探してきた男
夕方前、鍋の湯気が少し落ち着いたころだった。
路地の入口に、立ち止まる影があった。
博之は、すぐに気づいた。見間違えるはずがない。
元の主人だった。着物は整っているが、どこか張りがない。
背中が、少し丸い。主人は、店の前で立ち尽くし、
しばらく中を覗いていた。客が椀を持って出てくる。
銭を置いていく。その流れを、黙って見ている。
博之は、声をかけなかった。かける必要がなかった。
「……博之」
向こうから、名を呼んだ。通称ではない。本名だった。
「久しぶりですね」
それだけ言って、博之は火を見る。
「……繁盛してるようだな」
「そうでもありません」
嘘ではない。
まだ、小さな店だ。
主人は、一歩だけ中に入った。
だが、座らない。
「飯を食いに来たんじゃない」
博之は、何も聞かなかった。
「……うちが、少し苦しい」
主人は、言葉を選んでいる。
「客が、減った」
博之は、頷きもしなかった。
「味が落ちたと言われる」
それも、言われなくても分かっている。
「お前が抜けてからだ」
その一言で、空気が変わった。
博之は、初めて主人を見た。
「俺は、安くしろと言った」
「はい」
「量を出せとも言った」
「はい」
「……だが」
主人の声が、少しだけ低くなる。
「お前は、味を守っていた」
博之は、黙っていた。
言えば、角が立つ。
言わなくても、もう伝わっている。
「戻ってこい」
短い言葉だった。
「条件は、前より良くする」
博之は、すぐに答えなかった。
町人が、奥から様子を見ている。
何も言わない。
「……料理場に、立たせる」
博之は、ゆっくり息を吐いた。
「遅いです」
初めて、はっきり言った。
主人の目が、揺れた。
「ここでは、俺が仕入れを見ます」
「……何?」
「値段も、俺が決めます」
主人は、言葉を失った。
「安くするためじゃありません」
博之は続けた。
「味を落とさないためです」
しばらく、沈黙があった。
主人は、店の中を見回した。
鍋。
帳面。
客の顔。
「……考えさせてくれ」
それだけ言って、背を向けた。
去り際、振り返る。
「お前は……変わったな」
博之は、首を横に振った。
「変わってません」
変わったのは、
立っている場所だけだ。
主人の背中が、路地の向こうに消える。
町人が、ようやく口を開いた。
「戻ると思うか」
「分かりません」
博之は、鍋をかき混ぜる。
「ただ……」
「ただ?」
「俺はもう、
安くさせられる側には戻りません」
町人は、静かに頷いた。
鍋の中で、豚汁が小さく揺れていた。




