起
『柳里の華』本編読了後に読む事をおすすめしますが、読まなくても大丈夫なお話となっています。
時間的には本編よりもやや後の設定です。
王宮は濃い夜霧に包まれていた。
雨を予感させる湿った空気が、建物を取り巻く川とも見紛う外堀から流れ込み、深い色の帳となって外界から全てを隠してしまう。それはこの時期の王都付近には珍しくない事だった。
人気のない宮殿の石廊下に、静寂を憚るかの様な密やかな足音が響き渡る。
足音を立てているのは男、名を楠王という。十七ある侯国を支配下に置く、この王宮の主だ。
普段なら眠れない夜は──普通の日でも、だが──どこかの女官の元へ行くなどしている彼ではあったが、たまたま内宮での執務が長引き流石に疲労が情欲を凌いだ。
故に今更女官達の住まう西宮の扉を叩くのも何だか億劫で、眠気が襲うまで自らの起居する内宮で堀の流れでも眺めようと思いついた。ただそれだけだった。
王宮は東西南北と内宮を細長い回廊で繋がれている。各宮殿と違い、外廊は水の影響を鑑みて石で建てられている。支柱に両脇を支えられた廊下を歩き進めると、冷たい感触の音が余韻の尾を引いて霧に溶けていった。
しばらく歩いて目的の露台に近づいた頃、彼の視界の隅をするりと掠める人影があった。
──誰だ……?
最初は怪訝そうに──ややあって好奇心がむくむくと頭をもたげて、彼は足早にその影の後を追った。夜回りの衛兵にしては格好がおかしい。
そう、男ではなく、恐らく──
──若い女だな。
彼が今いる露台は、西宮とも確かにそう離れてはいない。ありえない事ではなかったが、ちらと見た限りでは余り見覚えのない者の様な気がした。王宮に仕える女官は数百人を超える。それでも若く、特に美しい女性は一度見たら忘れない彼であったから、未知の存在にひどく興味をそそられた。
女は露台の手摺に両腕を添える様にして、こちらに背を向けて佇んでいた。薄い羽衣にも似た部屋着一枚で上着も羽織らず、為に上等な布地は緩やかな流れを作って持ち主の細い身体の曲線を柔らかく現している。
水近くの事で一層靄は深く、姿は朧にしか見えないというのに、品良くたおやかな気配が伝わってきた。人ならぬものにさえ思える程に。
こうなると調子が良いもので、さっきまでの疲れなど何処へやら、彼は静かに女の背後、視界が届く程の位置まで歩み寄った。
──いや、見知らぬ女ではないな。
確かに何処かで見た女だ。だが、それが誰のものだったかまでは思い出せない。うっすらとしか覚えていないところを見ると、ここ暫く見ていない女なのだろう──などとあれこれ考える。ようやく考えるのを止めて女に声を掛けようとした時、女の方から後背の気配に気づいたのか振り返った。
「……皓慧様?」
楠王は驚愕した。万民の上に立つ君主として、生半可な事では驚いたり慌てたりしない筈の彼ではあったが、全く予期せぬ人物の登場にかつてない程動揺させられていた。心臓が乱れ打って、鳥肌が立つ程に。
「玲彰──何故、こんな時間にこんな所に」
有に四年もの間、不仲が続いていた彼の妻がそこに立っていた。
※※※※
楠王は、十五の歳を迎える頃にはその漁色の才に目覚めていた。彼は一国一城の主、望めばどんな女でも手に入れる事が出来たが、若い頃から忍び遊びが好きだった。
身分を隠して王都に下り、好みの女を見つけては声をかけて陥落させる。始めは大抵の女は訝しむものである。だが彼の整った容姿と、身に纏った高貴な雰囲気に惹かれる者も中にはいたし、回数を重ねていく毎に次第に女心のどこを突付けば気を──そして身体を許してくれるのかを学んでからは、彼は好きな時に好きなだけその場限りの逢瀬を楽しむ事が出来た。
