第七城壁の夜番 〜新米騎士は、規則の外で敵の子を拾う〜
◆一 通報の笛
その年の初雪は、夜番の刻限に降りはじめた。
カステラルの北面、第七城壁。石を高く積み上げたこの要塞の国は、どこもかしこも冷たい灰色をしている。ガレンは槍を抱えたまま、雪の落ちてくる暗い空を見上げた。十八の新米騎士だ。夜番の持ち場を与えられて、まだひと月も経っていない。吐く息が白く凍り、城壁の松明がぱちぱちと燃えていた。
「ぼさっと空を見るな、新米。雪の夜がいちばん危ない」
同じ持ち場の古参兵ヴォルツが、槍の石突きで石畳を突いた。五十がらみの、岩のような男だ。夜番一筋二十何年、誰よりも早く異変に気づき、誰よりも容赦なく通報の笛を吹くので有名だった。
「雪は音を消す。あいつらは音のない夜に来る。……わしはな、角の生えた影を見たら、考える前に笛を吹く。考えるとためらう。ためらうと、殺される。息子はそれで死んだ」
ヴォルツはそれきり口をつぐんで、持ち場の先へ歩いて行った。その広い背中を、ガレンは黙って見送った。この城壁では、誰もが誰かを亡くしている。
夜番の待機所では、新米は先輩たちの無駄話を聞くのも務めのうちだった。その晩の話題は、月に一度の城壁法の暗誦点検だった。哨戒の刻限、狼煙の順序、糧秣の管理——新米が暗誦させられる条文は、それでも城壁法のほんの上澄みらしい。
「あんなもの、全部覚える阿呆はいない」と古株のひとりが笑った。「なにせ大戦より古い法だからな。857年制定だぞ。半分は死んだ条文さ。灯りの守りだの、旅人の道案内だの……壁が敵を防ぐためだけのものじゃなかった、のんきな時代の決まりごとが、廃止もされずに埃をかぶってる」
「消せばいいのに」と誰かが言い、まったくだ、と笑いが起きた。ガレンも笑った。そのときは、それだけの話だった。
ガレンの腰帯には、小さな木彫りの鳥が提げてある。掌におさまるほどの、翼を広げた渡り鳥の玩具。四年前に死んだ兄ロイクの形見だった。辺境の小競り合いで兄が倒れたあと、遺品の中からこれだけをもらい受けた。
覚えている。兄が初めてこの鳥を見せてくれた日のことだ。西の工業国の、名のある工房の品だと兄は自慢した。玩具を持ち歩く騎士なんて、とガレンが笑うと、兄は真顔で首を振った。
「渡り鳥はな、迷わないんだ。半年ごとに海を渡って、どこで冬を越しても、帰る空を忘れない。……おれたちの仕事は、迷いやすい。だからこいつを持ってる」
あのときは、意味が分からなかった。騎士の仕事のどこに迷うことがあるのか。敵が来る、防ぐ、それだけではないのか。兄は笑って、ガレンの頭をくしゃりと撫でただけだった。答えを聞く前に、兄は逝ってしまった。
兄のような立派な騎士になる。それだけを胸に、ガレンはこの城壁に立っている。
立派な騎士とは、なんだろう。ガレンにはまだ分からなかった。
兄を殺したのは魔族だった。だから魔族を憎むべきなのだと思う。ヴォルツのように、考える前に笛を吹けるほどに。けれど、いざ憎もうとすると、胸の内はうまく火がつかない。兄の死は悲しい。それは確かだ。だがその悲しみをどうやって憎しみに変えればいいのか、どうしても分からなかった。憎み方が分からない。それがずっと、後ろめたかった。
風向きが変わったとき、城壁の下でかすかな物音がした。
城壁の外、使われなくなった古い導水路のあたりだ。獣かと思った。だが雪を踏む足音は二本足のものだった。ガレンは松明を掲げ、壁の切れ目からそっと下を覗いた。
廃導水路の暗がりに、小さな影がうずくまっていた。
子どもだった。ぼろ布にくるまり、寒さに震えている。松明を近づけると、その頭に小さな二本の角が見えた。ガレンは息をのんだ。魔族だ。海を渡ってくるはずのない者が、なぜ城壁の下に。
