憎悪と嫌悪
「……すみません……モドキの襲撃に遭い…………車は弁償します」
幸樹さんの車は乗り捨てた。血塗れで傷だらけの車で自宅に帰ることなんて出来ない。
注意を払いつつ一時間かけて帰宅すれば、家の前には腕組みして待ち構える幸樹さんとバイクの上に座った白瑠さんがいた。
ビクビクしながら、謝る。
外出した上に勝手に使った車を壊して捨てた。怒るのも無理はない。
黙って見下ろしていた幸樹さんが一歩踏み出した瞬間に目を瞑った。
幸樹さんから殴られたり蹴られた体罰は受けたことがない。けれども仏の顔もなんとか。幸樹さんも手を上げるかもしれない。
身構えたけれど、痛みではなく抱き締められる感触がくる。
目を開けば、幸樹さんがあたしを抱き締めていた。
「……帰ってきてくださり、ありがとうございます」
そう言ってきつく抱き締める幸樹さん。
あ……。慌ててあたしは謝罪する。
またあたしが溝鼠を殺しに行ってまた家出すると思ったのだろう。
繰り返されると、不安だったに違いない。
繰り返さない。同じ結果にはならない。
あたしはちゃんと帰る。帰ってくる。
アイツを殺して終わり。
それで解決だから。
あたしは幸樹さんの背中に腕を回して抱き締め返す。
「ごめんなさい。ごめんなさい、幸樹さん……」
「いいえ……帰ってきてくださったのですから、謝らなくていいんです……」
また幸樹さんをあたしを包んできつく抱き締めた。
そっと掌で頭を撫でてくれるから、私は幸樹さんの背中を撫でる。
「じゃあ俺車始末してくる」
白瑠さんがあたしと幸樹さんを横切った。
咄嗟に白瑠さんのジャケットの裾を掴んだ。
悪魔達は瞬間移動する術を持っている。いつここに現れて襲ってくるかわからない。だから別行動はしたくない。白瑠さんだって悪魔に勝てないかもしれない。
あの溝鼠は、あたしを挑発するために必ず大切な人から殺す。
だから一緒にいるべきだ。
不安で仕方なくて掴んでいるのに、白瑠さんは見開いた目を爛々と輝かせた。
喧嘩中にも関わらず、あたしが引き留めたからでしょう。
抱きつこうとしてきたので拒否するように避けて幸樹さんの背中に回る。
ガーン! と白瑠さんはショックを受けた。
「始末は掃除屋に任せましょう」
幸樹さんはそう言うと、家の中に入るように背中を押す。
未だに仲直りしないことに呆れた様子の蓮呀はなにも言わず、よぞらを急かして入った。
「お二人は何処に行っていたのですか?」
「ラトアと悪魔封じの材料を集めていたんですよ、貴女を監禁するためのね」
微笑んでさらり答える幸樹さんに、頬をひくつかせる。部屋に押し込まないところを見ると、信用してくれたみたいだ。
ラトアさんは夜まで自宅で休んでいるらしい。
「その悪魔封じは家にやった方がいいぜ。次の瞬間、パッとリビングに来る可能性があるんだからさ」
ドカッ、と我が物顔でソファに腰を落とした蓮呀は言いながら、テレビの電源をつけた。
なんとなくテレビの画面を見ると、緊急速報とテロップが目に入る。ニュース番組だ。
昨日一機の個人が所有しているらしい飛行機が爆発して海に墜落したらしい。
生存者を見付けるため捜索隊が潜っているが、機体の損傷は激しく望みは薄いと言っている。
立ち尽くしてそのニュースを見ていたあたしは、コートのポケットから携帯電話を取り出した。
コクウの携帯電話にかける。しかしプツリと切れて掛からなかった。遊太に電話を掛けるが同じく繋がらない。レネメンにも、蠍爆弾にも、黒の集団全員に掛けた。
何一つ、繋がらなかった。
崩れ落ちそうになって、ソファの背凭れに手をつく。
嘘だ。嘘だ、そんなっ。
あたしは同じく立ち尽くしてテレビを見ていた藍さんを見た。こちらを見ていた藍さんは、目を伏せて逸らす。
藍さんは言いかけていた。
アイツが狙うなら、自分ではなくもっと大切な人。
例えば────恋人。
コクウとあたしは別れた。でもその事実は世界には広まっていない。
だからコクウはあたしのもっとも大切な人だと思われたんだ。
だからコクウを────狙った。
コクウ達を狙った。
恋人で、仲間達を、狙った。
あの動画は、このための罠だったんだ。日本にいたコクウ達が、自分達のアジトに戻るために飛行機に乗るように仕向けた。
逃げ場なんてない上空で殺すため。
奴等には容易い。瞬間移動ができるならば、飛行機に乗り込み爆弾を置いて去るだけでいいんだ。
爆弾は奴の十八番。
足掻く暇もなく────爆発して墜落。
吸血鬼も身体が燃え尽きれば死ぬ。最強の黒の集団も、一網打尽。
あの溝鼠は、またあたしの大切な人をっ……!!
