「カナヅチ」
茶色いソースの跡がこびりついている空の皿。
僕はそれを見ながら大盛りにすれば良かった、と数分前に並盛りの焼きそばを注文してしまった自分を恨んでいた。
腹八分目という言葉があるが、今がまさにその具合だ。
問題は満腹度ではない。
今はみんなと海の家で昼ご飯を食べている最中。僕だけが早く食べ終わってしまい暇を持て余しているという事だ。
みんなの前には半分以上も残っているたこ焼きやお好み焼き、カレーライスなどが並んでいる。
焼きそばを食べ終わったあと、ちらほらとは周りに話をかけていたのだが……次第に僕が話しかける事によっていちいち食事を中断させるのはなんだか申し訳ないな、と思ってしまい僕は話しかけるのをやめた。
そうして今、僕はこうして目の前にある空の皿を眺める事に徹しているという訳だ。
うーん、たかがプラス百円くらいケチケチせずに払っておけば……いや、百円はたかがじゃないな。それに明日は祭りもあるし少しでも節約しないといけないから……うん、これで良かったんだ。
そんな事を自分に言い聞かせ、僕は気付かれない様に左隣を横目で見る。
そこには大盛りの塩焼きそばを黙々と食べ続ける晴矢の姿が。
「そんな物欲しそうな目で見てもやらねぇからな」
視線を感じとったのか、晴矢は焼きそばを箸で持ち上げながら僕の方を見ずに言った。
「べ、別に! もうお腹いっぱいだからいらないし!」
僕は思ってもなかった事を言われた為、反射的にそう返してしまった。
「えっ?」
真正面から聞こえた声。
声がした方を見ると、目の前に座っている瑞稀さんと目が合った。
彼女は両手で持っていた3分の1程しか食べていないお好み焼きの乗っているお皿を申し訳なさそうに、そっと元の場所に戻した。
もしかして……くれようとしたのか?
「あの、さっ――」
「瑞稀さん、食べ切れないのであれば私が食べますよ」
晴矢に言ってしまった言葉を取り消そうとしたが間に合わず、橘が先に食い気味で瑞稀さんに声をかけた。
「牡丹ちゃんありがとう。半分あげるね」
「いえいえ! こちらこそありがとうございます!」
瑞稀さんは半分に切ったお好み焼きを小皿に移して橘にへと渡す。
これで量的に瑞稀さんからお好み焼きを分けて貰う訳にもいかなくなってしまった。
かといって橘に貰った分を分けてくれと言うのも絶対に嫌だし、もし仮に分けてくれと言ったとしても、きっと彼女は「嫌です」と言って確実に断るはずだ。
橘は食べるペースこそ遅いが、胃の許容量は僕よりも多い。
彼女と一緒に暮らしている僕はそのことを充分に理解している。
あと食い意地が張っていることも。
僕は誰が1番食べ進めているかを見るため、視線を他にへと移す。
左斜め前に座っている薊と目が合った。
僕が胸の事をどうこう言ったのを引きずっているのか、彼女はラーメンを食べる手を止め、ドギマギとした表情をしながら僕から目を逸らした。
あの後から薊とは一切話していない。
時折目が合うが、全て今の様な反応を返されるだけ。
……訂正。今回に至っては片腕で胸を隠すような仕草ありというオマケ付き。
ただ目を逸らされるだけで心が傷むというのに、その仕草が僕の心に更なる追い打ちをかけた。
まぁ、悪いのは僕なんだけど……。
なんだか居た堪れない気持ちになってきたのとトイレに行きたくなったため、僕は1人席を立つ。
席を立った瞬間、向かいの側の端に座っている楓が目に入った。
彼女は席を立った僕を見るなり、カレーライスを食べるペースを早めた。
急かすつもりなんてなかったし、自分のペースで食べてくれて構わないんだけどな……。
そうは思いながらも距離が離れていたのもあって、僕は何も言わず海の家を出た。
用を済まして海の家に戻ると、店の前で佇む楓の姿があった。
何やらそわそわとした様子で辺りを見回している。
もしかして、何も言わずに出て行った僕を探しているのだろうか?