──王都にこれ以上芳しくない噂が流れるのは、君主の名を汚します。せめて王宮の侍女達にお手を付けるに止めて下され。
ご意見番網淵老侯爵に諫言され、渋々女ばかりの西宮を巡回するようになったのが二十三の歳の事である。
一声名を指せば唯々諾々と寝所に侍る躾が良いばかりの女達は物足りなかったが、楽しみ方はそれまでと変わらない。ただ彼は伽を命ずるだけではなく、女達の話をよく聞いた。
さもその女に関心がある様に、気遣っている様に。
華やかに見えて寂寥溢れる女の園に住む彼女等は、構ってくれる男なら誰でも良いのだ、とある時彼は気づいた。
女の柔肌は心地よかったが、心は裏腹に冷め切っていくばかりだった。
それでも西宮自体は知ってみると中々興味深かったし、話から事によると女たちの内情や綱紀が窺える。取り締まりには確実な情報源だった。おまけに話を聞いてあげる事によって、王であるだけでなく、男としても愛される事を彼は知っていた。好かれるのは悪い気はしないものである。
──貴方様は女性がお好きなのではなく、本当は誰よりも女性を蔑んでいらっしゃる。
いつか宮女の一人が泣きながら彼にこう言った事があった。夜離れを恨んで発せられたその言葉は、彼を永久に女から去らせてしまった。何より厄介なのは女の嫉妬と説教である。そんなものにいちいち向き合わなくても、他に彼を受け入れる女は数え切れないほどいる。また別の女の元へ行けば良い。
だから四年前のあの時、西宮と内宮の往復にさすがに飽きて研医殿に赴き、玲彰に初めて出会った時も彼は思ったものである。──この女もすぐに陥落出来るだろうと。
※※※※
玲彰は王妃となった時に冠された号である。名は粛瑛、国を支える十七本の柱の筆頭、箕浦侯爵の長女だった。
幼少の頃から神童の誉れ高い閨秀で、当時父親が長を務めていた研医殿において二十歳という破格の若さで局長の位を頂いたのは、決して七光りなどではないとつとに有名だった。容貌も浮世離れする程に美しかった彼女は、一目で漁色の王の食指をそそった。
とんでもございません、あれは少々風変わりな所がございます。とてもお后様など務まりません──あくる日、楠王が王宮にて彼女について尋ねた時、本人の父親は苦笑しながらそう言った。
楠王は既に二十八の歳を迎えており、さすがにそろそろ王妃を迎えねばならなかった。
彼自身は、西宮の女の誰かが子を成せばその者を立后する気でいたが、なかなかそう巧くは行かない。侯爵達の──網淵候が特に──后を、という意見は最早無視出来ないものになっていた。だから聞くついでに「粛瑛を后に迎えたい」と、彼は箕浦に至極何の気なしに提案したのである。筆頭侯爵の娘で賢い上に美貌となれば、これ以上の縁組はない様に思えたから。
事この件に関して侯爵から拒否される筈などないと高を括っていた楠王は、重ねて固辞する臣下に面食らった。
王妃ともなれば、国の貴族の娘もその親も、一度は夢見る地位だとばかり聞いていたし、王が身を固める様箕浦もまた強く願っていた筈である。彼ほどの重鎮が、自分の娘を嫁に出せないとはどういうわけか。
矜持も手伝い楠王は意地になって、手を変え品を変え父親を説得しようと試みた。最初は頑として譲らなかった箕浦であったが、何日か説得が──時には断れば王妃は迎えない、などという脅しが──続いたある日、彼はようやく首を縦に振った。単に根負けしたのではなく、それまで拒絶していた当の本人である粛瑛が、いきなり承諾した為であったという。
こうして彼女は楠王の閨房に入る事が決まり、西宮はようやく王后を迎える次第となった。