「一番大切な物」
僕は必死に足掻いていた。
少しでも前に進むために。
少しでも誰かに認められるために。
しかし、何度足掻いても、何度水を蹴っても、何度水を掻き分けても……僕は泳げるようにはならなかった。
そんな僕にある女の子が声を掛けた。
「どうして貴方は頑張るの?」
どうしてって……。
「そんなの決まってる。成功するためだ」
もう誰にも馬鹿にされたくなかった。
もう誰にも笑われたくはなかった。
自分自身を救いたかった。
そして……ある人との約束を守りたかった。
僕は隣のレーンの方を向く。
そこには僕ほど酷い泳ぎ(もはや溺れている)ではないが、殆ど泳げない女の子がいた。
僕のように直接的に悪口を言われたり笑われたりはしていなかったが、裏では僕と同じような扱いをされている女の子。
僕は彼女のことも救ってあげたかった。
僕が泳げるようになれば努力はいつか報われると彼女に自信を持って伝えることができる。
僕はもう――彼女にあんな言葉を言わせたくはない。
「コツ……教えてあげようか?」
僕はそう言った女の子の方を向く。
プールサイドから僕を見下ろしている彼女は悲しそうな表情をしていた。
その表情は一向に泳げない僕に同情しているわけでも馬鹿にしているわけでもない……もっと別の何かを僕に感じさせた――。
そこで僕の目は覚めた。
過去の夢……あれは確か小学六年生のスイミングスクールに通っていた頃の……。
昨日、薊と話した時にふと思い出したから夢を見たのだろうか……。
僕は目をこすりながら教室に飾られている時計を見る。
時計の針は昨日と同じ1時45分を示していた。
確か21時には寝始めたから約5時間は寝られたことになる。
昨日よりはだいぶ寝れたな……。
いつもはこんな時間に起きることなんてないのに、やはり環境の変化だからだろうか。
とりあえず僕は起きてしまったついでに手洗いを済ませるため立ち上がる。
手洗いを済ませて便所から出た時、湿布を貼ってある頰に痛みが走った。
そして、それが合図であったかのように体のあちこちに更に痛みが走る。
自分は頑丈だと思っていたが、結局はっちゃん1人にボコボコにされて終わった。
今までを思い出して見れば、たとえ自分が嫌なことをされても我を出しつつ誰かに華を持たす配慮をはっちゃんはいつもしていた。
そんな彼を僕は正直に言って見くびっていた。
長年の付き合いでありながら彼の本当の強さなど僕はこれっぽっちも分かっていなかった。理解しようともしていなかった。
あぁ、そんなはっちゃんと違って僕はなんて弱いのだろう……。
肝試しの時だって、風呂の時だって、僕の力では何一つとして守りたいものを守れてなどいない。
誰かのために生きたいと誓った。
何かを守れる人になりたいと思った。
中学生の時の出来事や先月のヤンキーから水仙さんたちを守れたことで勘違いをしていたのだ。
何かを守ろうとすれば僕は強くなれると、死ぬ気でやれば物事はうまく進んでいくと……。
本当はなんの力もないくせに……。
「わあっ!」
「うおっ⁈」
いきなり背後から襲いかかってきた大きな声に僕は情けない声を出しながら腰を抜かしてしまう。
腰を抜かしたまま背後を向くと、そこには楓がいた。
「ふふっ、いや〜まさかそんな反応をしてくれるとは。慎重に忍び寄った甲斐があったなぁ」
楓は笑いながらへたり込んでいる僕に手を差し出す。
僕は驚かされた衝撃により未だに現在の状況がしっかりと整理できないまま、差し出された楓の手を取り立ち上がった。
「ごめんごめん。トイレから出たら窓の外を眺めながら何か物思いにふけっている陸がいたからつい驚かしたくなっちゃって」
「つい驚かしたくなっちゃってで僕の心臓口から飛び出そうになったんだけど……」
「うわぁ、それはなんだかグロいね」
楓は僕の冗談で苦笑した後、真面目な表情をしながら僕の横へと移動する。
「ところで、さっきまで何を考えていたんだい?」
楓のいきなりの質問に僕は一瞬だけ戸惑ってしまった。
「何って……」
きっと、楓に正直に話てしまっても困らしてしまうだろう。
「外の星空が綺麗だなぁ、ってな。ただただ景色に見とれてただけだよ」
考えていたことは何一つとして言ってはいないが、一応嘘ではない。
実際に窓の外の景色は昨日と同じく綺麗で、月が出ていながらも星が綺麗に見える。
「わあっ、本当だ」
楓は僕と更に距離を縮め、窓の外を見ながらそう言った。
それにしてもとても距離が近い。
林間学校が始まっていた時から何回か思っていたが、何かと楓は距離が近い気がする。
僕は好きな人がいるから大丈夫だけど、好きな人がいない男子とか勘違いしやすい男子とかだったら変な誤解を生む可能性があるかもしれない。
「あのさ。あまりそうほいほい男のそばに寄らない方がいいと思うぞ」
僕の言葉に楓はちょっとだけ焦りながら少し距離をとる。
「ごめん、嫌だったかい?」
