとに戻ろうと歩き出す。

 しかし、楓が僕の腕を掴みそれを止めた。


「待って」


「……なんでしょうか?」


「まだ……ちゃんと泳げるようになってない」


「僕は妥協点だと思うけど……」


 僕は後ろを振り返る。

 そこには顔を赤くしてふくれっ面をしていた少女の姿はなく、真剣な表情をして僕の目を見据える楓の姿があった。


「息継ぎが出来ない。このままだと少しの間しか泳げない」


 楓は真剣な表情を崩さない。

 僕はそんな彼女に対し、たじろぐことしか出来ない。

 楓は泳げるようにはなった。その言葉に嘘はない。

 しかし、彼女が先に言った通り、息継ぎが出来ないままなのだ。

 その原因は間違いなく僕にあった。


「でも、昼飯を食べ終わった誰かが来るかもしれないし……」


「別にいいよ。もうある程度は泳げるようになったしね」


「だったら」


「それとこれとは話が別さ。知り合いの前で泳げるぐらいにはなっただけで、ボクが目指しているところまではいけてない」


「初めの方に少しだけでもいいからとか、泳げなかったとしても僕のことは責めないって言っていた気が……」


「その言葉は陸が手を放したあの件でなかったことになったから」


「む、無茶苦茶だ……」


 僕はこうべを垂れて項垂れる。

 それにしても、この会話の間に何度僕は楓から視線を逸らしただろう。

 きっと5回以上は逸らした。

 そんな視線が泳ぎまくっていた僕とは違って楓はずっと僕の方を見ていた。

 彼女の方に視線を戻す度に目が合った。

 それが、楓がずっと僕の方を見ていた確証に他ならない。

 彼女はやると決めたら絶対にやり遂げようとする、強い意志を持つ人だ。

 この4カ月の付き合いで、僕はそれを十分に知っている。

 こうなって仕舞えば彼女は絶対に引き下がらない。


「それに、陸はボクに対してセクハラまがいの発言をしたわけであって……」


 言葉を発している最中に、例の僕のセクハラまがい発言を思い出したのだろう。

 彼女は顔を再び赤にして、やっと僕から目を逸らした。


「あーあっ、あれは傷ついたなぁ」


 なんとも彼女にしては珍しいバレバレの演技だった。

 ……いや、傷ついたのは本当かもしれないけど、そこまで傷ついた感がなかったというかなんというか…………。

 まぁ、なんにせよ、その言葉が最後のとどめとなったのは確かだ。

 それを言われてしまえば僕は何も言い返せない。

 ただ僕をからかっていた楓に対して、僕は彼女にセクハラをかましてしまった。

 この罪はあまりにも大きすぎた。


「分かった。最後まで付き合うよ……」


 僕は溜息を吐く。

 そりゃあ、僕だって教えることが出来るなら教えてあげたいと思っている。

 でも、それが出来ない理由があるのだ。

 原因は先ほども言った通り、僕にあった。

 時間は数分前に遡る。





 楓はまるで乾いたスポンジが水を吸うかの如く、どんどん僕の言葉を吸収し、めきめきと泳げるようになっていった。

 ものの十数分で僕よりも早く泳げるようになるくらいに。

 楓は物覚えが良く、コツさえ掴めればなんでもすぐに出来るようになった。

 しかし、問題はクロールを泳げるようになってから発生した。

 それまで、なんでも一発でこなしてきた楓が息継ぎを失敗したのだ。

 もちろん僕は息継ぎの仕方を説明はした。


「腕を上げるタイミングで息継ぎをする。顔を水面よりも高い位置に上げること」


 楓はその説明に対してだけ首を傾げ、疑問を口にした。


「なんだか今までの説明と違って大雑把すぎやしないかい? 今までのはこういうイメージでとか、こういったことを意識してとか、細かかったのに……」


 楓のその疑問は的を射ていた。

 僕の今までの説明は記憶の中にあるスイミングスクールの先生の言葉をなぞったものだった。

 息継ぎの仕方もその例に当てはまる。

 しかし、決定的な違いもあった。

 それは、息継ぎの仕方だけ別の先生から教えてもらったということ。

