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「変わりつつある心」

 雨が降っている。

 僕はエアコンの効いた部屋で、窓ガラスや屋根に当たる雨粒の音を聞きながら真っ白な天井をなんとなく眺めていた。

 やる事が何一つないのだ。

 今は8月の上旬。

 夏休みに入って2週間が経とうとしていたが、この2週間はこれといってする事がなく、たまに晴矢やはっちゃんと遊んだくらいだったので夏休みの課題を全て終わらしてしまった。

 外に出ようと少しは考えたが、これといった目的もないのに雨の中を歩くのは馬鹿げていると思ってしまい、僕はこうして自分のベッドに仰向けになり天井を仰いでいる。

 

 気が付けば高校生活1年目の3分の1が終わっていた。

 つまりそれは僕の余命1年の3分の1が終わったのと同じことを意味している。

 あと8ヶ月で僕は死ぬ。

 それなのに僕は未だに焦りを感じていない。

 まるで人ごとの様に感じている自分がいるのだ。

 初めて余命を知った頃もそう感じていた。

 そこに今も変化はない。

 だが、変わった事もある。

 自分の事を人ごと感じている、そんな自分自身に対する気持ちだ。

 初めは他人事に思っている自分自身にさえ、これといった感情は湧かなかった。

 きっと、当初は自分のことなんてどうでもいい、とそんな事を思っていたからだ。

 だけど今は違う。

 あれから4ヶ月が経ち、色々な事があって、様々なことに気付かされた。

 それらが僕に明らかな変化を与えたのは言うまでもないだろう。

 僕は自分の事を人ごとの様に感じている自分自身が……少しだけ怖いと思った……。


「またそうやってご飯を食べたあとにすぐごろごろして……牛になっちゃいますよ」


 橘は部屋に入ってくるなり、ベッドに仰向けになっている僕を見て言った。


「そんな事を言う奴は今日び中々見ないな」


「なんです? もしかして今、私のことを古臭いって馬鹿にしました?」


「してねぇよ。よくそんな言葉を知ってるなって思っただけさ」


「ふーん……あれ? やっぱり馬鹿にされてるような……」


 橘は腑に落ちないといった顔をしながら、棚から夏休みの課題を取り出して机の上に広げた。

 雨粒の音しかなかった部屋に紙に擦れるシャーペンの音が加わる。

 僕は橘の方を見るのを止め、再び視線を天井にへと戻した。

 部屋の中が2人になろうとも、1人であった時となんら変わらない時間が流れて行く。


「全然焦ってないですね」


 数分の間何も喋らなかった橘が急に会話を切り出した。

 いや、会話を切り出したというよりも、独り言のように呟いたと言った方が正しい。

 頭に出た言葉がつい口からこぼれ出た、というような感じの声だった。

 口に出してしまった自覚がないのか、現に橘は黙々と課題に取り組んでいる。

 しかし、先程の言葉が僕に投げかけてのものかもしれないという疑念も捨てきれない。

 無視をされたと思われるのが嫌だったため、僕は先程の言葉対し今更ながらだが返事をすることにした。


「そりゃあどこぞの誰かさんと違って毎日コツコツとやっていたからな。もう課題の方は全て終わってる。まぁ、仮に終わってなかったとしても夏休みは半分以上残ってるし、まだ焦る時期でもないと思うけど……」


「その話じゃないです」


 橘は少し強めの口調で言った。

 僕が橘の方を向くと、彼女は課題をする手を止め、少し怒っているような、少し悲しんでいるような、そんな複雑な感情が混じり合った顔をこちらにへと向けていた。

 その表情を見て僕は彼女が何を言わんとしようとしているかを理解した。


「残りの寿命……か……。 確かに焦りは感じてない。だけどさ、いくら焦ったところで寿命が延びる訳でもないし、だったらいつも通りに過ごした方が有意義だろ」


「そうですけどそうじゃないです!」


「じゃあどういうことだよ?」


「私が言っているのは本来の目的に対してですっ!」


 橘は片手で机を数回叩きながら怒りを露わにし、空いてる方の手の人差し指で僕の方を指差した。


「本来の目的? ……あぁ、瑞稀さんに想いを伝える、か」


「そうです! っていうかなんですかその今思い出したかのような反応は! もう3分の1が終わったんですよ! この4ヶ月でどのくらい仲が進展したか言ってみてくださいよ!」


