氷の令息の嘘と、メイドの報告書〜悪役を演じる貴方に、誰も騙されていません〜
灰色の空が低く垂れ込め、北方の冷たい風がアルト村の土埃を巻き上げていた。
かつて王都のサロンで氷の令息と持て囃された男は、今や煤けた麻のシャツをまとい、村はずれの傾げた小屋で暮らしている。
側室の子として生まれ、本妻の子である次男との家督争いを自らの手で終わらせるため、彼は悪役を演じきった。弟の未来を守るためにすべての罪をかぶり、この凍てつく辺境へと追放された足取りには、わずかな迷いもなかったはずなのに、喉の奥には常に乾きが張り付いていた。
「……足元くらい、よく見て歩け」
くすんだ雪が残る畑の脇で、エドガーはぶっきらぼうに吐き捨てる。転んで膝を擦りむいた村の少年が、怯えを含んだ涙ぐむ瞳で顔を上げた。エドガーはかがみ込み水魔法で丁寧に傷口を洗う、治癒魔法を苦もなく使用し傷を消すと、乱暴に少年の膝を叩いて、そのままスタスタと背を向けて立ち去る。
少し離れた場所からその様子を見ていた少年の母親は、小さく息を漏らした。
「やだねぇ、あんなに優しいお方が、中央では血も涙もない悪党扱いされているなんて……。不器用なんだから」
「全くだ。若様が来てから、この村の冬支度は例年よりよっぽど捗ってるっていうのにね」
周囲の村人たちは穏やかな目を細め、誰一人としてエドガーを恐れてはいない。荒れた畑の開墾も、雪害に備えた家屋の補修作業も、すべて彼が率先して引き受けていることを誰もが知っていた。
パキン!バキッ!
その日の夕方。エドガーは村の老人が住む納屋の裏で、黙々と薪割りに勤しんでいた。硬質な音を立てて、太い丸太が均等なサイズに割られていく。
しかし、足音が近づいたのに気づくと、エドガーは慌てて手を止めた。納屋から顔を出した老人に発見されそうになり、わざとらしく顔をしかめて大きな溜息をついてみせる。
「っ、貴族の労働を見せ物にするな!これの倍の量の原木か玉切りを俺の小屋の前に用意しておけ、老いぼれ!」
無理やり作った悪役じみた捨て台詞を吐き捨てると、エドガーはそそくさとその場から逃げ出していく。
それを少し離れた場所から目撃していたのは、元・専属メイドのセラだった。手元の洗い物を中断し、慌てて去っていく背中を見つめながら、呆れと、それを遥かに上回る愛おしさが入り混じった複雑な笑みを浮かべる。
夜。ランプの黄昏た光が小さな机を照らす中、セラは一人の時間を過ごしていた。手元には、上質の羊皮紙とインク壺。この辺境でのエドガーの動向を定期的に中央へ報告することが、彼女の課された任務だった。
ペンを持つ指先が、白く強張る。
『……本日もエドガー様は自暴自棄にならず、地道に村の雑務に励んでおります。このままでは民の人心を集め、いつか中央へ戻る口実を得かねません。危険です』
本来であれば、そう書き連ねるべきだった。それが監視役としての役目なのだから。しかし、セラは昼間のエドガーの背中を、村人たちの笑顔を思い出していた。ペン先からインクの雫がぽとりと落ち、白い紙に黒い染みを作る。
彼女は震える指先でペンを置き、冷えたインクの匂いが漂う部屋の中で、ただ静かに窓の外の闇を見つめていた。
アルト村に春の足音が少しずつ近づき始めたある日のこと。穏やかな日常を切り裂くように、一架の華美な馬車が雪解けで泥濘んだ村の道を揺らぎながらやってきた。実家から派遣されてきたという商人は、上質な衣服をまとい、胡散臭い笑みを張り付かせている。