 僕がクロールを出来るようになった頃、担当の先生が変わった。

 それまで教えてくれた先生の説明は細かく、馬鹿な僕でも理解できるように何かに例えてくれた。

 だが、次の先生は大雑把で、そこまで熱心に指導してくれる人ではなかった。

 そして、当時小学6年生だった僕も息継ぎが出来なくて、長い間苦しむ事になった。





「さてと……どうするかなぁ……」


 頭を掻きながら考える。

 最後まで付き合うとは言ったものの、僕にはもう教えられる事はなかった。

 記憶の中にある出せるものは全て出し尽くしてしまった。

 他に何か教えることが出来るものがあるとすれば……それは忘れてしまった記憶の中にあるものだろう。

 現に僕が普通に泳げているということは何かがあった筈なんだ。

 息継ぎが出来るようになったきっかけ。

 誰かからコツのようなものを教えてもらった、もしくは僕自身が何かに気付いたとか、そういった出来事がきっとあった筈。

 そのどちらかさえ、思い出すことが出来れば……。

 僕は目を瞑り、泳げなかった当時を思い返す。

 僕自身が何かに気付いた可能性はかなり低い。

 忘れていて記憶にもないということは、誰かにコツのようなものを教えてもらった可能性の方が充分にある。

 

「なんだったかな……息継ぎのコツ……確かあったはずなんだけど……」


「息継ぎのコツは横を見るように首を動かすこと。顔を上にあげようとはしてはいけません」


 心臓が飛び出しそうになりながら僕と楓は同時に同じ方向を向いた。

 いつの間にそこにいたのか、僕の隣には薊がいた。

 思い出すことに集中し過ぎていたからか、彼女の存在にこれっぽっちも気が付かなかった。


「えっと……息継ぎのコツですよね……?」


 僕と楓が勢いよく向いた為か、おずおずとした様子で薊は言った。

 それに対して僕たちは頷く。


「あ、あのさ、いきなりの事でびっくりしちゃって、よく聞けてなかったからもう一回教えてもらえないかな?」


 楓のそのお願いに、薊は「いいですよ」っと笑顔で応えた。


「息継ぎのコツは横を見るように首を動かすこと。顔を上にあげようとはしてはいけません」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の鼓動が一瞬跳ね上がったのが分かった。

 薊が言ったあの言葉を僕はどこかで聞いた事があった。

 いや、どこかで聞いたことがある、とかそんな軽いものではない。

 その言葉は――


「陸?」


 楓に名前を呼ばれハッと我に帰る。

 目の前で楓と薊が心配そうな顔をして、僕のことを見ていた。


「ちょっと考え事をしてて、ぼんやりしてた。もしかして何か話してた?」


「いや、そうじゃないんだけど……」


 楓はそう言って薊と顔を見合わせる。

 彼女たちは何かを確認しあったのか、1度頷き合うと再び僕の方を向いた。

 そして薊はこう言った。


「なんで泣いてるん?」


「……え?」

 

 泣いている自覚のない僕は急いで目元を手で拭った。

 確かに濡れてはいるが、それが少し前に楓にかけられた海水なのか、僕の涙なのかの判別は出来ない。

 だけど2人が泣いているように見えたというのだから、僕は泣いていたのだろう。


「あぁ、大丈夫。なんでもないから。風で飛んできた砂が目に入ってきただけで……」


 僕は泣いてる理由を適当に誤魔化した。

 2人はどこか納得のいってない表情をしながらも、「そう……」とだけ言うと、再び2人で息継ぎの仕方についての会話を始める。

 泣いているという自覚は一切なかったが……泣いていた理由には思い当たる節があった。

 僕がある事を思い出したからだろう。

 薊が言ったあの言葉。

 あれは、僕が息継ぎが出来るようになったきっかけの言葉だ。

 まぁ、それを思い出したからって泣くほどの事ではないと自分でも思うけど……何故か涙が勝手に出てしまった。


 ……あれ? そういえばあの言葉って誰に教えてもらったんだっけ?  

