第一話 狂った世界での『死』
街は燃え、人々が慌てふためく様子を街で一番高いビルの屋上から見下ろす人影が一つあった。
目下に広がるのは何かは分からない『何か』に恐怖し泣き叫ぶ人間や、金切り声をあげながら固まってしまった人間などばかりで正常な人間などただの一人も見当たらない、地獄と化した街の風景。
そんな光景を見下ろしている人影の正体は体のいたる所に怪我を負っている一人の青年だった。
青年は目線を下へ向けたまま振り返る。
するとそこには深くフードを被った『人間だったもの』の死体と白いドレスを血で赤く染め地に倒れ伏している少女の姿が目に映つる。
そして、その少女を中心に幾何学模様―――俗に言うところの『魔法陣』―――も当然視界に入っているが気にした様子は無い。
そんな魔法陣は不気味に煌めき中心にいる少女を照らしている。
「間に合わなかった……か」
青年は虚ろな目で自嘲するかのように吐き捨てるとゆっくりとした足取りで魔法陣の中心へと歩みを進める。
そして少女の前で片膝をつき既に事切れている少女を抱きかかえた。
優しく包み込むようなその抱き方から青年と少女の仲はとても大きなものであったのだと伺える。
そしてその青年の頬をよく見てみると一粒の涙が流れていた。
いや、違うそれは煌めく透明などでは無く、赤黒い色をしている。
―――血だ。青年は血涙を流していた。
その血は頬を辿りやがて……一滴の血雫が魔法陣の中へ静かに落ち未だに煌き続ける光の中に溶けていった。
と、その時。
魔法陣の輝きが増し、それと同時に空気を激しく振動させるほど大きな地震が発生した。
だが、青年は我関せずといった表情で少女の体を抱きその場から動こうとはしない。
時間が経つごとに大きくなる揺れに対してギシギシと青年達のいるビルも悲鳴を上げ始める。
青年達のいるビルの下では地面が割れ空からは割れたガラスやコンクリート片が降り注ぎ血の海に染まっていた。
聞こえてくるのは空気の振動する音、地面の割れる音、ガラスの割れる音、そして悲鳴、悲鳴、悲鳴……。
そんな中、未だに命のある人間達の耳に悲鳴とはまた違う『声』が聞こえてきた。
それは、人間達には何を言っているのかは分からなかった……だが、何を伝えようとしてきているのかは分かった……いや、分かってしまった。
人間達はこの『声』の持ち主が怒り、そして自分達を殺そうとしているのだと理解してしまった。
そしてその事から先程から自らの胸の内を締め付け続けるこの狂気的な恐怖はこの『声』の持ち主からのものだったのだという事にも気がついた。
だが、それが分かった所で何ともならない。
人間とは無力で儚くそれでいて小さな存在だと嫌でも分からされる圧倒的な『何か』からの恐怖。
それらを止める術は無い―――いや、『もう』無いと言った方が良いだろうか。
詳しくは、ほんの十分前まではこの事態を防ぐ方法が一つだけ存在していたのだが、少女を抱える青年はそれを行う事ができなかった。
その結果、このような結末になってしまったと言えば反論する事など青年にはできない。
いや、それ以前にこのような大災害をたった一人の青年が食い止めようとする事自体が間違っていたのかもしれない。と、自嘲するかもしれない。
だが、その失敗した本人である青年はこの失敗よりも少女を失った悲しみの方が大きいのか赤黒い涙を流しながら少女を抱き続けている。
側からみれば放心しているようにも見えなくはなかった。
その間にも『声』は近づいてきていた。
その『声』と共に『何か』が蠢く音、よだれを吸い込むような音も聞こえてくる。
そしてその音の大きさに比例するかのように地震は強くなり、青年達のいるビルにも亀裂が走る。
足場が大きく揺らいだ事により軽く意識を取り戻したのか青年はゆっくりとした足取りで立ち上がった。
そしてその腕に少女が抱き抱えた青年はそのまま今にも崩壊しそうなビルの端までやって来ると、唐突に口を開いた。
