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戻らない場所、進む先

 翌日の夕方、主人はまた現れた。

 今度は、路地の入口で立ち止まらなかった。

 まっすぐ店の前まで来て、暖簾を見る。

 博之は、火の具合を確かめながら、その気配を感じていた。

「……話の続きだ」

 主人は、そう切り出した。

「条件は、飲む」

 博之は、すぐには顔を上げなかった。

「仕入れは、お前に任せる」

 町人が、奥で黙って聞いている。

「値段もだ。俺は口を出さない」

 それは、昨日よりも一段、踏み込んだ言葉だった。

「料理場にも立たせる。前みたいな扱いは、しない」

主人は、そこで一度、言葉を切った。

「……頼む」

 博之は、ようやく顔を上げた。

 感情が、顔に出る。だが、今は隠さなかった。

「ありがとうございます」

 丁寧な声だった。

 主人の表情が、少し緩む。

 ――だが。

「戻りません」

 短い言葉だった。

 はっきりしていて、迷いがない。

 主人は、一瞬、意味が分からなかったような顔をした。

「……何?」

「条件は、ありがたいです」

 博之は、静かに続けた。

「でも、それは俺が決める条件じゃない」

 主人の眉が寄る。

「料理場に戻れば、また誰かに安くしろと言われる」

「言わせねえ」

「今は、です」

 博之は首を振った。

「店が苦しくなれば、また同じことが起きます」

主人は、反論できなかった。

「俺は……」

博之は、鍋に目を落とす。

「自分で決めて、自分で責任を取る場所にいます」

 それが、答えだった。

 主人は、しばらく黙って立っていた。

 そして、小さく息を吐く。

「……そうか」

 悔しさより、諦めに近い声だった。

「お前は、最初から、こういう男だったんだな」

 博之は、何も言わなかった。

 主人は、振り返り、去っていった。

 背中は、昨日よりも小さく見えた。

 しばらくして、町人が口を開いた。

「よかったのか」

「後悔は、しません」

 博之は、即答した。

「……戻ったら、楽だったとは思います」

「だろうな」

「でも」

 博之は、少しだけ間を置いた。

「楽な場所で、いい飯は出せません」

 町人は、黙って聞いていた。

 それから、初めて

 少しだけ、話し始める。

「俺の親戚に、大坂で商いをしている者がいる」

 博之は、顔を上げた。

「でかい家だ。飯の値段も、桁が違う」

「……なるほど」

「だがな」

 町人は、博之を見る。

「うまい飯は、ああいう場所には転がっていない」

 博之は、黙って頷いた。

「だから、歩く」

「汚い格好で?」

「ああ」

 町人は、わずかに笑った。

「腹を空かせた顔でな」

 博之は、ふっと息を吐いた。

「……騙された気は、しません」

「騙してない」

 即答だった。

「三十文の豚汁は、三十文の価値がある」

それだけ言って、町人は立ち上がった。

「博之」

 初めて、名を呼んだ。

「お前の飯は、大坂でも通用する」

 博之は、少し驚いた顔をした。

 そして、照れたように視線を逸らす。

「……まずは、明日の仕入れからですね」

 町人は、満足そうに頷いた。

 鍋の中で、豚汁が静かに湯気を立てている。

 博之は思った。

 戻らなかった。

 間違っていない。

 ここから先は、

 自分で決めた道だ。

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