 

 突如、胸にふって湧いた違和感。

 あの言葉を言った薊なら知っているかも、そう思いながら僕は彼女を見る。

 薊も僕に何かを言おうとしていたのか、ちょうど彼女と目が合った。

 しかし、薊は驚いたような表情をし、頰を少し赤くして合った目をすぐに逸らした。

 僕はその動作が意味することをすぐに理解し、ある事を思い出す。

 薊にもセクハラまがいの発言をしてしまっていて、彼女から避けられていたという事を……。


「あ、あの――」


「待って!」


 薊は僕の言葉を急いで遮る。

 そのあまりの勢いに僕は反射的に口を紡いだ。


「ご、ごめん、違うんよ。その、もうウチは気にしてないけん大丈夫。冬木君からちゃんと教えてもらったけん」


 薊は僕の目を見てそう言うと、握り締めた両手を胸の前に持ってきて、分かってますよとアピールをした。

 なんだろう……なんだか嫌な予感がする。


「教えてもらったって……何を?」


「ユキが小さい胸が好きってこと」


 ピシッという音がどこからか聞こえた。

 息を大きく吸い、空を仰ぐ。

 今までに味わった事のない、なんとも言葉に言い表せない感情が僕の胸を埋める。

 僕がいない間に何を言っているんだあいつは……。

 いや、僕の事を思ってやってくれてるのは分かってるんだけどさ……。


「その……ユキって結構特殊なんやね。あっ、いや、男の人がみんな大きいのが好きってわけではないって事は分かっとるんやけども……」


 薊は苦笑に近い笑顔を見せながら僕に言った。

 別にこれといった拘りがあるから胸が小さいのが好きというわけではなくて、大きいと意識してしまうからで……。そう言ってしまいそうになるも、それをすぐに飲み込み、乾いた笑いだけを薊にへと返す。

 せっかくとけたわだかまりがこれを言うとまた出来てしまうのは流石の僕でも分かったからだ。

 

「彩芽君、まだかい?」


 僕たちから少し離れた場所に立っている楓が僕たちに向け言った。

 それを聞いた薊は何かを思い出したのか、あっ、と声を上げて僕の方を向き直す。


「ユキにお願いがあって、あの辺りに立っといて欲しいんやけど」


 そう言って薊が指差した先は、ここから数十メートルは離れた場所だった。

 なんで? と僕が言う前に薊が先に説明を始める。


「感覚的に多分あそこらいが25メートルぐらいやと思うけん、ゴールの役割をしてもらいたいなぁ思って」


「あぁ、そういうことなら喜んで」


 そう言って僕は、薊が指を指していた地点に泳いで移動する。

 移動し終わって楓の方に視線を移すと、僕がバタ足を教えた時と同じように、楓は薊の手を掴み、海面から顔を上げた状態で体を浮かばせていた。

 そして何やら薊と会話を交わした後、楓は顔を水の中につけ、バタ足はせずにクロールの動きを始める。

 どうやら息継ぎの練習をしているらしい。

 遠くだからかはっきりとは見えないが、楓が息継ぎをしている様子が窺える。

 数回の練習が終わったあと、楓は浮かばせていた体を戻し、2人は僕の方にへと向いた。

 薊が手を挙げて僕に合図を送る。

 それに対し、僕も手を挙げて応える。

 そして楓は、僕の方に向かって泳ぎ始めた。

 手で水を掻き分け、足で水を蹴り、僕との距離を詰める。

 ここまでは完璧……あとは息継ぎが出来るかどうか……。

 僕がそう思った直後、楓は息継ぎをした。

 今までならば口に水が入り止まっていたのだが、今回は綺麗な泳ぎを継続していた。

 2回目の息継ぎ。それでも美しいフォームは崩れない。

 それは、息継ぎが出来ているなによりの証拠だった。

 しかし、今までに泳いだ事のない距離を泳ぐ事に対する緊張からか、息継ぎの回数が多くなっている。

 美しいフォームもだんだんと崩れつつある。

 それでも頑張って泳いでいる楓を見て、僕はまた何かを思い出しそうになっていた。

 泳げなかった人が僕の方に向かって一生懸命泳いでいるこの光景。

 僕はこの光景を知っている。

 1人で頑張らないといけない時は必ずある。

 誰の手も借りることが出来ないそんな状況。

 それを僕はただ見守ることしか出来ない。

 僕はあの時――


「が、頑張れっ!」


 そんな言葉を僕は叫んでいた。

 出せる限りの精一杯の声。

 しかし、今、一生懸命泳いでいる楓にはきっとこの言葉は届いていない。


「もう少しだ! 頑張れ!」


 それでも僕は声を出し続けた。

 無意味な事なのかもしれない。

 僕が声を張り上げ応援したところで、何も変わらないのかもしれない。

 ただの自己満足と言われればそれまでだ。

 だけど僕は、何もしない、を選択したくはなかった。


「頑張れ!」

 