「俺はいつも君を追いかけていた……。俺がこの狂った世界に来てからずっとだ……。だから最後の最後まで俺は君を追い続けようと思う。君は怒るだろうか? いや、確実に怒るだろう……だが、それも良いかもしれない。また、君に怒られる事ができるならそれはそれで俺は幸せだ―――さてと、最後にまた俺の我が儘に付き合ってほしい。そしてまた会った時にたくさん俺の事を叱ってくれ」
そう言うと青年は少女を強く抱き寄せ虚空に足を踏み出し、重力に従うがままに落ちていった……。
◇
地平線の彼方まで広がる海の上に青年が一人ポツリと立っていた。
そして青年は唐突にその閉じられていた瞼を開いた。
軽く辺りを見渡すも見えるのは地平線のみ。
だが、青年にはこの奇妙な空間に既視感を覚えた。
そしてその時、青年の脳裏に失われていたはずの記憶が蘇りその表情は暗くなり諦めのような感情すらも感じられるようになった。
そんな表情の移り変わりに伴い青年の纏う空気の静寂すらも重く暗くなっているようにも思える。
だが、そんな空間を支配する静寂は突然の拍手により終わりをむかえる。
辺りには青年以外誰も居ないにも関わらず拍手の音が聞こえるという奇妙な現象がこの空間にて発生しているにも関わらず、青年はなんの反応もみせない。
「お久しぶりですね。『一真くん』。お元気ですか? 」
拍手が止むと同時に青年―――『黒木一真』の前に一人の銀髪の美しい女性が現れると共に問いかけてきた。
だが、その問いかけに対して一真は一切口を開かない。
「あらら、そう固くならないでくださいよ……。ふふふ、まぁ何を言おうとあなたは私を恨むでしょうね。でも、私は構いませんよ? どれだけあなたが私を恨み嫌おうが私があなたを愛している事に変わりは無いのだから」
女性は口を閉ざしたままの一真の両頬に両手を添えてその光の無い両眼で一真の黒い瞳を見つめ続けている。
「離せ。お前に愛されたとしても不幸と狂気しか生まれない」
これまでの出来事が目の前の女性により起こされた事なのだと思い出し怒りを露わにした一真の女性の言葉に対して対応は明確な『拒絶』。
添えられた両手を跳ね除けて一歩後ろへ下がる。
「ふふふ、それこそ私の愛の形ですよ……。ですが、やはりあなたが私の愛を受け取ってくれない理由は『あの娘』が現れたからですか? ふふふ、確かに彼女は可愛いですしね。私の『見ていた』限りラブラブでしたもんねぇ……。ふふっふふふふふ、まぁ、いいです。『今回』はあなたも頑張りましたので一つ、『ご褒美』をあげようかと思います」
「褒美……だと? そんなものいらない。早く俺を天国でも地獄でも何でもいい、『彼女』の元へと連れて行ってくれ」
「ふふ、そんなに『あの娘』に怒られたいのですか? そうですねぇ……。ふふふ、それじゃあこうしましょう。ご褒美は『あの娘と一緒に地球に帰られるチャンス』という事にしましょう。あぁ、私はなんて優しいのでしょうか」
―――どこがだと、一真は心の中で悪態を吐く。
だが、これまでの自分を全て見られていた事への怒り以上に、今の一真にはなによりもこの『ご褒美』が魅力的に感じられた。
目の前の女性の性格は禍々しく曲がりきったものだが、一度約束した事は守る。
それは一真自身がその身で確認したから間違いない。
―――それでも目の前の女性がそう簡単に自分を手放すとは考えられない。
これが、一真の今の話を聞いた上での考えである。
「ふふ、そんなに私の事を信じられ無いですか? 最初はあんなにも可愛かったのに。残念です……ふふふ」
「どの口が言う。こうさせたのはお前自身だろう。お前が言った事を曲げ無いのはこの六年間でしっかりと感じられた。―――だから早く『彼女』に合わさせてくれよ」
「目の前に女の子がいるのに、その対応はちょっと酷くありませんか? ちょっと嫉妬しちゃいました。ですが、あなたに信用されてるだなんて……ふふふっ、嬉しいです」
目の前の女性と会話がマトモに成立しない。
だが、こんな会話をしているだけでも何かが自分から失われていくような奇妙な感覚が一真を襲い続ける。