手に握った携帯電話が鳴った。非通知設定の電話。相手はわかっている。
またアイツが、現実を突き付けるんだ。
地獄を突き付けるんだ。
「────っ指鼠!!!!!!」
電話に出て怒鳴り付ける。
耳当てた携帯電話から、吐き気がするアイツの声が聞こえてくると思った。
でも、違った。
〔──…椿ちゃん……〕
耳に届いたのは、忘れかけていた声。
その声に意識が遠退きそうになる。まるで奪われてしまったように感覚が麻痺していく。
「椿さん、電話を切りなさい」
幸樹さんに肩を掴まれる。携帯電話を耳に当てたまま愕然とするあたしを見て、幸樹さんは様子が可笑しいことに気付いてしかめた。
〔────助けてっ……椿ちゃん…──〕
幸樹さんを見上げながら、彼女の泣きじゃくったか細い声を聞く。
幸樹さんが痺れを切らして携帯電話に手を伸ばした。
「──…由亜、さん……?」
彼女の名を呼んだ。
携帯電話に触れる前に、幸樹さんの手がピタリと止まった。
目を見開いた幸樹さんはあたしを見る。あたしの反応で電話の主が彼女だと知っても、直ぐには動かなかった。
バッ、とあたしから携帯電話を奪うと幸樹さんは耳に当てる。
「由亜……?」
彼女の返事を聞いた幸樹さんの顔が苦しそうに歪む。間違いなく彼女だ。
あたしは崩れ落ちた。
指の先まで感覚がない。情けないほど震えているのに、何も感じない。
由亜さんと初めて会ったのは、この家の玄関だ。
初めは嫌いだった。好きになりたくなかった。受け入れるのが嫌だった。
あまりにも彼女の心が美しくて優しくて、近付くことに抵抗を感じたから。
まるで汚れを浄化する人だった。
癒してくれたんだ。
友だちで姉で家族だった。
自分のことのようにあたしのために泣いてくれる人。
暖かい優しい愛で包み込む人。
彼女が奪われたことを思い出して、憎しみと共に感情が甦ってきた。
震える手を握り締めれば、痛みを感じた。掌に爪を食い込ませる。
彼女の携帯電話で電話をかけてきたこと。地獄に突き落とした電話。
アイツの顔。突き刺されたナイフの痛み。何度も突き刺した感触。
どす黒い感情が支配する。
歯を噛み締めて、立ち上がった。
後ろを振り返ると後ろに立っていた白瑠さんにぶつかる。白瑠さんは私の両腕を掴んだ。
「だめだ、椿」
「嫌っ放してっ、放してください! アイツをアイツをっ殺してやる!! 何度でも殺してやる!!」
「椿! だめだ!」
振り払おうともがきながら叫ぶ。
白瑠さんの手は振り払えなかった。
「だめだ!? アイツは、アイツはっ! コクウを殺したんですよ! あたしの大切な人をっ、また! あたしの仲間を殺したんです!!」
「それでも行くなっ!」
捩じ伏せられてあたしは床に腰を落とす。背中に壁、前には白瑠さん。この体勢では起き上がれない。
行くな。だめだ。
そればかりだ。
泣きたくなって、もがくのを止める。
「どうしろと言うのですかっ……! あたしのせいで死んだ由亜さんがあたしのせいで甦らされて苦しめられているのにッ!! 仲間が次から次へと消されるのを……黙って見てろと言うんですか!?」
叫ぶと何かが落ちる音がした。幸樹さんが携帯電話を落としたらしい。
背凭れに手をついて俯いている。
幸樹さんの愛する人を奪った挙げ句に、甦らせて人質にした。
あたしを誘き出すために。
あたしに──違う、あたし達に復讐するためだ。
「あの溝鼠はっ……いえっ、悪魔達はあたしに喧嘩売ってるんですよ!! 首謀者はウルフ! だからウルフは溝鼠を甦らせた! あたしの恋人だったコクウ達を殺すために宣戦布告の動画はアジトで撮って飛行機に乗らせてっ……!!」