商人が持ち込んだのは、辺境の村が誇る特産品を不当な安値で買い叩き、さらには違法な抜け荷の取引書面に、エドガーの直筆サインを捺印させるというものだった。それが家の外に出れば、辺境での私腹肥やしおよび反逆の意思という動かぬ証拠となり、二度と這い上がれない奈落へと突き落とされる。村全体をも巻き込んだ、逃れられない罠だった。
書類に目を通した瞬間、エドガーの喉の奥が微かに引き攣る。鋭い洞察力が、紙面から立ち上る悪意の輪郭を捉えていた。
ここで拒絶すれば、しびれを切らした奴らが別の、もっと露骨な手段で村を潰しにかかる。自分一人であればどうとでもなるが、ようやく穏やかな日常を取り戻しつつあるこの村の民を犠牲にするわけにはいかない。
エドガーはわざと浅ましげな欲に目がくらんだ男の顔を作り、商人の前で嘲るように不敵な笑みを浮かべてみせた。
「ほう……これだけの利潤が出るなら、悪くない。商売とは非情なものよ。こんな寒村の連中の生活など、俺の知ったことか」
吐き捨てるような台詞とともに、エドガーは躊躇いなく羊皮紙に自らの署名を書き記す。商人は満足げにいやらしい笑みを浮かべ、企みを成功させた悦びに浸りながら、そそくさと馬車で引き返していった。
一部始終を遠巻きに目撃していた村の長である老人は、商人が去った後、複雑な面持ちでエドガーの小屋へと足を運んだ。
「若様……。あんな悪党の言いなりにならなくても、俺たちが、村の全員であなたを守ってみせますのに……」
老人の枯れた声には、深い感謝と痛切な悔しさが滲み出ている。しかしエドガーはあえて老人を直視せず、わざと冷たく顔を背けた。
「……勘違いするな。俺は自分の欲のためにやったまでだ。お前たちの生活などどうなろうと知ったことか。……失せろ」
冷徹な拒絶の言葉を残し、エドガーは乱暴に戸を閉ざす。木の壁が乾いた音を立てて小さく震えた。
そのやり取りのすべてを、少し離れた物陰から様子を窺っていたセラは、手元の布を強く握り締めて立ち尽くしていた。やがて、エドガーが去っていった静かな空間に取り残された老人が、ぽつりと呟いた言葉がセラの耳に届く。
「……本当に、優しすぎるお人だ。あんな不器用な若様を、一人で泣かせておくわけにはいかないねぇ」
その言葉を聞いたセラは、心の中の迷いを完全に消し去る。エドガーがどれほど冷たい言葉を吐こうとも、どれほど悪役を気取ろうとも、この村の人間は全員、彼の本質を見抜き、深く敬愛していた。
監視役という立場も使命も、いまやセラのなかで色あせていく。エドガーの孤独な戦いを知ってしまった以上、彼を支え、その背中を守り抜くことは、セラにとっての新たな誓いとなっていた。
村の温かな真実に触れ、エドガーの孤独な優しさを知ってしまった今、セラの手は虚偽の報告を拒絶していた。
あの冷徹で歪んだ言葉の裏に隠された本心。民に愛されながらも誰にも甘えず一人ですべてを背負おうとする姿を思い返せば、これ以上彼を貶める文字を綴ることはできない。
カサカサ、カサカサ
静寂の部屋にペンが走る音だけが響く。迷いを断ち切ったセラの瞳には、かつての冷ややかな監視役の色はなく、揺るぎない決意が宿っていた。彼女は流れるような筆致で、家臣たちが読めば青ざめるであろう真実を書き上げていく。
『エドガー様は一族の恥などではなく、民に深く愛される気高い方です。このまま放置すれば、いつか貴方たちの足元をすくうでしょう』
それは監視報告という名の、鮮烈な警告状だった。セラがインクを乾かそうと羊皮紙を持ち上げた、その時である。
ドンッ、と激しい音を立てて部屋の扉が勢いよく開け放たれた。
「た、頼むセラ!その報告書は待ってくれ!書き直してくれ……!」
