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前編

 『俺は小さな寂れたビルの二階に居を構えるハードボイルドな探偵、根子間仁だ。二つのデスクにローテーブルとソファーのセットを配置するだけで狭くなるような事務所で、日がな一日、困りごとを抱えた依頼者を待ち続けている』

 スーツの上着を脱ぎベスト姿になった仁は、窓際に置かれたデスクに座った。

 上着はデスクの上に置く。

『俺の定位置はここ。窓際のデスクの上に足を放り投げ、お気に入りのイスに深く腰掛けながら煙草を燻らせる』

 くたびれた黒のズボンを履いた足をデスクの上にのせた仁は、デスクの引き出しから新品の煙草とライターを取り出した。

『少々重いこの煙草の香りが、俺の眠る頭を覚醒させる』

 仁は煙草のフィルムを取り、引っ張り出した一本の煙草を口にくわえた。

 そして、火をつけたライターを、煙草の先に近付ける。

『煙草の先に火が灯り……火が灯り……』

「あれ? 煙草に火がつかない……」

 デスクから足を下ろして姿勢を正した仁は、よく見えるように口にくわえていた煙草をつまんで顔の前で持ち、煙草の下からライターの火であぶってみる。

「ダメだ。つかない。おかしいな……。買ったばかりだから湿気ってるわけでもないと思うけど……。そうだ! こういう時は検索検索!」

 仁はデスクに置いてあったスーツの上着から、携帯電話を取り出す。

「えーと……。煙草、火がつかない……っと」

 検索画面で検索語句を入力し、仁は検索されてきたページを確認した。

「あー……。なるほど。煙草を吸いながらじゃないと、火がつかないのか。よし、今度こそ」

 携帯電話をデスクの端に置き、またデスクの上に足をドカッとのせてイスに深く腰掛けた仁は、煙草を口にくわえた。

 そして、火をつけたライターを煙草に近付ける。

『煙草に火をつけた俺は煙を深く吸い込み――』

「うえっ! ゴホッゴホッ! 何だごれ!」

 慌てて口から煙草を離した仁は、盛大に咳き込んだ。

「ゴホッ。こんなの皆、吸ってるの?」

 若干、涙目になりながら、仁は火のついた煙草を見た。

 しばらく煙草を見つめてから、仁は煙草から目をそらしてデスクの上にあるシンプルな灰皿を引き寄せた。

 この灰皿も汚れ一つない新しいものだった。

「……い、今は煙草はいいや」

 火がついたままの煙草を灰皿に置き、仁はゆっくりと立ち上がった。

『煙草を吸っていない時には、カフェインが取りたくなるのが俺の常だ』

 ドアの壁伝いに設置されている棚に緩慢な動作で近付き、足に擦り寄る三匹の猫を無視しながら、仁は棚の荷物台に置いてあるコーヒーメーカーに向かって立つ。

 コーヒーメーカーの中には、すでにコーヒーが出来上がっていた。

『コーヒーメーカーから漂う豆の香りが、俺の心をくすぐる。どんな状況でも動じない俺だが、この香りだけは俺の心を揺るがす』

 コーヒーメーカーと一緒に用意してあったマグカップに、仁はコーヒーを注ぐ。

 マグカップからは湯気とともに、コーヒーの香りが立ち上った。

『今日も良い香りだ。やはりコーヒーは豆からに限る。コーヒーを楽しむならば、味を邪魔する砂糖やミルクは入れてはならない。コーヒーはブラックで飲むものだ』

 コーヒーとともにデスクに戻り、いつの間にかイスに陣取っていた黒猫を床にどかして、仁はイスを座ると同時にクルリと回し、窓の外を眺めた。

『一雨来そうな空模様だが、何故かそんな日には、一癖も二癖もある事件が舞い込むと決まっている』

 窓の外に視線を向けたまま、仁はマグカップに口をつけた。

『流れ込むコーヒーの苦味が』

「苦! うえぇ。酷い味!」

 仁は舌を出して顔を歪めた。

「何をやってるんですか所長?」

 聞こえてきた声に仁が振り向くと、スーパーの袋を持ったセーラー服姿の女子高生が、事務所のドアから中に入ってくるところだった。


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