彼女の正体
吐息が吹きかかる。生温い肌が頬に触れた。
「ん…」
眠りの邪魔だから押し退けるが、彼は猫のようにじゃれて首筋にキスをしてくる。
「やめて、コクウ…」
コクウの肌と匂い。それに包まれながら、あたしは心地いい眠りに溺れようとした。
コクウが笑みを溢すのを感じる。
まだ眠りの邪魔をしようとしてきた。
あたしの額にキスをすると、鼻にもキスをする。
あたしは眠るを諦めて、目を閉じたまま唇と唇を重ねた。
何故か久しぶりに感じるキス。舌を絡めとり吸い上げる。コクウが抱き寄せるから、あたしは彼の首の後ろに腕を回した。
コクウの手があたしの背中を撫でて、服の中に入る前に気付く。
何故、久しぶりと感じたのか。思い出した。
目を開いて、あたしは唇を重ねたままコクウを見る。コクウだ。間違いなく。
慌てて押し退けたら、頑丈な吸血鬼の代わりにあたしが飛ばされてベッドに落ちた。
「っ!?…っ!!?」
慌てて立ち上がって自分がいる状況を把握する。ここはコクウの寝室。
間違いなく。コクウの寝室。今まで寝ていたのはコクウのベッド。
ベッドにいるコクウは、あたしの反応を愉快そうに笑って眺めていた。
何故どうやってどうなってこうなった!?
「嘘でしょ!!」
あたしはヒステリックに声を上げた。
「なに?ただの添い寝じゃん。付き合う前からやってたろ?」
「わかってるわよ!!無断外泊したことが最悪なのよ!!」
なにもなかったことはわかっている。コクウはロマンチストだから、そうゆうムードのない時に手出しはしない。
あたしがパニックっているのは無断外泊したこと。
しかも幸樹さんはコクウといることを知っているから、ああどうしよう。どうしよう!殺される!!
「落ち着きなよ、椿。まだ四時だ」
「!!、帰る!」
カーテンの向こうの窓を見ればまだ薄暗い。早朝のようだ。
セーフか?アウトか?
携帯電話に着信がないならバレていないはずだ。
あたしはコクウの部屋を飛び出した。
全速力で家に帰った。幸樹さんの車があったから、会わないように自分の部屋の窓から入ろうと考える。確か一昨日窓から脱走しようとした時、窓を開けっぱにしたはず。
バレていない。バレていない!
あの過保護な二人があたしの帰りを確認しないはずはないが、絶対にバレていないと祈る。
祈りは届かないけどね!
「!?」
窓から自分の部屋に入ろうとして驚愕した。
ベッドには白瑠さんがいたから。
白瑠さんがあたしのベッドで寝ていらっしゃる…!!
え?バレてる?コクウと外泊したこと。じゃあなんで着信ゼロ?メールすらない。
いや、もしかしたら、昨日はずっと白瑠さんは寝ていたのかもしれない。
そこで思いつく。心臓の件、幸樹さんから聞いた白瑠さんの反応が怖い。命に関わると怖いんだ。
白瑠さんはなにか言うために、ここで待っていたのでは?
あたしは窓に座ったまま凍り付く。
落ち着けあたし。
白瑠さんはちょっとやそっとでは起きない。着替えな服をクローゼットから取り、シャワーを浴びてなるべくコクウの匂いを落として、白瑠さんが起きる前に幸樹さんと出掛けよう。
よし、バッチリ!
音を立てずにブーツを脱いだ足でクローゼットに向かい、赤いコートを脱いでかける。カチャ、と音がしたが白瑠さんから反応はない。
大丈夫。白瑠さんは起きない。
念のため、パジャマに着替えて今日着る服を抱えた。
部屋を出ようとして、止まる。
「………」
寝息も聞こえないが、確かに酸素を吸い込んで胸が上下に動いていた。
もしかして、白瑠さんは熱が下がらなくてここにいるのでは?
