『羽川こりゅう作品集』10.「ねじまきせかい(書き下ろし)」
そこは、真っ暗なところでした。
音も、景色もなく、ただ真っ暗な場所。
感じることも、考えることも、何もする必要がない場所。
時間もないのですから、今、私が何をしているのかも、全く分からないのです。
ただただ、何もない世界に吸い込まれて取り込まれた。そんな気がします。
ですから、再び時間が動き出したとき、私にはこの世界の微小な粒子の流れですら、肌で感じてしまうのです。
そんな世界に、小さな女の子がいました。
いつも下を向いて、奥歯を噛み締めている。悲しいときも、辛いときも、ひとりぼっち。それをよく分かっている。そんな女の子です。
私は、感じることも、考えることも、する必要がないのですから、彼女に一言、話しかけることすらしません。
そこに「視える」ことと、「感じる」ことにはなんら繋がりもないのですから。
私と彼女の関係は、個が個として独立した、全体集合の中の共通部分を持たない部分集合のようなものでした。
しかし、彼女はいつもそこにいるわけではありません。
時々、セカイはぐるぐると輪を描いて、たくさんの色や音を混ぜ合わせます。
時間のないセカイに、まるでネジ巻きのように命を与えているような、そんな風でした。
そして、そんな不安定な巨大な生き物が蠢くとき、彼女は決まってそこにいるのです。
初めて、彼女をそこで視たときのことです。
彼女は、何もないところに立ち尽くしていました。
その視線は足元に向けられて、その先からドス黒く染まった赤とも言える色が流れてくるのです。
その色はやがて、彼女の下ろし立てのようなピカピカの靴を染め上げ、セカイはぐるぐると回り続けます。
次に、彼女を視たとき、女の子は少し成長していました。
どうでしょうか。
最初の彼女は、4歳、5歳ぐらいの本当に幼い様子でしたが、このときの彼女は背も伸びて、中学生くらいにも視えました。
相変わらず、セカイはぐるぐると回り続け、女の子はやはりそこに立ち尽くしていました。
彼女の手には、何かを持っているようにも視え、視線が上下に動いています。
本でしょうか。
いいえ。
セカイは、暖かい色と彼女をゆっくりと混ぜ合わせていました。
今になって思うと、セカイの色は、女の子の心。感情のようなもの。
そうであれば、彼女の読んでいたものは、無表情で読むようなものではないでしょう。
大切な人からの手紙だったのかもしれません。
ひとりぼっちだと分かっている、そんな貝のように閉ざされたノイズと灰色のセカイではありませんでした。
私は、あのセカイを怖いと思ったことはありません。
もちろん、今になって思うことですが、むしろ懐かしさや心がキュッと締め付けられるような切なさを感じていたに違いありません。
セカイはやがて、別の色を混ぜ合わせるようになります。
アオ。
まるで心をなくして、何も感じない。青。
セカイに取り込まれた私と、この世界でまさに生きている女の子とのコントラストをひしひしと感じるのです。
それから、何度目でしょうか。
徐々に成長していく女の子とともに過ごしたセカイは、それまでの無の連続を少しずつ間仕切り、有限の世界へと変わっていきます。
私には分かりました。
セカイは、世界に続いていて、表裏一体の存在。
時折、ねじ巻かれるセカイ。
そこに現れる女の子はきっと、時間の粒子を肌で感じる、この世界の記憶とも言えるのでしょう。
私が最後に聞いた音は、セカイの私と世界の女の子、どちらにも聞こえる音でした。
私たちがもっとも聞きたくて、失いたくなかった声。
その声が、声だと分かるのには、いくぶん時間がかかりました。
もしかすると、ねじ巻きされるセカイは、世界と結びつくのを待っていたのかもしれません。
そういう意味では、私たちはようやくひとつになったとも言えます。
あなたはもしかすると、この先、ねじまきせかいの住人と出会うかもしれません。
ですが、忘れないでください。
私たちは、そこにいて、外の音を聞いて、外の匂いを感じて、外のあらゆる粒子の動きを感じているのです。
あなたの悲しみ、怒り、憎しみそして喜び。
あなたの声は私たちに届いています。
ですから、呼びかけてください。いつものように。
私たちはそこにいつもいます。
私たちは、セカイにまたすぐ戻ることになります。
もしかすると、そこは、ねじまきのせかいではないのかもしれません。
だから、今だけ。
あなたの声で。
私を
ねじまき。
(了)
※当作品は、羽川こりゅう氏の語りを聞き取り(H28.4.22)で文に起こしたものです。一部、語り手の意図と異なる場合があります。また、文章を一部、補正した箇所があります。
注釈:校正者