あたしに深い恨みがある指鼠を死者を甦らせる能力を持つ悪魔を宿したウルフが甦らせた理由。
ヴァッサーゴを宿したあたしに、仲間になることを拒んだあたしに、一体何がしたい。何が目的だ。
かわい娘ちゃん。これは序の口だぜ。楽しんで。
ウルフがあの動画であたしに向かって笑っていた時に気付くべきだった。
そうすれば、そうすれば、コクウ達はっ……!!
「あたしはっ……あたしはどうすればっ……どうすればいいんですか! 殺しを断って貴方達と生きたかった! でもっ、大切な人を奪われるなら意味がないっ!! 生きてる意味がないんです! 悪魔に生かされたあたしは、奴らに地獄を見せられなきゃいけないのですか!? 血塗れのあたしにはその最期がお似合いなんですか! 大切な人を全員殺されて絶望を味わった後に殺されることがっ、あたしに相応しいのですかっ!!?」
「違うっ!!!!」
思わず、震え上がる。
白瑠さんの怒鳴り声。
目の前にいる彼は、怒りと言うより苦しそうな表情。あたしの腕を壁に押し付ける手が強くて、痛い。
「違うっ! 違う違うっ! 絶対に違うっ!! そんなの違うっ! 俺が許さないっ!! 椿はっ、椿は死なないっ!! 死なせない!!」
震えて叫ぶ白瑠さん。
額が重なる距離になって、白瑠さんは泣きそうな顔になった。
「死にに行かないでよ……椿……。俺達はここにいるから、君もいてよ……」
「…………由亜さんが、アイツらに捕まっているんですよっ」
「……彼らの思うツボです。狙いが貴女を誘き出すためならば、尚更行かせられません」
幸樹さんまで、行くことを拒む。死んだ恋人を生き返らされて人質になっているのに、あたしを優先する。
なんで、なんで。
なんであたしなんかを。
何故あたしなんかっ!!
ダンッ!!
そこに大きな物音が響いた。
ソファに座る蓮呀が、コーヒーテーブルに足を乗せている。足を落とした音だったみたいだ。
「胸糞わりぃな……アンタらの過保護」
そうテレビを見据えながら、彼女を吐き捨てた。
「甘やかしすぎ、つうか重宝しすぎ。なにその束縛、まじで異常。吐き気が覚えるほどキモいぜ。甘やかして育てると、ろくな人間にはならねーよ」
淡々と、でも嫌悪を込めて蓮呀は言う。
「憎しみってもんはさ、醜くする感情だ。べっぴんさん、アンタ今すげー醜いぜ。わかるだろ? 胸を支配するどす黒い感情。本当に憎いなら消えてかねーよ、それ。一生付きまとう。相手を視界に入れるだけでも膨れ上がる憎悪、それが醜すぎで嫌にならねーか? それで自分が醜い怪物になっていくのを感じねーか? 死んだ大切な人を甦らされたら、俺だって殺しにいくさ。憎しみを拭いたいなら、相手を視界に入れなければいい。相手が視界に入るなら────殺すしかねーよ」
綺麗な顔に嘲笑を浮かべて、蓮呀はあたしに向かって吐き捨てる。
「幸いアンタらは既に手が汚れてんだ、最後に殺しちゃえよ」と付け加えた。
他人事だから、嘲る。
「ウルフとソイツについてる悪魔さえ殺しちゃえば、もう完全に終止符が打てるだろ。わぁぎゃあ騒いでないで、ちゃっちゃと居場所聞き出して戦争やりゃいいじゃん。アンタらの世界は、殺るから殺られるかの裏世界。生きたきゃ殺ればいい。そーゆー最低な世界なんだろ。殺されるのを待つか、戦って生存を勝ち取るか。二択しかないだろ? どうせ逃げられないなら死ぬ気で殺しにいけばいいじゃん」
耐えきれなくなり、力が緩んだ白瑠さんの手を振り払い立ち上がり、蓮呀の元に行く。
パンッ!