規則は明快だった。魔族を発見した者は、ただちに通報の笛を吹く。身柄は捕らえ、尋問へ回す。夜番の絶対の掟だ。考える前に吹く——ヴォルツの声が耳の奥で響いた。ガレンは腰の笛を口に咥えた。息を吸い込む。あとは吹くだけだ。
だが、吹けなかった。
子どもが、胸に何かを握りしめていたからだ。震える両手で、宝物のように。松明の光がそれを照らした瞬間、ガレンの喉がひゅっと鳴った。
木彫りの鳥だった。翼を広げた渡り鳥の玩具。ガレンが腰に提げている兄の形見と——寸分たがわぬ、同じ鳥。
角の生えた魔族の子が、なぜ兄と同じ玩具を握りしめているのか。笛を咥えたまま、息を吸ったまま、ガレンは動けなかった。吹けばこの子は捕らえられる。吹かなければ自分は掟を破る。手が笛の上で凍りついた。
そのとき、背後で雪を踏む靴音がした。
「新米。報告することが、あるんじゃないのか」
ブリガ隊長だった。
◆二 詰所の奥
万事休す、とガレンは思った。
第七城壁の夜番隊長ブリガ。四十がらみの無愛想な女騎士で、規則には人一倍うるさく、陰では「規則の鬼」と呼ばれている。妙な人だ、という噂も聞いていた。腕を買われて中央の華やかな隊への栄転話が三度あったのに、三度とも断って、こんな北の果ての夜番に居座り続けているのだと。この人に見つかったら言い逃れはできない。子は捕らえられ、自分は掟破りを咎められる。ガレンは覚悟を決めて振り返った。
ところが隊長の取った行動は、まるで違った。
ブリガは城壁を下り、導水路の子どもに歩み寄ると、周囲をひと目うかがってから、小さな体をひょいと抱え上げた。そして無言のまま、詰所のいちばん奥、暖炉のある小部屋へ運び込んだのだ。
「隊長、その子は、魔族で」
「見れば分かる」ブリガは短く言った。「まず温めてやれ。凍え死にかけてる」
暖炉の火で子どもの震えは少しずつおさまり、温かい湯を与えると、ようやく口をきいた。ルゥ、と名乗った。九つだという。角のある額の下で、大きな目が怯えたように二人を見上げていた。
初めのうち、ルゥは椀を受け取ろうともしなかった。ガレンが近づくたび、小さな体が跳ねるように壁へ張りついた。鎧が怖いのだと、ブリガが先に気づいた。隊長は無言で胸当てを外し、床にごとりと置いてから、椀を差し出し直した。それでようやく、小さな両手が伸びた。よほど飢えていたのだろう、湯気ごと飲むような勢いだった。
「ゆっくり飲め。誰も取らん」ブリガはぶっきらぼうに言って、二杯目を注いでやった。規則の鬼と呼ばれる人の手つきは、驚くほど慣れていた。
腹が温まると、ルゥはたどたどしい共通語で事情を語った。母が重い病で、故郷の薬ではもう熱が下がらない。人間の国によく効く解熱の薬香があると聞いた。だから密貿易の船にこっそり紛れて海を渡り、人間の街でなけなしの銅貨を握りしめて薬香を手に入れた。ところが帰りの船とはぐれ、この城壁の下で次の船を待つうちに、雪に降られて動けなくなった。
「かあさん、しんじゃう」ルゥは小さな包みを見せた。薬香だった。「これ、はやく、とどけないと」
ガレンは黙って、腰帯から木彫りの鳥を外した。そして卓の上、ルゥの鳥のとなりに、そっと置いた。
翼を広げた二羽の渡り鳥が、暖炉の火に照らされて並んだ。彫りの癖まで同じ、同じ工房の同じ鳥だった。ルゥの大きな目が、まん丸になった。
「……おそろい」
「ああ。……どこで、これを」
「いちばで、かった。ふねのひとが、うってた」ルゥは自分の鳥を両手で包んだ。「つばさのとり、もってると、まいごにならないって。かえるそら、わすれないって。だから、かった。かえれるように」