「あ、別に嫌だったとかそういう訳ではなくて……ただ、楓は何かと距離が近いからいつか変な勘違いをされると思ってさ」
「なんだそういうことか」
楓は安堵した表情を見せながら再び僕との距離を縮めた。
「もし陸がそう思っているならそれは勘違いではないよ」
その言葉で僕の頭の中から一気に言葉が消えて真っ白になった。
そんな僕を置いて、楓は悪戯な笑みを浮かべて言葉を続ける。
「ボクは陸のこと結構好きだよ」
………………あぁ、そういうことか。
楓の表情を見てふと我に返る。
これはあれだ。
よくある人柄とか友人として好きのパターンだ。
楓からは照れとか恥ずかしさを一切感じられない。
きっと本気の告白とかだったらそうはいかないだろう。
一瞬ドキッとしてしまったが、よくよく考えてみると簡単に分かることだった。
数秒前に勘違いされるからやめとけとか言って置いた身で勘違いしてしまうとか……やべぇ、凄く恥ずい……。
「あの……陸?」
色々と考え込んで固まってしまっていたせいか、楓が心配そうにこちらを見ている。
「ああ、分かってる分かってる! 人柄とか友達としてって意味だよな!」
「そうだけど……他にどんな意味があるのさ?」
うっ……。
楓の何気ない言葉が深く深く胸の奥へと突き刺さる。
少しでも気抜いたら涙が出そうになるくらいやばい。
というか今すぐこの場から逃げ出してしまいたい。
「いや、他に意味はないと思うけど……」
もう話を終わらそうとした時に、あることが疑問に浮かんだ。
まだ、楓と出会って2ヶ月も経ってないし、初めて対話してからといったら2週間も経っていない。
なのにこの楓の僕への懐き様は少し異様なのではないだろうか。
「あのさ。まだ話し始めてから少しの間しか経っていないけど、楓は僕のどこがそんなに気に入ったんだ?」
楓は何か考え込むような素振りを数秒間見せたのち、首の後ろに手を回して何かをし始めた。
「んっ」
楓はそう言いながら手を僕の前へと差し出す。
その手の平の上には黒いリングが付いている鎖状のネックレスがあった。
「えっと……それは?」
楓の意図が僕には全く読み取ない。
「ボクの一番大切なもの」
「ええっと……僕が質問したこととそれに何の関係が?」
「ボクの一番大切なもの」
同じ事を二度言われた……。
「僕が質問したこととそれに何の関係が?」
「ボクの一番大切なもの」
…………どうやら違う質問をしないと先には進めないらしい。
「結構高い物なのか?」
「ううん。ユーフォキャッチャーで三百円で取ってくれたもの」
「……親とか兄弟、恋人が取ってくれたとか?」
「ううん。今までボクに恋人なんて出来たことないし、兄弟なんていないよ。それに親から貰ったものでもないよ」
まずい……質問するごとに頭の中がハテナマークで埋まっていく。
「これは君がくれたものだよ」
…………は?
楓の言葉に頭の中にあった沢山のハテナマークは消し飛び、再び真っ白に染め上げられていく。
「これを見せたら思い出してくれると思ってたんだけどな……本当に思い出さない……?」
「思い出さない、って……いつ僕が?」
「中学二年生の時だよ」
中学二年生……確か楓と中学は違うはずだよな……………………駄目だ。思い出せない。
中学二年生ってなんていったらつい最近の話だ。
和也の件があったあの時期。
あの頃から人と関わることはかなり少なくなった。
こういうのも何だが、楓はかなりの美人だしこんな女性に何かを渡していれば絶対に記憶に残っていると思う。
それなのに一切記憶にない。それはもう――
「ごめん、思い出せないや。あのさ……それって人違いなんじゃないか?」
「人違いなんかじゃない!」
楓から聞いた初めての大声だった。
怒りと悲しみが混じったような大声。
自分でもそんな大きな声が出たことに驚いたのか、楓は急いで口を手で覆う。
そして、楓の目から一粒の涙が零れた。
「ごめん……」
僕がそう言うと、楓は僕から背を向けた。
「こっちこそごめん……。ボクもう戻るね」
楓は教室がある方へと数歩歩くと、その歩みを止めた。
「あのさ……」
楓は僕に背を向けたまま声を掛ける。
その声は少し震えている。
「陸はさっきボクに対して変な勘違いをされないようにって言ってたけど……陸自身も気を付けた方がいいと思うよ」
楓はそう言い放つと、逃げるように早足で教室へと戻って行った。
楓から教室に戻ってどのくらいが経っただろう……。
五分? 十分? いや、三十分? もしかしたら数秒だけしか経っていないかもしれない。
僕も戻ろう……。
教室の方に向かって一歩踏み出す。
一歩、また更に一歩と踏み出すが足がとても重い。
やっとのことで教室に戻り、僕は布団へと潜る。
しかし、今日はこれ以上寝れそうにはなかった。
目を閉じるたびに僕から背を向ける時の楓の表情が浮かんでくるからだ。
肝試しの時の日光と同じ、どこか寂しそうで、あぁ、そんなものだったのかでも言いたげな、そんな表情だけが僕の頭の中にこびり付いて離れなかった。