そして蓮呀の頬を叩いた。
シン、と一度その場が静まり返る。
蓮呀は立ち上がるとあたしを見据えた。
「汚れた手で触んなよ」
嘲笑を浮かべて、蓮呀は言う。あたしはナイフを取り出して彼女の首に突き付けた。
蓮呀は動じない。
「刃向ける相手を間違えてるぜ。牙を向けてくる狼と鼠だろ? 向けられる牙はへし折れよ」
「貴女も向けてるでしょ」
「俺は皮肉を交えて教えてやってるだけだぜ、最善策をな。甘過ぎる保護者が臆病風吹かせてるから背中を押してるんだよ」
そう言って、蓮呀は白瑠さんと藍さんと幸樹さんに目を向ける。あたしはナイフを彼女の肌に突き付けた。
「眠ってた死者を叩き起こされたのに、なにもしないのかよ? ドクター、アンタの恋人だろ?」
「黙れ蓮呀!!」
「死んだ兄貴が甦らされたら、俺は兄貴を眠らせにいく。アンタ、一人で行くつもりだろ。ドクター」
「!」
あたしと対峙しながら、蓮呀はソファの後ろに立つ幸樹さんに言う。
あたしが目を向けると、幸樹さんは目を伏せていた。否定しない。
一人で行ったら最後。死ぬ。
愛する人が死んでもなお苦しめられるなら、当然行く。行ってしまう。
でも行ったら死ぬ。
あたしは、幸樹さんを失ってしまう。
ガッ!
ナイフを突き付けていた右腕の関節に蓮呀の拳が入れられた。
それから腹に蹴りを入れて飛ばされる。
「アンタの兄貴を殺してやるっ!! 殺してやる! 殺してやる!!」
「!」
蓮呀は憎しみで顔を歪んで叫んだ。しかし言い終わると笑った。
「ほら。醜いだろ?」
あたしの真似だ。
指鼠を殺してやると喚いたあたしの真似。
一人用ソファに腕をついてから体勢を立て直して、ナイフを振るった。
蓮呀の首を掻き切る動作に入ったが、間によぞらが入ってきたため寸前で急停止する。
「殺すならあたしを殺してください」
無感情によぞらは言った。
「悪魔の目的が椿さんなら、狐月さんが貴女に依頼したのは悪魔の計画の一部。あたしは餌だったと言うことでしょう。殺してください」
「……早坂狐月が貴女を餌にするわけがない。彼はウルフに上手く利用されただけかもしれないわ」
「……狐月さんの望みが過去に戻ることならば、あたしのことなどどうだっていいと思ってるはずですよ。過去ならば、あたしなんていませんから」
よぞらは自分は餌にされたと結論を出した。
早坂狐月が時間を巻き戻したいと悪魔に願うならば、よぞらと出会う前になるだろう。
つまりは早坂狐月とよぞらは会わなかったことになる。
出会わなかったことになる。
だからこそ、自分の配慮などない。
よぞらは自嘲を浮かべた。
この場にいる全員、いや眠っているハウンくん以外が悪魔達に感情を掻き乱されている。
いや、あたしが引き金を引いたんだ。
