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料理見習いから反物見習いへー向いてる仕事へ背中を押してやるー

反物屋に皆で出かけたあの晩、

博之は一人、帳場で灯りを落としたまま考えていた。

三井の小間使いの背中。布を前にしたときの、あの落ち着き。

包丁を持たせたときとは、まるで別人やった。

——この店に縛るのは、違う。

そう思ったとき、胸の奥が少し痛んだ。

せやけど、それは惜しさやなく、

送り出す側の覚悟の痛みやった。

翌日、博之はユキを呼び止めた。

「一つ、頼みがある」ユキは、すぐ察した顔をした。

「……あの子か」「せや。反物屋、向いとる」

「この店で抱えとくより、あっちで育ったほうがええ」

ユキは、しばらく黙ってから笑った。

「相変わらず、目ぇ早いな」

「三井の反物屋なら、話は通せる」

「せやけどな、本人が腹くくらなあかん」

その日の夕方、博之はその小間使いを呼んだ。

他の者は下がらせ、二人きり。

「お前な」「この店、向いてへんと思てるやろ」

小間使いは、驚いたように顔を上げた。

言い訳しようとして、口を閉じる。

博之は、続けた。「でもな、反物屋では、顔が違った」

「布の前に立ったとき、仕事しとった」

小間使いの肩が、わずかに震えた。

「……怖いんです」「また、向いてません言われたら」

博之は、静かに言った。

「向いてへん場所で、粘るのが根性やと思うな」

「向いてる場所に、行く勇気も、商売人の才や」

一拍置いて、決定打を出す。

「ユキに頼んだ」「反物屋、話つける」

「行け」しばらく、沈黙。

やがて、小間使いは深く頭を下げた。

「……ありがとうございます」

翌週、ユキの口添えで、反物屋のだんなと正式な話がまとまった。

「博之の店で見た」「三井の筋もある」それだけで、十分やった。

送り出す日。店の者たちを集め、博之ははっきり言った。

「今日で、この店は卒業や」「クビちゃう。栄転や」

給仕の女が、思わず声を上げる。「よかったですね!」

料理人も、うなずいた。「反物屋なら、ええとこ行けますわ」

本人は、何度も頭を下げた。言葉は少なかったが、目は澄んでいた。

数日後。町で、こんな噂が流れ始める。

「博之のとこ、人、ちゃんと育てて出すらしいで」

「辞めたやつ、反物屋で重宝されとるて」

「使い潰しちゃうんやな」

派手な評判やない。せやけど、確実に効く噂や。

反物屋のだんなも、言うた。

「また、あの店から来るなら、考えますわ」

博之は、それを聞いて、何も言わんかった。

ただ、帳面を閉じる手が、少しだけ軽かった。

店を大きくするいうのは、人を抱え込むことやない。

人が、それぞれの場所へ行ける道を作ることや。

細路地の灯りは、今日も変わらん。せやけど、その下で、

この店の“格”は、静かに一段、上がっていた。

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