心配になってあたしは恐る恐る歩みより、白瑠さんの顔を覗いた。
服を片腕で抱えて、手を伸ばす。
薄い茶色の髪を退かして、額に触れた。昨日より熱い。
自分の額を触って確認して、もう一度白瑠さんの額に触った。やっぱり熱い。
スッと白瑠さんの瞳が開いた。
後頭部に白瑠さんの掌が回されて引き寄せられる。唇が重なった。
「ん!んんっ!」
痛いくらい抱き締められる。腕を立てて離れようとしたが、白瑠さんは放してくれなかった。
息もつかないほど噛みつくように唇を奪う。熱い。
「やめろ。心臓停まるぞ」
心臓がバクバクと高鳴る。
黒い煙で現れたヴァッサーゴが忠告すると、ピタリと白瑠さんはキスをやめた。
その顔は、怒ってる。
怒ってる!至極怒ってる!
またあたしは凍り付いた。
「いいですか?白瑠。椿さんと出掛けるので」
後ろから幸樹さんの声。
ビクリと震え上がって振り返ると、幸樹さんが立っていた。
白瑠さんは何も言わず、あたしから腕を放す。
ヴァッサーゴが煙の手で、あたしをベッドから引きずり出して部屋から出した。
白瑠さんは一言も口にせず、あたしのベッドで寝転がる。
一日に、それも早朝から、二人の男とキスをしたなんて。二股した気分だ。不可抗力なのに、罪悪感しかわかない。
「どうしたんですか?二股して罪悪感に蝕まれたみたいな顔をしていますよ」
隣を歩く幸樹さんが図星をつく。あたしは睨み付けた。
「………経験あります?」
「私がですか?…体だけの関係ならそりゃあ複数と」
「聞きたくないです。」
この人の体験談と比較してはならない。参考になりゃしない。
「私に恋愛相談ですか?洗いざらい話すなら引き受けますが……女友達の方が話しやすいのでは?よぞらさんとは仲良くなれなかったのかい?」
「あー…ちょっと、乱入があって…二人で仲良く話せなかったんですよ」
蓮呀とか蓮真君とか、コクウの玄孫とか。
あたしは肩を竦めた。
「不可思議だと思いません?舞中さん、皆と繋がりがあってあたしと会って全部繋がったんです」
「運命の出会いというやつじゃないですか?」
幸樹さんは冗談めいて笑う。そのお兄ちゃんの腕を掴んであたしは注意を引いた。ちゃんと聞いてもらうために。
「ええ、あたしも思います。必然に会った気がします。……絶対に何か起こってしまいそうなんです、この件から引きましょう」
「…いつになく臆病になっているんですね?いつもの負けん気はどうしたんです?」
「幸樹さん……偽者を追ったら最悪な気分になったし、鼠を追い込んだら噛まれたし……酷い目に会う前に退くべきです」
あたしが唇を噛み締めて訴えたら、幸樹さんは微笑んであたしの頬を両手で包んだ。
「大丈夫ですよ、何があっても。今回は吸血鬼も味方になっているますから、どんなことが起きても乗り切れます。ああ、悪魔もついていた」
笑い退けるがあたしがまだ浮かない顔をするから、幸樹さんはくしゃくしゃと頭を撫でた。
せっかく気合い入れてセットした髪が崩れちゃうじゃないか…。
膨れながらあたしは髪を直す。その頬を潰された。
「私とのデートですよ?笑ってください」
「…はぁい」
兄妹の初デート。
あたしは一先ずその件を置いといて、お兄ちゃんとのお出掛けを楽しまなくちゃ。
あたしはもう一度髪を直して、白いコートを払って直した。それから幸樹さんと腕を組んだ。
「はい」とまた頷いた。
「…今日はあたしの代わりに誰がつくんです?」
「藍乃介とハウンが接触してつくそうですよ」
これだけは訊いておく。じゃあラトアさんは休んでいるんだろう。代わりにハウン君が昼間に引っ張り出されて、藍さんは舞中さんが少女だから喜んでいるだろう。
「何処に行くんです?」と行く先を訊いた。
今度こそデートを楽しもう。
「お昼にイタリアンを食べて、買い物に行きましょう」
「電車で?」
「ええ、車だとあっという間に着いてしまうから」
電車でお喋りをする。たっぷり兄妹の時間を取るつもりだ。
ちょっと身構えた。家出中のことを事細かに訊くつもりだ。よし、あたしも事細かに訊いてやる。
「あの……白瑠さんは…大丈夫なんですか?また熱が上がったみたいですけど…」
「大丈夫ですよ、高熱で死ぬような人ではないです。椿さんのベッドの方が快適に眠れるらしいから、暫く貸してあげてください」
「それって、眠れてないってことですか?」
「……ちょっとした不眠ですよ。熱に魘されていて」
一人置き去りにしてしまった白瑠さんの容態をドクターに訊いた。朝食も部屋から出てこなかったから、白瑠さんは一言も発しずにいたから、あたしは心配だ。
「看病しなくて、いいんですか?」
「おや、私とのデートをやめて、帰りますか?大丈夫、ラトアがいますので」
駅に着いて幸樹さんは切符を購入する。あたしはその背中を見ながら、白瑠さんを看病するラトアさんを想像した。
大丈夫じゃなのかな…?