「まだべっぴんさんが狙いとは限らねーだろ。べっぴんさんの自意識過剰かもしれない」
そう言って蓮呀はよぞらの肩に腕を回してあたしのナイフを退けた。
「悪魔と吸血鬼の戦争の終止符は黒にーちゃんが打ったんだろ? その線で殺しただけかもしれないじゃん。ま、仮にべっぴんさんが標的だとすりゃ……指鼠の復讐は続くだろうな。ここに襲撃しないところを見ると、どうやらいたぶる方法で追い詰めるみたいだ。人質を用意したなら、べっぴんさんを手招いてアジトに誘ってるんだろうな。何故べっぴんさんが狙われるのか、ヴァッサーゴを拷問してでも訊くべきなんじゃね?」
まだ悪魔達の目的に確証がないため、蓮呀は他の可能性も考えている。
確かにコクウが悪魔に狙われた理由は、"戦争の終止符を打った吸血鬼"だからかもしれない。
だが爆破されたならば、やったのは指鼠だ。
指鼠は確実にあたしへの挑発として、コクウ達の飛行機を落とした。
「ほら、お嬢達座って? ぶいちゃんから話を聞こう?」
藍さんが更に割って入ってあたし達を宥める。
あたしはナイフをしまって幸樹さんを見上げた。
目を合わせた幸樹さんは力なく微笑むと、あたしの肩に手を置いてソファに座るように促す。
よぞらと蓮呀も三人用のソファに座り、そこに藍さんも座った。
あたしの後ろに幸樹さんと白瑠さんが立つ。
あたしは銀の指輪を外した。
初めはなにも起こらなかった。けれど忽ちコーヒーテーブルの上に黒い煙が現れて渦を巻く。それが徐々に大きくなり、やがて人の形を作り上げる。
礼儀悪くテーブルの上に、片膝を立てて座る切れ目の男が現れた。
「いい報せは一つだけ」
ずっとあたしの中で見ていたのだからこちらの用件はわかっている。
ヴァッサーゴはつまらなそうな顔で、誰もいないリビングのテーブルを見ながら低い声で言った。
「ウルフは椿を殺すことが目的じゃねぇ」
あたしの殺害は、目的ではない。
「悪い報せは山ほどある。先ず、指鼠は椿やてめぇらをいたぶる気でいる。それも椿が"殺してくれ"と叫ぶまでやめる気はねぇ。それがなくとも、だ」
一度言葉を止めると、あたしを横目で見た。
「椿は奴らに苦しまされる」
言い切る。
例え指鼠が加えられていなくとも、ウルフ達はあたしを苦しめると。
「何故椿さんが? お前が憑いているからですか、ヴァッサーゴ」
「ハン。そうだ。皮肉にも椿を生かしているオレ様が憑いてるからだ」
幸樹さんの問いにヴァッサーゴは嘲笑を浮かべて肯定する。
「仲間になることを拒んだから?」
「仲間になろうがならまいが、椿は苦しめられる」
「……苦しめられるって、どういう意味?」
「………………」
あたしが問うと、ヴァッサーゴは沈黙を返した。あたしが狙われる理由を、ヴァッサーゴは言わない。
殺したいからではない。
ならなんだ?
