承
王は身分柄、その名を呼ばれる事は少ない。
貴族とは違い姓はなく、即位と共に号を前王より賜る。
呼び名は号に尊称である陛下をつけるのが当たり前とされていた。
彼を名前で呼べるのは、彼より目上に当たる前国王夫妻──もう既に亡くなっているが──か、彼と対等とされる王后のみであった。
ならばいかにありえない状況であっても、目の前にいるのは妻玲彰に間違いないのである。
彼女は露台の手摺からなかなか離れようとしない。平生から、表情に乏しい為に感情が読み取れない女ではあったが、今日は珍しく戸惑っているのが楠王にも看て取れた。いつもなら真っ直ぐ彼を射抜いてくる視線が、所在無く床近くを彷徨っている。
「珍しいな。西宮に来ていたのか」
己の声に棘が含まれない様、楠王は注意を払った。
嫌味を言っていると取られたくない──そこまで考えて、彼は自分に呆れた。何と可笑しな精神作用であろう。
この女は他人の心証に気を払う繊細さは持ち合わせていない、それはわかりきっているはずなのに。
「はい、今日は先刻まで内宮にて網淵候と話がありましたので」
──多分、俺自身に聞かせたいのかもしれない。
もう目の前の女には興味も執着もない、その証を己の中に見つけたいのだろう。勿論、微塵もないのだ。全くどうかしている。新婚当初の自分でも度し難い程の執着の記憶は、四年経った今でも彼の中に残っている。感情の残滓が時折蘇る、ただそれだけの事だ。
年を取っても矍鑠としているが故に、信頼度と比例して煙たい存在である老侯爵の名前が出た事に彼は眉をひそめた。
「網淵と? ……珍しい取り合わせだな」
玲彰は答えない。代わりに両腕で自らを抱きしめて如何にも寒そうに身震いしてみせた。
「そんな格好でうろついているからだ。風邪を引いても知らんぞ」
素っ気無く言い放った後で、ふと思い直す。
「候と何の話をしていたのだ」
「……ここでは少し……申し上げるわけには」
およそ彼女にはそぐわない歯切れの悪さ、それが楠王の──最初に抱いたのとは全く違う──興味を誘った。
「何だ、どうせこんな時間だ。人目があるわけでもあるまい」
焦れた彼は、妻のただでさえ青白い顔色が更に青くなっていくのに気づいた。
「わかった。ここからなら其方の殿よりも私の部屋の方が近い。そこで話を聞こう」
と、自ら着ていた外套を彼女の肩に掛けて、足早に先に立って歩き出した。
※※※※
玲彰が西宮の正殿に輿入れした当初、楠王は他の女官を放って毎晩彼女の許に通い詰めた。まっさらな紙の様な透明感溢れる美しさを、己の好みに染め上げようと意欲を燃やしたのである。
彼女は今まで学問しか知らずに育ったせいか、男女の仲について何一つ知識を持っていなかった。深窓の貴族の娘と言えども、乳母や母親からそれなりの知識を教え込まれるのが慣例だったが、彼女はその機会に恵まれなかったらしい。
──まあ良い。変に知識があって抵抗されるより、素直である事だしな。
閨での彼女は、夫に命じられる事に難色を示すでもなく淡々とそれを受け入れた。のみならず、幾度か床を共にするうちに一度でも望まれた全ての事を掌握し、おおいに彼を悦ばせた。無表情なのが玉に瑕だったが、いい妻を得たと最初の内彼は己の選択に満足していたものである。
しかしその満足は長くは続かなかった。いくら時が過ぎても、閨以外の玲彰の夫に対する態度はよそよそしく、平坦なままだった。
数多くの女と関わって来ただけあって、彼は確かに妻が駆け引きを楽しめる様な女ではないと気づいてはいた。
だが所詮は女なのだ。基本的に女は感情ですぐに己を変える。こつさえ掴めばすぐに自分を求めて従うであろう、絶対的な自信があった。あったはず、だった。
──不思議な女だ。
たとえどんなに普段から優しくしても、抱きしめて体温ばかりが上がっても、身体の奥底には氷の芯が通っている。自分は決してそこに辿り着けない──そんな気がした。
今までの楠王なら、さっさと見切りを付けて他の女官へ通うのを再開していただろう。
だが何故か彼はそうはしなかった。意地になって、手を変え品を変え妻の関心を自分に向けようとしたのだ。したたかに傷つけられた矜持を挽回したかったのもあったが、彼女の徹底した「謎」に惹きつけられて、すっかり虜になってしまっていた。
残念な事に、彼の努力は全く功を奏さずに終わる。蜜月も丁度六の月を過ぎた頃、瓦解は突然始まった。
いつもの様に彼が正殿を訪れると、肝心の妻は部屋にはいなかった。いきなり外出していたのである。王が西宮に渡る時、事前に誰の許に行くのか必ず側仕えの女官に告げられる。そもそもが西宮から出られないのが女達の定め、女主人不在は前代未聞の椿事となった。
──申し訳ございません。主はただ今研医殿に出向いております。ご自分がなされました難しい研究を引き継いだ部下の方が、何やら問題を起こしたとの事で。
驚愕と激怒を押し殺した冷ややかな王の怒りに、王后付きの侍女荷葉はひたすら平伏するばかりだった。怒りをなんとか抑えて更に問うと、妻は今晩は疎か数日は戻らないと言い置いて出て行ったと言う。火に油を注ぐが如しだった。
怒りに任せて引き返し、楠王はそのまま研医殿の玲彰の研究室に乗り込んだ。部下数名と計器を睨んでいた掟破りな妻は、罪状を弾劾する夫の言い分をひとしきり聞いた後、
──この部屋は無菌室です。身体を消毒してからいらっしゃいましたか?
とだけ冷静に問いかけた。謝罪する所か、言い訳すらしなかった。
王はそれを機に妻の許へ通うのを止めた。まるで異国の理に暮らすが如き彼女の言葉に、怒りを通り越して寒気を覚えたからであった。
玲彰は玲彰で、夫の夜離れなどどこ吹く風、といった体でほとんど研医殿に入り浸りの生活へと逆戻って行った。
規則を破ったとはいえ、過去に王后が公共施設を経営する例はなかったわけではなく、当の王が考えるのを放棄した為、いつのまにか一件は有耶無耶となった。
以降二人はろくに顔を合わせる機会もないまま、早四年の歳月が流れた。