でも主治医がいうならば、心配ないのだろう。
他のことに気が散ってはいけない。兄妹の初デートなんだから。
「詳しく訊いていいですか?」
「待ってました。なにから問い詰める気です?」
「ミスミリーシャとの話ですよ」
あのお騒がせのアメリカの有望視され次期大統領と噂されているミリーシャ・ビアンキ。
「彼女から訊いたのでは?」
「貴女を雇いたがっていることだけは聞きました」
じゃあミリーシャと出会った経緯から話すべきか。
「イタリアでマフィアの殲滅をしたって噂を聞いて、あたしをギリシャで捕まえたんです。刺客が多すぎるのであたしをボディーガードとして雇った。転々としてたから大金もらうついでに一緒についていったんです。見たでしょう?あの人、あたしを気に入ってるんです。どうしても専属に欲しいそうで、殺し屋を辞めたから躍起になって来たんです」
それで……彼女の刺客を殺ってしまった。
「何処を転々としていたんです?」
電車に乗り席に座る。幸樹さんは本当に事細かに知るつもりかもしれない。
「最初に捕まったのがギリシャ。ブラジル、またイタリアに戻って、韓国に中国。日本に武器を調達しに戻って」
「…一度日本に戻っていたんですか」
「はい。藍さんの友達の兎夏さんのところの武器が気に入ってたので。それからまたイタリアで。そこでミリーシャのボディーガードを辞めた」
アメリカの有望視され次期大統領と噂されているミリーシャ・ビアンキ一度帰国したのに家に帰ってこなかったことを不満に思ったらしい。あたしは気付かないフリをしてさらりと簡潔に話した。
「フランスからアメリカ。アメリカのアリゾナにいた時に、コクウに捕まった」
「人気者ですね」
「…ですね」
いろんな人に追い掛けられる。
「いいと思いますがね。ミスミリーシャの専属SP」
「無理ですよ、克服しなきゃ彼女を殺ってしまいます」
「では克服したら考えてみたらどうでしょう」
「………あたしが家にいなくていいんですか?」
ミリーシャの専属SPになれば、ミリーシャと共に各国を回ったりする。彼女は遅かれ早かれアメリカの大統領になるから、日本に戻れない。
「あーそれはいただけませんね…。会えないと寂しいですね…」
「白瑠さんならついてきそうですが、幸樹さんは仕事があるじゃないですか」
「ですね」
幸樹さんは笑いながらあたしの頭を撫でた。だから髪型を崩さないで欲しい…。せっかくクルクル巻いてセットしたのに。
あたしから家を離れないと言ったのが嬉しかったみたいだ。
もう離れたくない。
あの家で暮らしたい。
こうして家族といると心が安らぐ。ちょっと以前とは違うが、それでもあったかい場所。
「…白瑠さんは、心臓のこと…なんて?」
白瑠さんとの関係が歪。
今朝怒ったのは、コクウといたからか?それとも心臓のこと?それとも両方?
「貴女が生きているならそれでいいんですよ」
幸樹さんはそれだけ答える。
絶対怒ってるんだ……。
椿ぃ
この鼓動
俺
止めるつもりなんて、ない
一番鼓動を止めたがらなかったのは、白瑠さんだ。怪我を負えば付きっきりでそばにいた人だ、寿命ゼロだと知ったら…。
「…あの」
言いかけた時に、それは現れた。
「この電車はオレが占拠した!!」
包丁を片手に車内の真ん中で男が叫ぶ。
「動くな!!動いたら殺すからな!!」
どうやらジャックに巻き込まれたらしい。
あたしはきょとんとしてから幸樹さんを見上げる。世界を二ヶ月飛び回ってもジャックに巻き込まれたことはなかった。
この場合、どうするべきなんだ?ぶっ潰すべき?