「瑞稀さんの名前を苗字呼びではなく、下の名前で呼ぶようになったくらいだけど……」


「ほらぁ、全然進展してないじゃないですか! しかもそこに至ったのって2ヶ月ぐらい前ですよね⁈ この2カ月間何やってたんですか⁈ 陸さんの寿命はあと8ヶ月しかないんですよ⁈ どうせこの夏休みだって、3日後にみんなで行く海とその次の日にある隣街の花火大会ぐらいしか瑞稀さんと会う約束をしてないんでしょ⁈ もっと焦ってください!」


 橘は大声の早口で駆け抜けるように一気にそう言い切ると、息を上がらせながら僕の事を睨んだ。


「そうは言われてもな……。人それぞれのペースってものがあるし……」


「何悠長なことを言ってるんですか。もう一度言わしてもらいますけど、陸さんの寿命は残り8カ月なんですよ? 別に陸さんがこのままのペースでやっていきたいと言うのなら止めませんけど……まぁ、それだと『瑞稀さんの事をさん付けで呼ばないようになった!』と、残り1カ月を切った辺りで嬉しげに報告しているんじゃないですかね?」


 橘はやれやれといった感じで両手を広げながら薄笑いをこちらにへと向ける。

 とても分かりやすい明らかな挑発。

 普段ならこんな馬鹿げた挑発に乗る事はなくそれとなしに流していくのだが、今回はそうはいかなかった。

 僕は少しだけ、本当に少しだけだが彼女にムカついていた。

 途中の僕の物真似があまりにも酷すぎて気に食わなかったのだ。


「橘は神の使いで色々と事情を知ってるんだから、そこまで言うならお前が僕と瑞稀さんの仲が進展するようなアクションを起こせばいいじゃねぇか」


「うっ……私は陸さんの監視的な役割でいるだけであって恋のキューピッドではないので。それに、自分の恋愛事を他人頼みにするのは良くないと思いますよ?」


 橘の言っていることは間違いなく正論だ。

 僕も実際のところ橘に頼ろうとなどは思ってはいない。

 じゃあなんで思ってもいない事を言ったかだって?

 本当の狙いは橘を馬鹿にすることにあるからだ。


「そうは言って、本当はやろうとしているけど出来ないだけだろ? もはや今では空気と化しているメールの差出人乗っ取りと10分以内に起こる事が分かる未来予知の2つだけしか橘は使えないもんな。全く神の使いが聞いて呆れる。しかも、まだ使い用のある未来予知の方もここ最近では全く活躍してねえじゃねえか。この前なんか野菜炒めにピーマンが入っているのを未来予知して部屋に2時間も立て籠もる事件を起こしたぐらいだ。せっかくの能力が泣いてるぜ?」


 つい夕飯の野菜炒めにうっかり橘の嫌いなものを入れてしまったら彼女が部屋に立て籠もってしまったあの事件の記憶はまだ新しい。

 高校生にもなってあんな事をしてしまったのは流石に恥ずかしいという自覚は一応あるらしく、その恥ずかしい思い出を掘り下げられたためか彼女の顔はだんだんと赤に染まっていく。


「ぐぬぬ……言わしておけば……! 本来の力が戻れば秒で陸さんと瑞稀さんをくっつけることぐらいできますしぃ⁈」


「本当かぁ? そういえば、そろそろまた何か力が戻ってるんじゃ無いか? 試しにあれをやってみろよ。初めて会った時みたいに目瞑って両手を組んでさ。今なら空を飛べるかもしれないぜ? まぁ、空が飛べたところで恋愛の役には何も立たないけどな」


