働くことが、もう噂になっている
最近、妙に人が寄ってくる。
朝の仕込みの最中、鍋に火を入れたばかりの時間でも、
店先でうろうろする影がある。
「ここで働きたいんです」「給金、ええって聞きました」
その言い方に、博之は一瞬だけ眉を動かす。
声の調子、立ち方、目線。言葉より先に、そういうところを見てしまう。
給金がええ、は事実や。この町で比べたら、悪いほうやない。
せやけど、それだけで来る人間は、だいたい長続きせえへん。
博之は、手を止めて聞く。
「なんで、ここや?」それだけの問いや。
せやけど、そこで詰まる者は多い。
目を伏せる者、笑って誤魔化す者、
「どこでもよかった」と口を滑らせる者。
そういう顔を見るたび、博之は心の中で線を引く。
中には、正直な者もおる。「評判がええからです」
「怒鳴られへんて聞きました」
それはそれで、悪くない。でも、それだけでも足りへん。
そんな中で、ふとした拍子に、一言だけ違う答えが出ることがある。
「ここで働いたら、次に行ける気がするんです」
そう言うた若い女を、博之は少し長く見た。
声は大きすぎず、小さすぎず。
背筋は伸びているが、肩に力は入っていない。
目は、店の中をきちんと見ている。
店で働くこと自体が、いつの間にか“値打ち”になり始めている。
これは、博之が狙ったわけやない。誰かに触れ回った覚えもない。
ただ、筋を通してきただけや。給金をごまかさへん。
怒鳴らへん。無理なことを無理と言う。育った者を、引き留めへん。
人が育って、出ていく。残った人間が、また次を育てる。
その循環が、気づかんうちに町に伝わっていた。
「あそこの店で働いとった」それだけで、次の口が見つかる。
それは、ありがたいことや。
せやけど同時に、怖いことでもある。
博之は浮かれへん。むしろ、気を引き締める。
「期待が先に立つと、しんどなる」
期待は、裏切ったときの反動がでかい。
それは、店にも、人にも返ってくる。
だから博之は、今日も簡単には首を縦に振らへん。
店の湯気の向こうで、人の声が行き交う。
ここで働くことが噂になる。それは、もう始まっている。
せやからこそ、博之は慎重になるしかなかった