幸樹さんは小刻みに首を振る。
何もせずにじっとするべきらしい。
でもこれ、デート台無しになるのでは?どうせ警察が来て事情聴取される。いくら表向きの戸籍を作っても、あたしが警察と顔を合わせるのはまずいだろう。というか顔会わせたくない。
ナイフ一つでジャックした男はびくびくしたがら乗客を見張っている。二日連続こんな事件に巻き込まれるって…なんなんだ。
「あの…サクッと潰しません?」
「だめですよ。目撃者が多すぎる」
小さくあたしが幸樹さんに言うと、却下されてしまった。
ナイフ男に蹴りをいれて電車を降りても、目撃者が多く逆に悪目立ちしてしまう。だから大人しくした方が最善。
やり過ごすしかない。
「こそこそしてんじゃねぇ!!殺すぞっ!!」
ナイフ男は他の乗客に振り上げるフリをして脅かした。だが一番怯えているのはその本人に見えた。
苛々してくる。
あたしは苛立ちを抑えようと、幸樹さんの掌を握った。
その時だ。
目の前を黒いブーメランのようなものが飛んで横切り、それが男の顔面に直撃した。
バタン、と倒れたあと黒いブーメランの正体が発覚する。
黒い革鞄。学生鞄だ。
無様に倒れた男と鞄から、あたしを含めた一同は黒い鞄のブーメランが飛んできた方を見た。
「殺すだぁ?ビクビクしてやがるくせに、戯言抜かしてんじゃねぇよ!電車で刃物ちらかせてねぇでさっさと警察署で訴えてろよ、ビビり!」
昨日と同じ。颯爽と現れて、啖呵を吐き捨てる。強気な笑みは変わらなかったが、格好は昨日と百八十度違っていた。
蓮呀。ギャングのボス。
黒猫を連想させる黒い服装と赤いバンダナはない。白いブラウスにだらしなく灰色のセーターを着ていて、その胸にはネクタイ。そして黒いプリーツスカート。
昨日の強烈なキックをしたとは思えない細長い脚は、黒いニーソと茶色のローファ。どこからどう見ても、女子高生。ふんわり、猫っ毛の髪が靡く。
「…ん?」
猫みたいに軽やかな足取りで、男に歩み寄った彼女があたしに気付く。
きょとんと目を丸めてあたしを見る。あたしも髪型と服装が違うからすぐにわからなかったなか、或いはまた会ったことに驚いているのか。
真っ黒の瞳が、あたしから隣の幸樹さんに移ると、表情が変わった。
口の中に苦いモノが入ったみたいに顔をしかめて、幸樹さんとあたしを交互に見る。
それから睨み付けるように幸樹さんに、衝撃な一言を放った。
「ロリコン。」
ロリコンは藍さんの称号なのに、幸樹さんが言われた…だと…!?
幸樹さんは苦笑のような薄い笑みのようなよくわからない笑みを浮かべたまま沈黙している。
あたしと手を繋いでいたのがまずかったらしい。
藍さんと同じ称号をつけられて、大分ショックを受けているみたいだ。
「あの…あたしの、兄なの」
誤解をとこうとあたしは一応紹介した。すると蓮呀は目を見開く。そして間違い探しをするかのようにあたしと幸樹さんを凝視した。
「似てないけど」
「それでも、兄妹ですよ」
「シスコン。」
「……」
蓮呀は幸樹さんに冷たい眼差しを向けて吐き捨てる。
シスコンには否定できない。幸樹さんは困ったように微笑んで頬を人差し指で掻いた。
「それにしても、ここでなにを?学校ではないんですか?」
「うぜーんだけど。アンタに言われる筋合いねぇよ」
気を取り直して幸樹さんが訊けば、蓮呀は吐き捨てる。
その会話は、知り合いのような口振り。
今度はあたしが蓮呀と幸樹さんを交互に見る。
「あの、まさかっ……知り合いですかっ?」
「…椿さんも知り合いなんですか?」
幸樹さんも今知り合いだと気付いて目を丸めたが、苦笑を浮かべた。
「変な偶然だな…。べっぴんさん、蓮真とよぞらとこの人殺しドクターと繋がってるなんて。まるで運命みたいだな」
サラッと蓮呀は言い退ける。なんとも思っていないみたいに、それでもその目は疑うようにあたしを見張っていた。
まさか幸樹さんが彼女と知り合いだったとは、というか今。
蓮真君を蓮真と呼んだ?