そこにいたのは、普段の冷徹な仮面を完全にかなぐり捨てたエドガーだった。いつもは整えられている髪は乱れ、寒いはずの夜気の中を走ってきたのか、その顔は赤く火照っている。ゼーゼーと荒い息をつきながら、セラの机に両手をついて前のめりに懇願した。
「えっ、エドガー様……?」
突然の来訪と主人の取り乱し様に、セラは目を丸くして手を止める。しかしエドガーは驚きを気にする余裕もなく、必死な相貌で言葉を続けた。
「ろくでなしで、どうしようもない下劣な男だと……そう書いてくれ!弟を担ぎ上げる奴らに、俺がまともだと知られたら……お前や村人にまで類が及ぶ……!お願いだ、俺を徹底的にクズだと書け、書いてくれ……!」
必死に頭を下げるエドガー。その背中は、自分の名誉も誇りも命すらも投げ出して、ただ大切な人々を守ろうとする無私の優しさに満ちていた。
自分の身を削ることを厭わない、その姿を目の当たりにし、セラの胸の奥がじわじわと熱を帯び、やがて痛みを伴うほどの質量で満たした。
荒い息を整えながら、必死の面持ちで頭を下げるエドガー。己を顧みず、自分を巻き込むまいとする必死さに、セラの胸は激しく波打っていた。こんなにも愛おしく、守りたくなる男が他にいるだろうか。
セラはふっと柔らかく微笑むと、エドガーの懇願で書き損じのようになった羊皮紙を、そっと自分の背中へと隠す。
「嫌です」
きっぱりとした、しかしどこか甘やかな拒絶の声に、エドガーはハッとして顔を上げた。
「なっ……!おい、セラ!それじゃあ俺が泥をかぶった意味が……!」
「意味ならあります。エドガー様がどれほど村の人々に愛され、そしてどれほど周囲に優しくなさる方か、私には嘘偽りなく書き残す義務がありますので」
「お、おい、待て!それを家の連中に見られたら、俺が叩かれるだけじゃなく、お前まで……!」
焦燥の色を隠せず、エドガーは必死に手を伸ばそうとする。しかし、セラはその焦る彼を制するように、ゆっくりと確かな足取りで一歩、また一歩と距離を詰めた。
「エドガー様」
「っ……なんだ、真面目な顔をして」
追いつめられたように身を引こうとした足が、古い床板にぶつかって止まる。これ以上下がれない彼の目の前まで歩み寄ると、セラは茶目っ気のある笑みを浮かべて小首を傾げた。
「では、条件を聞いていただけるのなら……この報告書の処遇は、少しだけ考えてあげてもいいですよ」
「じ、条件……?一体、なんだっていうんだ」
警戒と動揺が入り混じった瞳で身構えるエドガーに対し、セラは悪戯っぽく微笑みながら、そっと彼の胸元に指先を添えた。
「私を――これからもずっと、この辺境の地で、あなたの傍に置いてくれますか?」
「は……?」
言葉の意味を咀嚼した瞬間、エドガーの思考が完全に停止する。耳の先端から首筋まで、全身が一気に緋色に染め上げられた。氷の令息の仮面など、もうどこにもない。
「な、何を……お前は元々俺の専属メイドで、その、なんだ……!」
「ふふ、拒否されるなら、この、エドガー様は実は聖人のようなお方です、という真実の報告書を、今すぐ鳩に託して王都へ飛ばしますけれど?」
「っ……!お前、それじゃあ脅迫じゃないか!」
「さぁ、どうでしょう。メイドとしての忠義か、それとも――私を傍に置く覚悟か。どちらを選びますか、若様?」
真っ赤になりながら言葉を詰まらせ、タジタジになるエドガーを見つめながら、セラの胸にはあたたかな幸福感が満ちていく。偽りの悪役が紡ぐ冷たい嘘よりも、今、目の前にある不器用な赤面と温もりこそが、彼女にとっての何よりも確かな真実だった。
北方の冷たい風が外で静かに吹き抜ける中、二人の間には、甘く穏やかな春の気配がそっと満ちていく。