そう思った時、ちょうど楓と目が合った。
やはり僕を探していたようで、彼女は僕の元に小走りで走り寄る。
そして、僕の真正面まで来ると、楓は海の家の方をちらりと確認し、すぐにこちらにへと顔を向けた。
「もう陸はご飯を食べ終わってる……よね?」
「あぁ、食べ終わってるけど」
「あのさ……林間学校の川遊びの時にボクが言ったこと覚えてる?」
「林間学校の川遊びの時……」
僕は3ヶ月前の林間学校の記憶を呼び起こす。
もうあれから3ヶ月も経ったのかというしみじみとした感情が湧き上がったが、それはさておき僕はある事を思い出した。
「あー……そういえば川遊びの時、僕に泳ぎを教えてくれって言ってたっけ」
僕がそう言うと、楓はパッと明るい表情を見せ頷いた。
確かあの時は、彼女に泳ぎを教えようとした瞬間にA組の男子に気絶させられたから結局は教えられずじまいだった。
「えっと……なんだ? つまりは今から泳ぎを教えろってことか?」
「そういうこと。今はみんな昼ご飯を食べているからさ。その間だけでも教えて貰えないかなぁ、ってね」
楓はそう言ってから「お願い」と付け加えて両手を合わした。
僕は海を見る。
先程入った感覚だと波はそこまで強くはなかったし、浅瀬の方でなら教えることが出来るかもしれない。
「分かった。時間も限られてるし、急ごうか」
僕はそう言って楓の前に手を差し出す。
楓はそんな僕を見て「うん」と返事をし、嬉しそうに微笑みながら僕の手をとった。
海水が腰の辺りまで浸かる浅瀬に僕と楓はやってきた。
脱衣所や海の家から少しばかり離れた場所だからか周りにはほとんど人がいない。
人が沢山いるところで練習をするのも周りの迷惑になり、楓も泳ぎを教えて貰っているのを見られるのは恥ずかしいと思うかもしれない、という配慮からこの場所を選んだ。
「さあって、どうするかな……」
泳ぎを教えると言ったものの、僕はこれといった水泳の知識もないただの素人だ。
しかも4年前まではほとんど泳げなかった人間だ。
泳げる様になったきっかけも覚えていないし、今も感覚だけで泳いでいる。
正直、これほど泳ぎを教えるのに向いていない人間も中々いないのではないか、というくらいに僕は不適任者である自覚はあった。
「あの……ここまで来ておいて言うのもなんだけどさ、なんで僕なんだ? 泳ぎなら水泳部の薊とかに教えて貰えばいいんじゃ……」
色々と考えている内に自信がなくなり、僕は楓にそう質問した。
林間学校の時、薊も元々は泳げなかったと言っていたし、もしそうじゃなかったとしても彼女は現水泳部なのだから絶対に僕なんかよりも泳ぎを教える適任者に向いている。
「それは……カナヅチだって知られるのが恥ずかしいから……」
楓は伏し目がちにそう言った。
「薊はその事を絶対に馬鹿にはしないさ」
「人がどう思うかとかじゃなくて、ボクの気持ちの問題なんだ。ボクが泳げないことを陸は既に知っているから大丈夫だけどさ……」
「そうか……。あと、これも言っちゃなんだが、別に無理に泳げる様になろうとしなくてもいいんじゃないか? 僕らの歳で泳げない人なんて沢山いるだろうし、恥ずかしいからって理由で泳げるようなろうとするのもなんだか違うと思うし」
「それは違うよ」
楓は僕の目を見てハッキリと言った。
強い意志を感じる透き通った目を彼女はしていた。
「確かに泳げないのが恥ずかしいって気持ちもあるよ。でもね、ボクが泳げるようになりたいってのはもっと別の理由があるんだ。林間学校の登山の時、陸は泳げないボクの代わりに、足を怪我しているにも関わらずネックレスを探すために川に飛び込んだだろ。ボクはそれをただ見ていることしか出来なかった。もうあんな思いはしたくないんだよ。誰かに何かあった時、困っている人がいた時にボクも力になれるようになりたい。少しでもいいからボクは泳げるようになりたいんだ……」