「あー! もういいです! これはもう完全にぷっちんきました! 陸さんの好きにすればいいじゃないですか! 別に陸さんが願いを叶えようと叶えまいと私には全然関係ないですからっ!」


 橘は僕に怒声を浴びせるだけ浴びせて、机の方に向きを直して再び課題に取り掛かりだした。

 少し馬鹿にし過ぎた気がするけど……まぁ、静かになるならそれはそれで、と僕も彼女の方を見るのをやめ、天井の方に向きを変えた。

 雨が激しくなっているのか、先程とは変わって文字を書く音よりも雨の音の方が大きく聞こえる。


「嘘を……つきました……」


 雨の音や文字を書く音よりも小さな橘の掠れた声が僕の耳になんとか届いた。


「陸さんが願いを叶えるかどうかは陸さん自身が決めることというのは分かってるんです……。でも……それでも私はやっぱり陸さんに願いを叶えて欲しいのです」


 橘の声は全体的には弱々しくも、最後の願いを叶えて欲しいという部分には力強さが感じられた。

 首だけを動かして橘を見る。

 彼女は僕に背を向けたままだった。 


「もう少しだけ時間が欲しい」


 橘の小さな背中に向けて僕は言った。

 僕は未だに瑞稀さんに告白するかどうかを迷っている、が……本当は決まりつつはあった。

 ただ、僕が選んだその答えに自分自身が自信を持てていないだけ。

 きっと、それを周りに話してしまえばみんながみんな反対するだろう。

 だから未だに僕は迷っている。

 みんなが反対しても、自分が出した答えに踏み出す事の出来る決定打になり得る何かを僕はずっと探してはいるのだが……それは今も見つかってはいない。


 僕が言葉を発したのを最後にしばらく互いが無言の状態が続く。

 長い長い沈黙。

 シャーペンが紙を擦る音が突然止んだ。


「瑞稀さんが先に告白をしてきたら……陸さんはどうするんですか……」


 雨の音が部屋に響く中で余計な音が一つなくなった代わりに橘の声がはっきりと聞こえた。


「そんな事あるわけないだろ」


 僕は即答する。

 それは考えて出た言葉ではなく反射に近いものだった。


「本当にそう思っていますか?」


 橘はこちらを一切振り向かずにそう言った。

 彼女の重たく冷たい声が耳を通って脳に直接入ってくる。

 目の前にある小さな橘の背中が何故か大きく感じられた。

 僕はそんな圧に対し言葉を詰まらせる。

 頭にはいくつもの言葉が出ていた。

 それなのに僕は言葉を発せなかった。

 そして何も言い返せないまま時間だけが過ぎていく。

 部屋の中には僕と橘の2人がいるはずなのに、まるで誰もいないかのように雨の音がこの部屋を満たしていた。


「さて」


 そう声を上げ、橘が立ち上がった。


「もう終わったのか?」


 橘は首を横にへと振る。


「やっぱり1人にならないと集中出来ないみたいなので。リビングでやる事にします」


 橘は愛想笑いを見せそう言ったあと、夏休みの課題を持って部屋の中から出て行った。

 部屋の中で1人になった僕は目を瞑る。


 初めの橘が言った瑞稀さんが先に告白をしてきたらという質問に対して即答が出来たのは、きっと心のどこかでそれを恐れている自分がいたからだ。


「はぁ……」


 僕は大きなため息を吐いた。

 好きな人と両想いかもしれない。自惚れもいいところ。

 そんな奇跡みたいな事など、ありえない事だって分かってる。

 しかし、もし万が一、瑞稀さんが僕に告白をするような事があったら……僕はどうするのだろう…………。

 答えなど出るわけがないと分かっていたため僕はすぐに考えるのをやめた。

 瞼の裏に広がる暗闇の中、雨の音だけがやけに大きくなり響いていた。

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