「とにかく、狙いは十中八九べっぴんさんってわけだ? 奴らは瞬間移動出来るのに、なんでべっぴんさんを拐わない?」
次は蓮呀が質問した。
「いたぶるためだろ。それと……椿から狩人と吸血鬼の目を逸らすためだ。椿が狩られちゃ、奴らは困るからな」
「悪魔にはべっぴんさんは利用価値があるってわけか」
「……だから宣戦布告の動画を……」
狩人に悪魔退治屋に吸血鬼に標的にされていたあたしを、狩らさないためにあの派手な宣戦布告の動画を流したのか。
悪魔にはあたしが必要な理由がある。なんであれ、あたしが苦しむことになる。
ヴァッサーゴはそうならないようにずっとウルフを避けるように言っていたのか。
つまりウルフと街中で偶然出会った時から、あたしは目をつけられていた。ヴァッサーゴはずっと黙っていたんだ。
あたしはヴァッサーゴを睨み上げる。ヴァッサーゴは知らぬフリ。沈黙の悪魔め。
なんにせよ、吸血鬼を滅ぼすためにあたしが必要なのだろう。
「ああ、もう一個朗報があったな。てめぇのねーちゃんは甦ってねぇよ。サミジーナは確かに人間を甦らせる力を持ってるが、相手が望まなきゃ叶わない。強い復讐心がなきゃ、操れねぇからな。さっきの声はサミジーナが死者の声を真似たもんだ」
「……じゃあ、由亜さんは人質にされてないのね」
「ああ」
それを聞いて一時的な安堵を感じ、同時に疲労に襲われて額に掌を当てた。
あの幼女悪魔の最低な悪戯か。
「だが、べっぴんさんを招待していることに間違いはねぇんだろ? ドクターさんよ、電話で悪魔はなんつってた?」
すかさず蓮呀は幸樹さんを横目で見上げて問い詰める。
あたしをアジトへ招待するための電話だ。何かを聞いたはず。
あたしも後ろに立つ幸樹さんを見上げたが、言わなかった。
「その場所は悪魔退治に行ってる野郎共に教えればいい。てめぇらは人間と吸血鬼が勝つことを祈ってこの家に籠ってろ」
ヴァッサーゴは聞こえたのか、それとも初めから知っていたのか、幸樹さんに言わないように釘を刺す。
そして忠告する。
「行けば確実に椿を奪われるぞ」
そう言えば、絶対にあたしを行かせなくすることをわかっているヴァッサーゴ。
直接対決を望む蓮呀は不機嫌な顔になる。
「狩人達が悪魔を狩るのが先か、ここにいて襲撃を受けるのが先か」
「ハン。相手のテリトリーに足を踏み入れるより、襲撃を待つ方が生存率は高ぇよ。悪魔の巣窟は、地獄だぜ」
からかうようにヴァッサーゴは蓮呀に笑って見せた。
確かに何が仕掛けられているかわからない悪魔の巣窟。悪魔との戦闘経験のないあたし達では不利過ぎる。
例え対悪魔の武器が手に入っても。
こちらはあちらから来るのを待った方が勝算はまだある。
悪魔側は頭がキレるタイプばかりだろう。その悪魔が参謀に選んだ早坂狐月には警戒すべきだ。
悪魔のテリトリーはあまりにも危険。
まだ他のフィールドがまし。
一番いいのは一匹一匹を殺すことだが、そう簡単に一匹になってくれないだろう。
「……今は備えましょう」
いつでも戦えるように、備える。それが今やるべきことだろう。
悪魔避けの水がある。
少なくともリビングにフッと音もなく現れることはないだろう。
あとはラトアさんの知恵を借りて、武器を使う。悪魔憑きの人間は首を切り落とせばいい。
人間の頭を吹き飛ばすことが得意な白瑠さんがいる。
その白瑠さんを見ると、しゃがんでいた彼はじっとヴァッサーゴを観察するように見ていた。
「……ぶーちゃん。なんで椿が狙われる理由を、教えないの?」
「あ? 知る必要ねーだろ」
「あるよ。椿が苦しめられるんだから」
白瑠さんは威圧感ある射抜くよう眼差しを向ける。
理由がなんであれあたしが苦しむから、白瑠さんは怒りを沸かせていた。
なんとなく、ヴァッサーゴが言わない意図を理解する。
この時点で白瑠さんは怒っている。内容を明かせばぶちギレて白瑠さんが殴り込みをするから、話さないんだ。
白瑠さんは大事な戦力であり、あたしの大切な人だから。
「教えてよ」
痺れを切らして白瑠さんは殺気を当てる。
いつでもヴァッサーゴに飛び掛かりそうだ。