ガレンは、言葉が出なかった。海の向こうの魔族の市場で、この子は兄と同じ売り文句を聞き、兄と同じ理由でこの鳥を選んだのだ。壁のこちらとあちらで、同じ玩具が、同じ願いを乗せられている。
ガレンの胸が鈍く痛んだ。この子は母のために、たったひとりで海を渡ってきた。捕まるかもしれない恐怖に耐えながら。ガレンが兄のために何もできなかった、あの歳の頃に。
だが、ガレンの中にはもうひとつの声もあった。
——こいつらが、兄さんを殺したんだ。
目を閉じると四年前の光景がよみがえる。ほんの小競り合いのはずだった。辺境で魔族の一団と警備隊がぶつかった、報告書にすれば三行の出来事。出立の朝、兄は行ってくる、と言った。土産に何がいいと訊かれて、十四のガレンは、剣がいい、と答えた。兄は笑って、考えとく、と言った。それが最後だった。
帰ってきた兄は、荷馬車の上で毛布をかぶっていた。母は棺にすがって泣き、父は一晩じゅう戸口に立っていた。ガレンは泣けなかった。泣くより先に、誰を恨めばいいのかを探していた。魔族。顔も名も知らない、海の向こうの誰か。恨む相手に顔がないというのは、行き場のない痛みだった。だからみんな「魔族」というひとつの顔を作って、そこに痛みを流し込むのだ。ヴォルツのように。この国じゅうの、誰かを亡くした者たちのように。
魔族は敵だ。目の前のこの子もいつか角を伸ばし、人を襲う者に育つのかもしれない。
それなのに。この子は兄と同じ玩具を、命綱のように握りしめている。母を想う気持ちだけは、ガレンと少しも変わらない。
そのとき、詰所の表で靴音がした。
重い、聞き覚えのある足取り。ヴォルツだ。交代の報告に来たのだ。ブリガが素早く手を上げ、ガレンは反射的にルゥを毛布ごと抱えて、薪の陰の暗がりに押し込んだ。戸が開き、雪まみれのヴォルツが顔を出す。
「隊長。北面異常なし。……ん?」
古参兵の鼻が、ひくりと動いた。ガレンの心臓が跳ねた。ヴォルツの目が、暖炉の前の湯呑み——小さな、子ども用の椀に留まりかける。
「わたしの夜食だ」ブリガが平然と椀を取り上げ、中身をすすった。「文句があるか」
「……いえ。交代まで、あと半刻です」
戸が閉まり、足音が遠ざかる。ガレンは詰めていた息を吐いた。膝が笑っていた。薪の陰でルゥが、声を殺して震えていた。この子は、こういう夜を幾つも越えて、ここまで来たのだ。
「規則どおりなら」ブリガが暖炉の火を見つめたまま言った。「この子は尋問送りだ。薬香は没収。送還は早くて何か月も先。その頃には、母親は保たん」
「じゃあ、どうすれば」
「破れば、お前は騎士でなくなる」ブリガはガレンを見た。「規則を破って敵の子を逃がした騎士なんぞ、この国に居場所はない。お前の兄が命を懸けて守った騎士の名も汚れる。——それでも、この子を雪の中へ放り出せるか」
ガレンは答えられなかった。規則どおりにすれば母が死ぬ。破れば自分は騎士でなくなり、兄の名まで汚す。どちらを選んでも、取り返しのつかない何かが壊れる。掌の中で、兄の木彫りの鳥がかたく冷たかった。立派な騎士なら、こんなとき、どうするのだろう。兄さんなら、どうしただろう。
沈黙の底で、ブリガがぽつりと言った。
「……規則がだめなら、規則で勝つんだよ。書庫塔へ走れ」
◆三 迷い人条項
「城壁法だ」走り出したガレンの背に、ブリガの声が飛んだ。「大戦より前の古い条文に、迷い人の扱いがあったはずだ。廃止された話は聞いてない。探せ。——夜明けに密貿易の戻り船が出る。それを逃せば次はいつか分からん」
書庫塔は、第七城壁のいちばん古い一角にあった。