楓はそう言ってから僕から目を逸らして、しゅんっとした悲しげな表情を見せる。
僕はそこでやっと、自分がなんて無粋な真似をしていたかということに気付いた。
「悪い。教えるとか言っておきながら色々と言ってすまなかった。僕が出来ることはなんだってする。泳げるようになるかは保証できないけど……」
僕がそう言うと再び楓の顔が灯りを灯したようにパッと明るくなった。
「ありがとう。もし泳げなかったとしても、ボクは陸を責めたりはしないよ。だから泳ぎ方を教えて」
楓は笑顔で言った。
その言葉に僕の気持ちは少しだけ軽くなる。
「まずは……そうだな。楓はどのくらい泳げるんだ?」
「どのくらい?」
「4、5メートルは泳げるとか。バタ足でなら泳げるとか」
「えっと……申し訳ないけど全く……」
「全くか……水に顔はつけれるか?」
「え? もしかして馬鹿にしてる?」
どうやら楓を勘違いさせてしまったらしく、彼女はムッとした不機嫌そうな顔を見せる。
「あぁ、いや。今のは言い方が悪かったな。水が怖いかどうかを聞きたかったんだ。水に対して恐怖心がないのであれば、すぐに泳げるようにはなると思うんだけど……」
僕の言葉に納得したのか、楓は不機嫌そうな顔をすぐに戻した。
「顔は付けれるけど、水は少し怖いかな」
「そうか。まぁ、やらないことには始まらないし、とりあえず初歩的なことからやっていくか。まずは体を浮かす練習……かな? 体の力を抜いて、息を大きく吸え。そして顔を水につけたら顎を引いて。それだけで体は浮くから」
記憶にあるスイミングスクール先生の言葉を借りて、僕が実際に先にやってみせる。
大きく息を吸い、海に顔を付け、全身を脱力させてクラゲのように体を浮かす。
そしてそれを数秘続けたあと、僕は海から顔を上げて地に足をつけた。
「ほらっ、こんな風に。次は楓の番だ」
僕がそう言うと楓の顔が若干だが強張ったのが分かった。
先程彼女は少しだけ水が怖いと言ったが、どうやら本当は水に対してかなりの恐怖心を抱いているのかもしれない。
「大丈夫。片方の手を掴んでおくから」
僕がそう言うと、楓の表情は少し和らいだ。
彼女はコクリと頷くと僕の出した右の手のひらに右手を重ねた。
その手を僕は軽く握る。
そして楓は先程僕がやって見せたことと同じ事をやって見せた。
「今の感覚分かったか?」
立ち上がり、顔の水を腕で拭う楓に僕は聞いた。
それに対し、楓は頷く。
「あとは簡単。泳ぐ姿勢をとって足を動かしたり腕を動かせばいいだけだ。そうすれば泳げるようにはなる……はず……」
「なんでそこで弱気になるのさ」
「だって、それで簡単に泳げれば誰もが苦労はしないだろうなぁ……って思って」
僕は分かっていた。
頭が理解していても体が言うことを聞かないことがある。
1人でやることによる恐怖心や、体を動かそうと力んでしまい沈む、なんてことはよくある話。
実際、昔の自分がそうだったからだ。
楓は難なく体を浮かすことには成功したが、それは僕の補助ありの状態で、だ。
1人でやればどうなるかは分からない。
「まぁ、そういう暗い顔しないでさ。とりあえずやってみようよ」
「あぁ、そうだな。それじゃあ次は、片方の手の甲にもう一方の手を重ねて僕の方に出してくれ」
楓は言われた通りに手を重ねて、僕にへと差し出す。
その出さられた手を僕は両手で軽く掴んだ。
「さっきの要領で体を浮かしてくれ。顔は付けなくていい」
「こう?」
楓は顔を海面から上げた状態で体を浮かした。
「そうだ。その状態で足を動かしてくれ。膝は曲げずに太ももの付け根から一本の棒を動かすように意識して。上下の振り幅は小さく小刻みに」
楓は僕に言われた通りにバタ足を始める。
その動きに合わせて僕は少しずつ後ろにへと下がる。
全く泳げない人とは思えないくらい綺麗なバタ足だった。
楓が海面を蹴る毎にテンポ良く小さな水飛沫があがる。