「一生知らなくてもいいこともあるんだぜ、白野郎。あ、そういやぁ椿がお前に話があるらしいぜ?」
あたしで白瑠さんの気を逸らすと、ヴァッサーゴは煙と共に消えた。
白瑠さんがあたしを見上げる。ヴァッサーゴめ。
あたしは白瑠さんに話さなければならないことを脳裏に浮かべたが、直ぐにコクウのことを思い出してやめる。
元カレが殺されたのに、何を言えと言うんだ。
あたしはそっぽを向いた。
「よぞら。早坂狐月について、あとで話しましょう」
「……はい」
「あたしは少し休みます。……くれぐれも監禁しないでください」
あたしは立ち上がりよぞらに伝えてから、幸樹さんに釘を刺す。互いに黙って家を出ていかないように、目を合わせて約束する。
幸樹さんはあたしの頭を撫でると軽く背中を押した。
手を振る藍さんと落ち込む白瑠さんを一瞥してから、自分の部屋に入る。
ドアを背にその場に崩れ落ちた。
「……っ」
初めは受け入れられなくてそっぽを向いていたが、気さくでノリがよくて笑いの絶えない連中だった。
あたしを包み込むような愛してくれた恋人は、自己犠牲癖があって時折ムカついたがとても優しくて、傷付いたあたしを癒してくれた。
彼らと過ごした時間を思い出して、コクウに愛された時間を思い出して、涙を流す。
声を圧し殺して、泣いた。
気が付くとベッドの上に、横たわっていた。目の前には白瑠さん。
あたしを抱き締めた形で、白瑠さんは眠っている。
泣き付かれて寝てしまったところに部屋に入ってきたのだろう。
それであたしをベッドに運んで、自分も横になって寝た。
すやすやと眠っている寝顔。
乱れたYシャツから露になる肌を見る。跡はないけれど、あたしが刃を突き刺したお腹に掌を当てた。
すると白瑠さんが笑みになる。
「んにゃー……くすぐったいよぉ……つーちゃん……」
むにゃむにゃと口を動かしてたじろぐと、背中に回していた腕であたしを引き寄せた。
寝惚けているこの人は、コクウが殺られてもダメージなしか。
あっさりと裏現実の黒の暗殺者が殺された。
対等に恐れられたこの白の暗殺者である白瑠さんも、あっさり殺されてしまうのだろうか。
悪魔相手では、吸血鬼も人間も簡単に殺せる。
この人まで奪われたらあたしは。
あたしはきっと。
本格的に壊れるだろう。
もう自分でも誰でも、止められなくなる。
破壊しても破壊しても止まらない。死ぬまで、殺されるまで、止まらなくなるはずだ。
目の前の寝顔を見つめて、被った冷たい笑みの仮面が外れた白瑠さんの表情を思い出す。
仕事で初めてあたしが死にかけた時、笑みの仮面を外して一心に敵に怒りを向けていた白瑠さん。
初めて笑わずに殺す白瑠さんを見たあの時の表情。
その後に、不安げに焦ったようにあたしを覗き込んだ返り血を浴びた真っ赤な白瑠さん。笑いかければ、安堵した笑みを溢したあの顔。
白瑠さんがあたしを失う恐怖を味わったと言っていたあの後からだ。向けてくる笑みに、あたたかみがある笑みになっていた。
寂しそうにあたしの首を見つめる白瑠さん。苦しそうにあたしを抱き締める白瑠さん。怒って唇を尖らせる白瑠さん。涙を溢す白瑠さん。落ち込む白瑠さん。
そして、必死にあたしの最期を否定していた白瑠さん。
あたしを失った白瑠さんも同じかもしれない。同じく本格的に壊れるかもしれない。
笑う殺戮道化師が、止まらなくなるだろう。
殺し続けた罰だと思う。
いっそのことそうだと言われれば、潔く死を受け入れられるのに。
周りはあたしを生かそうとする。
例外が一人いるけれど。彼女には殺意が沸く。嫌悪が沸く。
あたしを今生かしているのは、間違いなくこの人達の愛だ。
だから奪われたら、もう心は死ぬ。
心臓が動き続ける身体でも、破滅する。
彼らがいなければ、生きている意味なんてないんだ。
「んっ……」
俯くと額に白瑠さんの唇が触れた。
白瑠さんは夢を見ながら、あたしの額にキスをすると鼻を擦り付けて香りを堪能するように吸い込んでは息を深く吐いた。
あたしが顔を上げれば、唇と唇が重なる。
静かに離して、願う。
どうか────殺されませんように。