そんな中で一真はほんの……ほんの一瞬だけ目の前女性を愛おしいと感じてしまった。
これも目の前の女性の魔法か何かなのだろう。 と、一真は無理やり解釈する。
そんな時、目の前の女性はなんの前触れも無く意味深な笑みを浮かべたが、この邪悪な笑みを一真は確認する事ができなかった。
「では、頑張ったあなたへの『ご褒美』をあげましょうか。ふふふ、『ご褒美』は一つ。さっきも言ったように『あの娘と一緒に地球へ帰られるチャンス』です。チャンス……というわけであなたには今からまた一つ他の世界へと出向いてもらいます。そこで行う『ゲーム』でトップになる事が出来れば、『あの娘と一緒に地球に帰れる』と、いうものです。ふふふ、やっぱり私ってば優し過ぎますね? ふふふ」
一真の顔に嫌な汗が流れる。
他の世界、という単語に反応したのか一真の指先が震えているようにも思える。
その汗や震えから一真に刻み込まれた恐怖の深刻さが伺える。
そんな、一真の反応に気がついたのか女性は一真の事をゆっくりと優しく包み込むように抱きしめ顔を一真の耳元まで持ってきた。
「震えてるじゃありませんか……。ふふふ、先ほどの言葉は訂正します。今もとっても可愛らしいですね……。あなたはいつもいつも私の事を突き放しますが本当は『もう』分かってるんじゃないですか? 自分ももう普通ではない事に。そんなあなたを本当の意味で愛する事が出来るのはこの私だけだという事に。そしてあなたの『あの娘』を愛する気持ちは狂気の中で生まれてしまった紛い物であると―――」
「ち、違う! 彼女―――『アオイ』に対するものは紛い物なんかじゃない! 」
一真はここへきて初めて声を荒げた。
だが、そこ声に反して一真の体の震えは未だに止まってはいなかった。
「ふふっ、あなたがそう言うならばそうなのかもしれませんね。では、そのあなたの思いの強さを私に見せてくださいよ。ふふふ、安心してください。あなたの言った通り私は約束は守りますよ? 」
段々と近づいてゆきやがて女性は一真と体を密着させた。
その表情は優しく微笑むようにも見えなくは無い。
そんな女性の微笑みから一真はなんとも言えない恐怖を感じると共に奇妙な心地よさも感じてしまい、先ほどのように彼女を跳ね除けることができなかった。
「私―――『アーテ』はどんなあなたでも受け入れ、愛する事ができますよ? ふふふ、それでは頑張ってくださいね『一真さん』」
「あ……」
女性―――『アーテ』は一真の腰へ手を回し更に体を密着させた。
アーテのグラマラスな体では無く、囁く声に惑わされ激しく動揺してしまう。
それを自覚した一真を、自分の思考に背き自分では無い自分が反応しているような不気味な……なんとも言え無い不気味な感覚に陥り激しい寒気に襲われた。
この時点で一真が正常な考えが持っていたならば怒号の一つや二つは飛ばしていただろう。
だが、そんな事は無かった。なぜなら―――
「まだまだ、この時間が愛おしいですがそうもいきません……。『今回』も記憶は閉じさせていただきますね? このままではあなたはまともな思考すらできませんからね。ふふふっ、それでは私に証明してみてください。あなたの『あの娘』に対する気持の在り方を……ね。もし、できなくでも私はいつでも……いつまでもあなただけの味方ですよ? 私はあなたを狂おしい程に愛していますから。ねぇ、『一真くん』? 」
―――もう既に『アーテ』の手により一真の心は『狂わされ』ているのだから。
壊れた人形のように動かなくなってしまった一真の顔にアーテが近づいて行く。
そして、その瞳を見据えながらゆっくりと自らの唇を一真のものに重ね、離れた。
その瞬間、今この瞬間まで存在していたはずの二人は影の一つも残さず消え去った。
そんな中で、薄っすらとだが自我が残されていた一真は最後にアーテの呟きが聞こえたような気がした。
―――『狂気』からは逃れられませんよ?
そんな、身の毛もよだつ様な呟きが。