膝も曲がっていないし姿勢もいい。
「この状態で顔を付けて。顎を引くのも忘れるなよ」
楓は「うん」と返事をし顔を海の中へ。
誰がどう見たって今の楓はバタ足で泳いでいるように見えるとこまでやってきた。
あとは僕の補助がなければ完璧だ。
僕はそう思い、楓の手にほぼ添えているに等しい自分の両手を見つめる。
「楓! 聞こえてるか!」
僕は水の中にいる楓に聞こえるように大声を出した。
しかし、聞こえていないのか、はたまた反応する余裕がないのか、彼女は顔を海水につけたままバタ足を続けている。
「手離すぞ!」
その言葉にも楓は何の反応も示さない。
どうしようか? と脳内に迷いが生じる。
一旦、止めてから……でも、今の状態はほぼ泳げていると言っても過言ではない状態だし……。
僕は悩みに悩んだ末、手を離す事に決めた。
「わっ……! あっ!」
急に手を離された楓はパニックになり、海中をもがきながら沈む。
「楓⁈」
僕は咄嗟に楓の腕を掴み、そのまま自分のもとにへと引き寄せた。
「楓! 大じょう――うわぁ⁈」
僕はあまりの驚きに叫び声を上げてしまった。
楓がしがみつく様に僕の肩にへと両腕を回し、両足を僕の腰にへとホールドさせたからだ。
裸の上半身にへと楓の生温かい柔らかな体が全面に押し付けられる。
あまりの混乱に頭の中が真っ白になっていく。
「急に離すなよっ! バカァッ!」
耳元で出された楓の怒声。
その声に持っていかれそうになっていた意識がハッと我に帰った。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。心の底からこれでもかってぐらい反省してるんで、とりあえず離れて下さいお願いします」
僕は早口でスラスラとそんな言葉を述べた。
そして、頭の中ですぐに無という言葉を連呼し始める。
今上半身に意識を持っていけば色々とマズイことに……。
しかし、そんな僕の思いとは裏腹に楓の抱き締める力は強まる。
「ちょっ⁈ 楓はん⁈」
「やだ……」
楓は弱々しい声でぼそっと言った。
「ここだと絶対に足がつかない……」
楓のその言葉で僕は気付く。
いつのまにか水位は僕の胸上辺りまであった。
移動している間に少し深いところまで来てしまっていたらしい。
僕はすぐに楓が立ち上がれるくらいの浅瀬にへと移動する。
「ここなら大丈夫だから」
「…………絶対?」
「うん。絶対に大丈夫」
そこでようやく僕は楓が小刻みに震えていることに気付いた。
彼女は腕で僕を抱きしめたまま、ホールドさせていた足を緩めて僕の体から下ろす。
「その……本当にごめん……。ただ、驚かそうとか怖がらせてやろうとかそういった悪気は一切なかったんだ。……こんな事を言ったところで僕がやった事が悪い事には変わりないんだけどさ……」
楓は僕を抱きしめたまま顔を上げない。
「楓……」
「…………よ」
楓が何かを言った。
しかし、その声は嗚咽混じりで良く聞き取れない。
「今なんて?」
「……いいよ。陸に悪意とかそういったものがなかった事は充分に分かってる。きっとあれもボクの為を思ってやってくれたんだよね。ただね……」
楓はそこで言葉を止め、抱きしめていた腕を解き、僕の胸から顔を離した。
「か、楓さん……?」
未だに顔を上げず、プルプルと体を震わせて異様な空気を放つ楓に気圧され、僕はおずおずといった調子で彼女に呼びかけた。
「陸のせいで誰にも見せた事がないようなあんなみっともない姿を見られたし、それに、こんなほぼ裸の状態で抱きつかせるとか、そんなはしたない行為をさせた事、ボクは絶対に忘れないから……。ボクが泳げるようになるまで絶対に付き合ってもらうからね……」
そう言って上げた楓の顔は真っ赤に染まり、羞恥と怒りが露わになっている。
涙を貯めに貯めた目で凄まれ、僕の頭の中には「はい」という一言以外の全てが消え失せてしまっていた。