裏現実者でもないのに、蓮真君の裏の名前を知っている。
というかそれより、今幸樹さんを───人殺しドクターと呼んだか?
「偶然というより、必然ですかね」
「アンタだけには言われたくない。じゃーね、べっぴんさん」
最後まで幸樹さんには冷たく、反抗的な態度で手を振り、蓮呀は軽い足取りでジャック犯の首根を掴むとズルズルと引き摺って「…妹、ねぇ…」と意味深に呟きながら、電車から降りていった。
開いた口が塞がらない。
「…なんなんですか!あれ!」
「いいんですよ。彼女はいつもああなので」
「いくらなんでも人殺しドクターはないでしょ!彼女も患者!?」
電車の扉が閉じてからあたしは起動して、幸樹さんに問い詰めた。
幸樹さんは首を横に振る。その顔は苦笑を浮かべたまま。
確かに幸樹さんは殺し屋だが、患者を救う医者だ。人殺しでも立派な医者。
それをなんだ、あの子は!
「納得いきません!あの態度!なんですか!?」
「落ち着いてくださいよ。彼女はああゆう人なんです、貴女が怒らなくても私は気にしません」
あたしの頭を撫でて幸樹さんは宥める。それでも落ち着かないあたしは奥歯を噛み締めた。
「今日は兄妹のデートなんですから、他のことは気にしないでください」
幸樹さんがデートに集中するよう言うから、あたしは必死に彼女の悪態を頭から追い出そうと試みる。大きく息を吐く。
あたしの手を握って、幸樹さんは立ち上がり電車から降りた。
昼食を摂ってから、レディースとメンズを交互に行って買い物をした。服やアクセサリー。互いのものは選んで、買った。
「下着は?」
「下着まで幸樹さんが選ぶ気ですか?」
「おや、だめですか?洗濯してるのでお互いの好みはわかっていますし」
服はともかく下着まで買われるのは、恥ずかしい。だが強制らしく、強引に手を引かれて下着売り場に連れていかれた。
「これ絶対兄妹の範囲を越えてますよね?」
「おや、恥ずかしいんですか?恥ずかしがらず、この透けたベビードールを着て寝てください」
「それ絶対兄妹の関係を踏み越えた発言ですよ」
超ギリギリだと思う。いやアウトだ。
初めから与えるものは与えてくる人だから、断っても購入された。
新しい服を買うのは久しぶりだ。
それを知ってて連れてきてくれたのだろうか。
タピオカジュースを飲んで休憩している間、考えた。
由亜さんがいたら、どうなっていたんだろう?
もっとはしゃいで服を見回っただろうか。もっと楽しく笑い声を上げていただろうか。幸樹さんが由亜さんを見つめる眼差しをまた見たら、あたしはどう思うんだろうか?