黴と埃と凍った石の匂い。夜番の松明一本を頼りに、ガレンは革表紙の法令集を棚から引きずり出した。城壁法。歴代の改定でふくれ上がった条文は、何百と項を連ねている。哨戒の刻限、狼煙の順序、糧秣の管理。指がかじかむ。蝋燭が短くなる。窓の外の空が、少しずつ薄くなっていく。
ない。迷い人などという言葉は、どこにもない。
蝋燭が一本、燃え尽きた。二本目に火を移す指が、かじかんでうまく動かない。凍った頁は指の腹に貼りつき、めくるたびに紙の角が皮膚を裂いた。遠くで、刻を告げる鐘がひとつ鳴った。夜明けまで、あと二つ。
三冊目を閉じたとき、ガレンは石の床にへたり込みそうになった。無駄なのかもしれない。あの待機所の笑い話のとおり、死んだ条文の墓場を漁っているだけなのかもしれない。そもそも百五十年も前の条文が、大戦をまたいで生きているはずが——。
掌の中の木彫りの鳥を、ガレンは握りしめた。
兄さん。あんたなら、ここで諦めるのか。立派な騎士ってのは、規則の中で腕を組んで、九つの子が雪の中へ突き返されるのを見ている者のことか。違うだろう。あんたが命を懸けて守ったのは、規則そのものじゃなくて、規則が守るはずだったものだろう。
ガレンは立ち上がり、いちばん奥の、鎖の錆びた棚に手を伸ばした。大戦前——制定年の古い順。あの待機所の笑い話が、ふいによみがえったのだ。灯りの守りだの、旅人の道案内だの。のんきな時代の決まりごと。……そうだ。戦の前の城壁は、敵を防ぐだけの場所じゃなかった。旅人が道を失う北の国境で、壁は灯台でもあったのだ。笑われていた死んだ条文の中にこそ、あるとすれば、ある。
果たして、それはあった。
857年制定、城壁法。雪と氷の章。ガレンの指が、埃の下の一行で止まった。
——城壁下ニ保護シタ迷イ人ハ、種族ヲ問ワズ、最寄リノ門ヨリ故地ヘ送リ返スベシ。
種族ヲ問ワズ。百五十年前の書き手は、まさか魔族の子がこの条文に救われる日が来るとは思わなかっただろう。だが書いたのだ。種族を問わず、と。迷い人は敵ではない。送り返すのが城壁の務めだと。
ガレンは法令集を抱えて、夜明け前の石段を駆け下りた。
港へ下りる北門の桟橋に、密貿易の船はもう帆を上げかけていた。ブリガがルゥの手を引いて船着き場へ急ぐ。ガレンが追いつき、書類は整った、そう言いかけた——そのときだった。
鋭い誰何の声が、桟橋に響いた。
「止まれ!」
ヴォルツだった。明け番の見回りの槍を構え、その目が毛布の隙間からのぞく小さな角を捉えた。古参兵の顔から、みるみる血の気が引き、それから怒りで赤黒く染まった。
「……魔族。魔族の子だ。隊長、あんた、何を連れている」
腰の笛に、節くれだった手が伸びる。あの笛が鳴れば、城壁じゅうの兵が桟橋に殺到する。ルゥは尋問送り。薬香は没収。すべて終わりだ。明け番の兵が二人、三人、異変に気づいて桟橋の入り口に集まりはじめていた。
ガレンは、前に出た。
考える前に、体が出ていた。ヴォルツの槍とルゥのあいだに立ち、まっすぐに古参兵の目を見る。声が震えないように、腹の底に力を込めた。
「第七城壁夜番、騎士ガレン。この子はおれが城壁下で保護した迷い人です。責はすべて、おれにあります」
「新米……貴様、正気か。魔族だぞ。あいつらがわしの息子を、お前の兄を——」
「知っています」
ガレンは腰帯から兄の形見を外し、掌に載せて差し出した。木彫りの鳥。そしてルゥの胸元の、同じ鳥。ヴォルツの目が、二つの玩具のあいだで揺れた。
「おれは兄を殺した魔族を、憎み方も分からないまま四年、憎もうとしてきました。でもヴォルツさん。この子は誰も殺していない。病気の母親の薬を買いに、たったひとりで海を渡ってきた九つの子です。この子を雪へ突き返しても、あなたの息子さんも、おれの兄も、帰ってこない」
「黙れ。規則は」
「規則なら、ここに」