 楓の体が僕の体に触れた。

 その瞬間、彼女は泳ぐのをやめてすぐに立ち上がった。

 息が上がっている楓と目が合う。


「で、出来た! ねぇ、出来てたよね⁈」


 楓は興奮気味に僕の体を揺さぶる。

 僕は何度も首を縦に振った。

 それを見た楓は僕から手を放して、ぎゅーっと力を溜めるように体を縮こまらせる。


「やったあっ!」


 楓は両手を上に挙げ、嬉しそうに笑った。

 そんな彼女を見て、僕もつい微笑んでしまう。


「あぁ、良かった……」


 ボソッと呟くように溢れ出た僕のその言葉に楓は俊敏に反応した。

 

「どうした?」


 驚き顔をいきなり見せられた僕は戸惑いながら楓に言う。

 彼女は口をきゅっと閉じ、上目遣いで僕の顔をじっと見つめた。

 何か言いたいことがあるがそれを必死に堪えているような、そんな彼女の表情に僕は更に戸惑ってしまう。


「か、かえ――」


 僕は楓の名前を言い切ることが出来なかった。

 言い終わるよりも前に、彼女が僕を強く抱きしめたからだ。


「わ、わっ⁈ えっ⁈」


 僕は完全にパニックに陥っていた。

 いきなりの予期せぬ事態に対して頭が完全に置いてけぼりをくらっている。

  

「ありがとう……」


 僕の胸で、弱々しく楓がそう呟いた。

 その声は少々涙まじりだった。

 その言葉で僕は少しだけ冷静さを取り戻す。


「いや、息継ぎの仕方なら薊から教えてもらったんだから、僕なんかよりもそっちに御礼を言わないと……」


「うん……でも、陸も泳ぎ方色々と教えてくれたから……。それにね。ちゃんと届いてたよ……」


「えっ……ちゃんと届いてたってまさか……」


「頑張れー……って、こっちが恥ずかしくなってしまうくらい大きい声でさ……」


 楓は僕を抱きしめたまま顔を上げる。


「絶対に泳ぎきるぞ、って思えたんだ。あの力強い声援が、ボクを後押ししてくれた」


 涙を溢れさせながら楓は笑顔を見せた。

 楓の言葉に、彼女のその表情に、僕の胸は一度大きく高鳴った。


「ありがとう」


 今度の御礼の言葉は先ほどとは違ってはっきりとしたものだった。

 なんだか照れ臭くなった僕は横を向く。


「あっ」


 つい、そんな声が出てしまった。

 移した視線の先に、またもやいつのまにいたのか、ニコニコと満面の笑みで立っている薊がいたからだ。


「ちょ、楓。横……」


「横……うわぁっ⁈」


 薊に気付いた楓は咄嗟に僕の体を突き飛ばすように跳ね除けながら、彼女自身も大きく後退した。


「違うんだ! これは勢い余ってなんというか……! そう! ボクは今日まで泳ぐことが出来なかったから感動し過ぎてつい近くの物に抱きついてしまった訳で……」


 楓は煙が出るのではないかと思うほど顔を真っ赤にして、身振り手振りを使って必死になりながら弁明をする。

 あまりに焦りすぎているためか、隠そうとしていた泳げなかった事を自白している始末だ。


「えぇ、その気持ち凄く分かります。言葉では言い表せ切れないくらい、嬉しいですものね」


 薊は深く頷くと、僕の方にへと優しい微笑みを向けた。

 僕はその微笑みが何を意図しているのか分からなかったが、とりあえず微笑み返す。


「それにしても流石水泳部だな。ありがとう、助かったよ」


 僕の礼に対し、薊はそんな事ないよと謙遜した態度を振る舞う。

 そんな彼女を見ていて、僕は先ほど聞けなかったある事を何故か不意に思い出し、聞くことにした。


「そういえば、あの息継ぎのコツって誰に教えてもらったんだ?」


 その言葉を僕が言った瞬間、今まで微笑んでいた薊の表情は変わり、困ったような表情を見せた。


「あれは――」


 彼女はそこで言葉を止め、何か物思いにふける。


「薊?」


 僕が名前を呼ぶと、彼女は我に帰った反応を見せ、軽く息を吐き、首を横にへと振った。


「ごめん……ウチも忘れちゃた」


 薊はそう言うと、少し寂し気に笑ったのだった。

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