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「それで、何の話をしていたのだ。あのじじいの話す事だから、どうせ小言に決まってるだろうが」


 瀟洒しょうしゃな広い寝室は、照明を落としてあるので薄暗い。寝台の手前にある、長卓と二脚の長椅子の脇に首の長い照明が灯っているきりだ。妻の顔の輪郭しかわからない曖昧さに苛立って、彼は中央の照明を灯そうとした。


「──今日の会議で話題になった件について、助言を受けました」


 伸ばしかけた手が止まる。長椅子に座る細い影を見返した。

 ぼんやりと白く光る頬の脇を流れる、金褐色の艶やかな髪に一瞬目を奪われ、内心舌打ちしたい思いに駆られる。闇に紛れて尚、滑らかな肌艶は色褪せる事がない。


──美しい女ならば、他にいくらでも西宮にいると言うのに。


「何だと。しかしあの件については、私が却下したではないか」


 楠王は雑念を追いやって答えた。今はそんな事を気にしている場合ではない。


「はい。ですから候は『陛下に嘆願するしかないだろう』と申しておりましたが」


「駄目だ駄目だ!」


 玲彰は顔を上げ、夫を見返した。いつもと違い、両眼には強い意志が浮かんでいる。研究が絡むといつもこうだ、と楠王は更に苛立った。


「皓慧様、今一度説明をお聞き頂いて──」


「何度聞いても同じだ! 其方達研究者は知識に奢るばかりでおよそ人倫と言うものを無視してはばからん。わかっているのか? 意図して生命を創るというのは自然の法則にももとる所業なのだぞ」


 内宮で行われる会議には、国政に直接関わるもの以外にも様々な議題が持ち込まれる。

 研医殿での研究目的についての承認もその一つであり、如何に重要な研究であっても最終的に王の承認が下りなければ研究予算は組まれない事になっていた。


「よくお考え下さい。一方で皐乃街の様に堕胎させる薬が罷り通る世界があるのならば、その逆があってもまた然るべしではないのですか」


 子が生まれぬ夫婦の為の治療薬を研究したい──それのどこが人倫にもとる事なのか。玲彰の揺るぎない態度がそう告げている。

 確かに理屈はわからないではない。

 わからないではないが──


「……あの頑固爺が賛成する筈だな。まるで私に対する当て付けだ。しかもそれを其方が言うとはな」


 怒りを押さえ、低く吐き捨てた。皮肉を通り越して滑稽こっけいだとさえ思える。

 玲彰は何も答えない。黙ったまま、静かに立ち上がった。


「網淵も焼きが回ったものだ。私の逆鱗である事を知っていながら、何故」


 そこまで言って、楠王は口にしようとした言葉を飲み込んだ。


「──何を」


 玲彰は卓を回って夫の目の前にいきなり近づいて来た。のみならず、驚いた事に身に纏っていた衣服を脱ぎ始めたのだ。


「馬鹿な真似はよせ!」


 女の裸など見慣れている楠王ではあったが、流石に唐突な展開に一瞬怯んだ。その隙に玲彰は素早く夫の首にしなやかな腕を巻き付けて唇を奪った。

 ──その感覚を何と呼べば良いのか、彼は表現する術を知らない。

 目眩にも似た戸惑い。ああ触れてしまった、ただそう思った。重なり合った唇から舌を伝って、苦い液体が入り込んで来た事に、気付いたのは随分と後になってからだった。


※※※※


 四年前に玲彰との一件があってから、王はたがが緩んだかの様に漁色を再開した。

 だがそれまでと少し違ったのは、相手にする女を情熱的で奔放な型に限定した事だった。冷静で知識深い女も以前はそれなりに楽しめたものだが、今の彼には苛立ちを誘う存在でしかなくなっていたのである。わかりやすい精神作用とも言えた。


──あんな色気に乏しい女に夢中になるなど、私もどうかしていたものだ。


 記憶が塗り替えられていくうちに、冷静に彼はそう分析した。このままで行けば妻の事など綺麗に思い出になるだろう、とさえ思っていた。

 しかし王と王后は公式行事には必ず臨席しなければならず、その度に結局彼は苦々しい感情に苛まれる事になった。何故これ程までにこの女は人を不愉快にさせるのだろうと、理由を深く考える事もせずに。


※※※※


──それは余りに危険なのではありませんか。


 研医殿の実験室にて玲彰が己の提案を告げると、副院長の坂之内は神経質そうな眉間に更に険しい皺を寄せた。

 貴族出身の上司と違い、民間の出身である彼は生粋の研究者というわけではなく、幾分か良識的な見解も持ち合わせていた。もっとも、彼の上司は桁外れに人の心の機微に疎いから、比較する相手としてはあまり適当とは言えなかったが。


──あれはまだ試作段階です。人で実験するには早いと思います。しかも相手が悪すぎる。もし副作用が出たらどうなさるおつもりか。


 動物実験では何の問題もなかった──そう平然と言い切る上司の神経が、彼には理解出来なかった。この人にとっては、自分を含めた全ての人間が──例え相手が一天万乗の存在であっても、ただの被験体に過ぎないのかもしれない。

 坂之内の困惑など当の本人は意に介した様子もない。責任は私が一人で取る、と話題の的である薬剤を玻璃はりの瓶に詰めている。


──西宮には戻られないのですか。その、以前の様には。


 出過ぎた言動とはわかっていたが、王と彼女の夫婦仲の悪さは国内の全員が知っている。

 返答は短かった。これまた彼の予想通りであったが。


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