ブリガが進み出て、法令集を開いた。よく通る声が、集まった兵たちの頭上を渡った。
「城壁法、857年制定、雪と氷の章。——城壁下ニ保護シタ迷イ人ハ、種族ヲ問ワズ、最寄リノ門ヨリ故地ヘ送リ返スベシ。……廃止の記録はない。生きている条文だ。この子は捕虜ではなく迷い人。故地へ送り返す。手続きは規則どおり、書面はわたしが整える。文句のある者は、城壁法ごと文句を言え」
桟橋が静まり返った。兵たちが顔を見合わせる。規則の鬼が、規則を掲げて立っている。誰も反論の言葉を持たなかった。
ヴォルツの笛が、ゆっくりと下りた。
だが槍は下りない。古参兵は歯を食いしばり、絞り出すように言った。
「……わしの息子は、十九だった。夜番に立って、二月目だった。角の影にためらって、笛を吹くのが遅れて、それで」
誰も動けなかった。そのとき、毛布の中から小さな影が進み出た。ルゥだった。震えながら、それでも逃げずに、老兵の前に立ち、深く深く頭を下げた。
「……ごめん、なさい」
九つの子に、何の罪があるわけでもない。それでも子どもは、目の前の大人の悲しみに、知っているただひとつの言葉で頭を下げた。ヴォルツの槍の穂先が、少しずつ、少しずつ下がっていった。古参兵は何かを言いかけ、言えず、やがて海に背を向けた。
「……船が出るぞ。早くしろ」
それだけ言って、ヴォルツは持ち場へ戻っていった。その丸まった背中に、ガレンは深く頭を下げた。
ところが、最後の壁は思わぬところにいた。船頭だった。
「冗談じゃねえ」日に焼けた男は、ルゥの角を見るなり舵柄を抱え込んだ。「行きに紛れ込まれたのは、こっちの落ち度だ。だが帰りに角つきを乗せたと知れたら、わしは次からこの港に入れなくなる。商いってのはな、信用だ。降ろしてくれ」
「乗せるのではない」ブリガは懐から、夜のうちに整えた書面を取り出した。「城壁法に基づく迷い人の送還だ。第七城壁夜番隊長の署名入り。お前さんは密貿易の船頭ではなく、今日だけは、国の依頼を受けた運び手ということになる。……ついでに言えば、送還の駄賃も国庫から出る」
小さな革袋が、ぽんと男の手に投げられた。船頭は袋の重みと書面とを見比べ、それから、にやりと笑った。
「……朝いちばんの、上客だ」
別れの刻、ルゥは木彫りの鳥を小さな両手で差し出した。
「にんげんの、いい顔のひと、いた。おかあさんに、はなすね。……これ、おにいちゃんに、あげる」
ガレンは膝をつき、その手を包んで、鳥をそっと握らせ返した。
「兄さんの分は、もう持ってる」
ルゥは目を丸くし、それから初めて、年相応の顔で笑った。それから思い出したように、ぼろ布の奥を探って、すり減った銅貨を一枚つまみ出した。
「おかね、これだけ、のこった。……おにいちゃんに、あげる。やくそくの、しるし」
「約束?」
「かあさんの、ねつが、さがったら」ルゥは海峡の向こうの闇を指さした。「あっちから、あかり、みっつ。ぴか、ぴか、ぴか。……みてて、くれる?」
ガレンは膝をついたまま、少女の小さな手に銅貨を握らせ返した。二度目の握らせ返しだった。
「船賃に取っとけ。……ああ。毎晩、見てる。おれの持ち場は、ここだからな」
小さな体が船に乗り込み、帆が風をはらんだ。雪の止んだ海峡を、船は北へ、ティーボの闇のほうへ滑り出していった。桟橋に残った夜番の兵たちは、しばらく誰もその場を動かなかった。やがて誰かが、ぽつりと言った。見送っちまったな、敵の子を。別の誰かが返した。敵じゃない、迷い人だ。規則どおりだよ。——低い笑いが起き、それきり誰も、その話をしなかった。
◆四 三度の灯
十日が過ぎた。