「椿さん?」
呼ばれて我に返る。
「大丈夫ですか?ぼーとしていましたが……」
心配そうに顔を覗くのは禁断症状かと思っているからだ。あたしは大丈夫と頷いた。
「幸樹さん。舞中さんに、付き合っている恋人とか聞いてません?」
「…恋人ですか。…見舞いに来ていた人が何人かいましたが全員友達と言っていましたよ」
顎に手を添えて思い返す幸樹さん。
「長い入院をしてたんですか?」と訊くと「詳しいことは本人に訊いてください」と患者の守秘義務を守った。
ほら、立派な医者だ。
「何故そんなことを訊くんですか?」
「……それは…」
舞中さんには想い人がいる。あのラブソングが耳から離れない。
きっと十中八九、ラブソングを捧ぐ相手は早坂狐月。
早坂狐月も舞中さんを想っている。幸樹さんが由亜さんを見る目と同じだった。
似ているんだ。
幸樹さんが由亜さんを失うように、早坂狐月は舞中さんを失う。
そんな気がする。
舞中さんは無邪気でありながら、危険な場所にいるから、それが由亜さんと被る。
「あたし、やっぱりこの件、遂行させます。だから帰りましょう、お兄ちゃん」
失わせるのは、嫌だ。
あたしは立ち上がり幸樹さんに言った。
「そうですね。デートはここまでにしましょう」
幸樹さんは快く承諾して、デートを切り上げてくれた。
その電車のこと。
蓮呀と関係を詳しく問い詰めようと思った矢先に、幸樹さんから訊かれた。
「彼女が言っていた……蓮真とは…那拓蓮真のことですか?」
「え?はい…ほら、彼を探してくれていた女友達が彼女だったみたいです」
「……そうですか」
あたしが答えてもスッキリしない顔で、向かいの窓を見つめている。
「変ですよね、彼女…表の人間のはずなのに……蓮真君の名前を知ってるなんて」
「……そうですね」
幸樹さんは上の空だったから、脇腹を小突いて意識をあたしに向けさせた。
「彼女と、どうゆう関係なんですか?」
「どうゆうって……知り合い程度ですよ」
「彼女、基本フレンドリーって聞きました。悪態つかれる知り合い程度ってなんなんです?」
腕を組んで問い詰める。困ったように幸樹さんは溜め息をついた。
「この話はここでは話せないから、今度にしましょう」
だだをこねる子供をあやすように幸樹さんはまたあたしの頭を撫でる。
あたしは膨れっ面をした。
絶対に聞いてやる。
そう決意して幸樹さんと別れてから、舞中さんが住む駅で降りた。
「あれ?今日はお客さんが多くて賑やかな日だ。どうぞ」
笑顔で出迎えてきた舞中さんは、またもやすんなりと部屋の中に通してくれる。
「さっきまで藍くんとハウン君が来てくれてたんです。ハウン君って男の子だったんですね!すっごく可愛い子だったんですが、口聞いてもらえませんでした」
舞中さんは報告するように言って、昨日と同じく机の前の椅子に座った。
「そろそろあたしを見張る理由を教えてくれませんか?」
にこり、と微笑んだ。
「…え?」
「前に乗ったことのある藍くんのバン、ここ数日アパートの近くに停めてあったじゃないですか。見張っているんでしょう?どうしてですか?」
首を傾げて、舞中さんは問う。
藍さんのバカ。もっと上手く張り込めよ。乗ってる車がバレてることも知らずに張り込むなって。
「あたし、殺しのターゲット?」
舞中さんは冗談めいて笑う。
依頼は明かさない。それがクライアントの希望。
だからその逆とは言えない。
「殺しのターゲットになるような心当たりがあるの?」
あたしはとぼけてソファーに腰を下ろした。
「心当たりといえばですね…」
あくまで冷静な舞中さんは、この状況を楽しんでいるようにも見える。いや、違う。これから起きる何かを楽しんで待ち構えているんだ。
プレゼントの中が期待で一杯のように、これから先起こることに期待している。
「昨日話そうと思ったんです」
クルリと椅子を回転させて、舞中さんはPCをワンタッチさせて起動させた。
そこに映るのは、"狐月組"という文字を背負うような狐のイラスト。
「ご存知ですか?」と訊かれたから、いいえと首を振る。
「ネットギャングです。ギャングと言っても悪いことはしてないんです、コミュニケーションサイトみたいなものでして。その中で依頼掲示板あって、なんでも引き受けてるんです。それがあたしのバイトなんです、何かを運んだり子守りだったり普通のアルバイト募集だったり」
勿論藍さんのコスプレも、と笑って付け加えた。
ネットギャングは名だけ。実際は変わったコミュニケーションサイトというわけか。蓮呀の自警団もどきのギャングとはまた違う種類。
じゃあ藍さんとはそのサイトを通じて知り合ったということね。
仕事を引き受けて報酬を得る掲示板か。ネット上は全く持って理解ができない。
でもそのネットギャングの名前が、狐月組ならば───それを立ち上げたのは早坂狐月?
