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店では鈍い三井の小間使いが光る日

その三井の小間使いは、正直に言えば、店では鈍かった。

包丁の運びも遅い。段取りも半拍ずれる。

給仕に回せば、声が小さく、客の間合いも掴みきれない。

怒られるほどではない。せやけど、褒められる場面もない。

本人が一番、それを分かっていた。

そんなある日、博之はユキから一言、耳打ちされた。

「反物屋、行くんやろ。あの子、連れてったらええ」

博之は少し考えてから、うなずいた。

「せやな。場、変えたほうがええ顔するかもしれん」

その日、店を少し早めに切り上げ、

給仕の女たち、料理人、下働き数人と一緒に、反物屋へ向かった。

敷居は、やはり高い。戸口の前で、皆、自然と背筋を伸ばす。

以前一度通されたとはいえ、慣れる場所やない。

その中で、三井の小間使いだけは、少し様子が違った。

中に入るなり、布の並びを見て、足を止める。

手に取らず、距離を測るように眺める。

反物屋のだんなが、それに気づいた。「……見慣れてますな」

その一言に、空気が変わった。「三井で、帳場と仕入れを少し」

小間使いは、そう答えた。すると、だんなの視線が一段、深くなる。

博之は横で、それを見ていた。ああ、これはこの子の場や、と。

「ほな、こっちも見てみますか」

そう言って、だんなは奥から反物を一反出した。

給仕の女たちが、思わず息をのむ。料理人も、布の艶に目を奪われる。

小間使いは、そこで初めて口を挟んだ。

「これ、火のそばでも持ちます」「ただ、給仕さんには、こっちのほうが軽い」

その言葉は、迷いがなかった。布の扱い方も、畳み方も、無駄がない。

反物屋のだんなは、完全に態度を変えた。

値段の話になる前に、用途を聞く。何人分か、どれくらい着るか、

洗いはどうするか。博之は、ここで一言だけ添えた。

「まとめて、や」その瞬間、だんなが小さく笑った。

「……それなら」

値段は、確かに下がった。

三井の名が効いたのも、否定はせん。せやけど、それだけやない。

帰り道、給仕の一人が言った。

「なんか……ちゃんと客扱いされましたね」

料理人がうなずく。「値切り合戦ちゃう。話、聞いてもろた」

博之は、そこで足を止めた。皆を見回して、はっきり言った。

「三井の口利きもある」

「けどな、それだけやったら、あんな奥の反物は出てこん」

一拍置いて、続ける。

「お前らの給金が、安うないからや」

「反物屋はな、“払える客”にしか、時間を使わん」

その言葉に、場が静まる。次の瞬間、誰かが笑った。

「……そら、頑張りますわ」

「これ着て働く思たら、だらしないことできませんね」

三井の小間使いは、少し照れたように頭を下げた。

「……店では役に立ててませんけど」

博之は、首を振った。「場が違うだけや」

「向いてるとこ、ちゃんとある」

その夜、店に戻ってから、空気は明らかに変わった。

給仕の声が、少し張る。料理人の背中が、まっすぐになる。

反物は、ただの布やない。それを着ることで、

「自分はこの店の人間や」そう実感させる力がある。

三井の小間使いは、その中心に、静かに立っていた。

自分にも、役目がある。そう思えた顔をしていた。

博之は、その様子を見ながら、帳面を閉じた。

店が回るいうのは、鍋の数やない。

こういう瞬間が、積み重なることや。

細路地の灯りは、今日も静かやった。

せやけど、その下で、人の気持ちは、確かに一段、上を向いていた。

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