夜番のたび、ガレンは海峡の向こうの闇を見た。灯りはなかった。間に合わなかったのかもしれない。船が沈んだのかもしれない。そもそも九つの子との約束など——そう思いかけるたび、掌の木彫りの鳥を握った。
あの朝から、ヴォルツは口をきいてくれなかった。同じ持ち場で、同じ雪を浴びて、言葉だけがなかった。当然だと思った。息子を殺した側の子を、目の前で見逃したのだ。恨まれても仕方がない。
七日目の夜番で、その沈黙が、ふいに破れた。
「……その鳥」古参兵は海峡を見たまま言った。「西の、トッド工房のだろう」
「え……ああ、はい。兄がそう言っていました。よく分かりましたね」
「うちにも、あるからだ」
ヴォルツは、それきりしばらく黙った。松明の爆ぜる音だけがした。
「息子が十のとき、市で買ってやった。……あいつの荷物にも、入ってた。最後まで」
ガレンは何も言えなかった。言葉はどれも軽すぎた。ただ、隣に立って、同じ闇を見ていた。壁のこちら側にもあちら側にも、同じ鳥を胸に抱いて眠る者がいる。それを知ってしまった夜番は、もう知らなかった頃には戻れないのだった。
十一日目の夜番だった。
雪のやんだ、よく晴れた夜。海峡の向こう、ティーボ側の闇の中で、小さな灯りが、ひとつ。
またたいた。二度。三度。
そして、消えた。
ガレンは声を上げそうになるのをこらえ、城壁の縁を握りしめた。峠を越えたのだ。あの子の母親は生きて、あの子は薬香を届けきったのだ。海峡の風が、頬の熱いものを冷たく撫でていった。
「見えたか」
いつのまにか、隣にブリガ隊長が立っていた。無愛想な横顔が、灯りの消えた闇をまだ見つめていた。
「……二十年前になる」隊長は、前置きもなく話しはじめた。「雪山の小競り合いで、わたしは足をやられて動けなくなった。吹雪の中、置いていかれてな。そこへ魔族の武人が一人、通りかかった。敵だ。わたしは剣も構えられなかった。……その武人は、わたしをしばらく見下ろして、それから自分の外套を脱いで、わたしに掛けて、行っちまった。ひと言もなしにだ」
初めて聞く話だった。おそらく、誰にも話したことのない話だった。
「以来ずっと、借りを返しそびれてた。誰にどう返せばいいのか分からんまま、夜番に志願し続けて二十年だ。……先日な、ようやく返せた気がしたよ。利子をつけてな」
隊長は城壁の石に、ごつごつした手を置いた。
「新米。お前、立派な騎士ってのが何なのか、分からんという顔をずっとしてたな」
「……はい」
「わたしにも分からん。だがな、ひとつだけ確かなことがある」
ブリガは海峡の闇から目を離さずに言った。
「壁は憎むために築くのではない。間違えて撃たないために築くのだ」
ガレンは、その言葉を胸の中で繰り返した。壁があるから、こちらとあちらを間違えずにいられる。壁があるから、迷い込んだ子どもを、敵と間違えずに済んだ。憎しみで塗り固めた壁は、いつか間違えて撃つ。この石の壁が百年守ってきたのは、国境ではなくて、その一線なのかもしれなかった。
憎み方は、いまも分からないままだ。けれどもう、後ろめたくはなかった。分からないままでいい。考える前に笛を吹く夜番と、吹けずに立ち尽くす夜番と、両方いてこの城壁なのだ。兄さん、と胸の中で呼びかける。おれは、あんたみたいな立派な騎士になれるかは分からない。でも、間違えて撃たない騎士には、なれる気がするよ。
交代の刻限を告げる声が、遠くの持ち場から渡ってきた。ヴォルツの声だった。いつもと同じ、岩のような声。ただ、すれ違いざまに古参兵は一度だけ足を止め、ガレンの腰帯の木彫りの鳥を見て、何も言わずに持ち場へ歩いて行った。
初雪の季節の第七城壁に、今夜も夜番の松明が燃えている。
壁の内と外で、同じ形の木彫りの鳥が、それぞれの持ち主の胸で温もっていた。