「……それが貴女が殺される理由になるの?」
というか。なんで藍さんはこのことを放してくれなかったんだ。
早坂狐月と知り合ったのはこのサイトからだと、教えてくれてもいいじゃないか。
「あたしは、狐月組の"臨時ボス"なんです」
にっこり、何でもないみたいに然り気無く自然に舞中さんは微笑んで言った。
「本当のボスが留守の間、あたしが管理してるんです。この狐月組を」
一瞬難解の問題を突き付けられた気がして、あたしはポカーンとしてしまったが呑み込めた。
ネットギャングでも束ねるものはボスなのか。今は舞中さんが臨時で束ねているが、きっと本当のボスは、早坂狐月だ。
「……敵がいるの?」
「ちょっと因縁の敵がいまして、一応倒したんですけど……心当たりはそれくらいしかないです」
因縁の敵。ギャング同士の争いということになるのか。
だがきっとこれは表現実者のお遊び。
殺し屋を雇うほどではないはずだ。事実、これはコミュニケーションサイトみたいなものだと舞中さんも言っているのだからこれが原因で、早坂狐月があたしを雇ったとは思えない。
そもそも臨時ボスをやっているから命が狙われているなら早坂狐月が戻ればいい話。何故早坂狐月は留守にしているんだ?
「椿さんがあたしを殺しにきたんじゃなくってよかったです。…ならなんで見張るんですか?」
殺しにきたわけじゃないと理解した舞中さんはホッとした笑みを溢すが、疑問で首を傾げる。
「誤解よ。幸樹さん達が貴女と友達になるように勧めるから…過保護で」
「あ、あたしが椿さんの友達ですか?」
半分嘯くと、謎のシンガーソングライターとバレた時よりも真っ赤になった。
「あ、あたしなんかが?い、いいんですか?」
照れてる。
「皆いい子だって、好評よ」
「そんな…」
両手で自分の頬を押さえて照れていた。
「いい友達になれるって、あたしと友達になってくれる?」
「…ぜひ!こちらこそ!!」
喜んで舞中さんは頷く。
よし、じゃあ、それとなく早坂狐月があたしを雇った理由を探ろう。
「じゃあ黒葉と会ったのは、そのサイト?」
黒葉は裏現実の存在を知っているが、彼は表現実の裏社会にいるとコクウから聞いている。
黒葉経緯から命を狙われていないか探ってみた。
「黒葉とは掲示板で話したことあるんですが、出会ったのは偶然で…。あ、そう言えば最初"吸血鬼の子孫"って名前で登録してたな」
自虐か。自嘲的な名前をつけるあたり、コクウに似てるなぁ。
PCと向き合っていた舞中さんが不意にあたしを振り返った。
「椿さん、吸血鬼は好きですか?」
唐突にあたしに訊く。
「…好きよ」
「やっぱり!ホラー映画好きだからきっと好きだと思ってました!」
吸血鬼は好きだ。彼らには嫌われているが。
あたしがホラー映画好きだなんて、一体誰から訊いたんだろう?
「貴女も好きなの?舞中さん」
「あたしのことはよぞらって呼んでください」
にっこり、楽しげに笑いかけてから、舞中さんはPCをいじる。
「あたしも好きです。椿さんは、いると信じますか?」
背中を向けたまま舞中さんは訊いた。
思わず間抜けな声で聞き返す。
「いるって…なに?」
「吸血鬼です」
吸血鬼がいるかどうかを、問われているとやっと理解した。
その問いにも答えられない。
表現実者に、裏現実の秘密を明かしてはならないのだ。
秘密を知っているが、裏現実者。その秘密は守るべきもの。
明かしてはならない掟だ。
黒葉のような例外はともかく、彼女のような表現実者に、「はいいます」なんて軽々しく言えない。
「掲示板では色んな話題があります、レッドトレインもその一つで、あたしも黒葉も話してました。"たくさん見る"ので情報収集に役立つんです、椿さんの映画好きもここで知りました」
あたしの回答を待たずに舞中さんは続けた。
ネット上に情報が回っているのはいい気分ではない。
「今、吸血鬼探しをしてるんです」
あたしは目を丸める。
舞中さんが振り返り、PCの画面を指差す。
そこに映るのは掲示板。
スレッドのタイトルは、"吸血鬼"。
内容は"吸血鬼を見付けましょう"。情報を求めていた。
投稿者の名前は、"紅色愛名"。
聞かずとも彼女の登録名だとわかる。
既に百件以上の書き込みがあった。
早坂狐月が彼女を"何から"守りたいのか、これでわかった。
原因は、これだ。
舞中よぞらは────────────────────裏現実の秘密を暴こうとしていた。